我を忘れるのがスポーツ、我を思い出すのが体操
故濱田 靖一
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人間の脳は一番上に人間の文化を築きあげた大脳皮質があり、その下に情動に関係した辺縁系がある。更にその下に生命維持に必要な脳幹がある。 闘争とか競争とか言うスポーツの魅力の要素は、この脳幹に関係することが多い。何をおいても勝ちたいとか、我を忘れて頑張ると言う気持ちの出所は、この脳幹である。 これに対して、体操は、健康になるのにどんな身体活動があるだろうか、という生活の中の課題に対して、色々工夫して作ったものであるから、当然大脳皮質の産物である。 言い換えれば、スポーツは本能を足場にして生活の中から生まれてものであるのに対して、体操は必要に応じて考えて作ったものである。前者が興味を対象にしているのに対して、後者は健康を狙いとしている。どちらも人間だけが持つ大切な身体活動の文化財であり、どちらが良いとか悪いとか言うのではないが、同じ身体活動でも、性格的に大きな相違があることを把握しなければならな。 人付き合いの上手な人は、よく相手の性質を見抜いて、陽気な人、短気な人等、それぞれに合わせる(fit)からで、健康法との付き合いも、よくその性格を掴んで、自分の生活や体質と噛み合わせることが大切である。 歴史的にもスポーツのほうが遥かに古い筈である。恐らくスポーツ的な動作は、人間の歴史と共に古いと言えるのではないだろうか。それに対して体操は、人間が社会を形成し、仕事、それも分業という作業のやり方を考案してからの産物であろう。即ち、スポーツが脳幹を足場にしているのに対して、体操は大脳皮質の作品である。 ……実際スポーツというものは、思想的にはがらんどうの世界だが、そこが面白いので、肉体の原始が復活して、精神の文明がしばらく敗北するところに含蓄がある。いわば文明からの解放感が、いじめられ通しの魂に喜びを与えるのである。…… 詩人村野四郎氏の言葉で、スポーツの一面を捉えた含蓄のある表現であると思う。スポーツは当然、興味が中心になるが、これを支えるものは、闘争本能とか集団帰属の欲求、社会的承認の欲求等が、色々に入り交ざって興奮状態を醸成することが多い。即ち、肉体の原始が復活するわけである。ところが、肉体の原始の復活が激しすぎて、なかなか元に戻らない場合がある。これが我を忘れた状態で、時に常軌を逸したり、事故に結び付くことが時々ある。この欲求の心や本能的な行動も、当然、心の座である大脳皮質が統合されている筈である。 スポーツのルールというのは、肉体の原始の活動を制御するレールである。マナーもスポーツマンシップも、原始の肉体の監視役に他ならない。ところが人間の興奮は伝播し、感染し、スポーツを実施している本人連よりも観衆の方が興奮度が高くなり、事故に結び付くことがよくある。特に国際的なサッカーに多く、事故の本体は観衆である。村野氏も言っているように、我を忘れることは、勿論悪いことではない。むしろ我を忘れるところに、解放感や魂の貴びがある。時に人は、我を忘れる時を持つことが必要なのである。とは言っても、肉体の原始がいつまでも居座っていては困る。スポーツが終わったならば、肉体の原始は、サッサと花道を引き揚げなければならない。ここが大切なので、スポーツを教育する時は、ここがポイントにならなければならない。 さて人間の体は動くように出来ているし、動きたいという欲求をもっている。 体を動かすことが、健康のためによいというとは、昔から言われている。しかし、それは適当にという前提がなければならない。ところがスポーツは、「勝ちたい」 「勝たねばならない」という欲求の前に、この前提がいとも簡単に放棄されてしまうのである。特にその背後に、政治力や国威がかかって来ると歯止めが効かなくなってしまう。今年(1985)の文芸春秋の6月号に、正垣親一氏(ソ連問題研究家)の「ソ連メダリスト59人は何故死んだか?」という、戦慄するような記事を読まれた方は多いと思う。スポーツ選手のドーピング(薬物使用)の恐ろしさへの警告である。 ソ連では、光栄のメダリスト59人(金メダリスト24人、銀9人、銅13人、4位以下13人)が密かに死んでいた。彼らの平均寿命は41・5才であった、というのであり、1952年から82年のオリンピックでのメダリストの死亡者のグラフまで載っている。中の記事を少々抜粋させてもらうと、 ソ連では20、30才のメダリストの死亡者が増え、40才でピークを迎える。…つまり、ソ連の花形選手にとって50、60台にたどりつくことは至難の業なのである。…ソ連ではメダル獲得数の増加を維持するため、よりたくさんの若い選手をかき集めている。次に新たな薬物と独自の訓練、技術を大量に駆使している。危険な薬物の助けを借りなくても、若すぎる選手に、回復も休息も考慮に入れず、長期間、過剰なストレスを与え続けると、早死にさせてしまうことになる。‥云々 というのである。 オリンピックのメダリストなどは何百万人の中の特定の人達で、彼らの寿命が短いから、草野球をやるスポーツマンも早死にする、という結論にはならない。しかし、スポーツが健康や長寿に全面的に適合するものではないということは、段々と分かって来た。このことは大変良いことであり、嬉しいことである。人間は、モルモットのように隔離して、スポーツと健康・スポーツと長寿の関係を、数学として捉えることは出来ない。 | |