玄清法印



玄清法印記念碑
四王寺山山頂


筑前琵琶の流れ
(福岡市内高宮の成就院内)

筑前琵琶発祥の碑
(福岡市内高宮の成就院内)


玄清法印は大宰府の出身。766年にうまれ、幼名を乙丸といった。
父親は当時都から西下してきた橘光政。乙丸は7歳のとき受戒し、名を玄清と改める。
17歳のとき眼病を患い失明し盲僧となる。
20歳のとき、心願を起こして庵にこもり7日間の断食をした。
琵琶を弾じたところ「京都比叡山の最澄に会うべし」と託宣がくだる。
最澄から毒蛇退治を依頼された玄清は、琵琶を弾じ地神経を読むと、山陰にひそむ毒蛇 はことごとく退散してしまった。
最澄は玄清の功績をたたえ、天台宗「仏説宗」の名称を与え、 「この経をもって天下国家天長久の祈りとせよ」とつげる。

当時、大宰府では天然痘が大流行し人々は悪病に苦しみ続けていた。 故郷に帰った玄清は、旅の疲れをいやす暇もなく四王寺に登り 、悪病消滅の祈りに打ち込む。
天然痘はまもなく潮をひくようにおさまり、これが四季「土用の日」に行われる荒神祭の起源とされている。
盲僧・玄清の名前は全国に広がり、各地の盲人がつどい集まった。
789年には本山成就院が大宰府坂本の地に開かれる。
地神を鎮める玄清の教えは「十哲」とよばれた弟子達に受け継がれ、「盲僧琵琶」は各地に広がって いく。民家のかまど開きや、水神祭の時には独特の荒神経が読まれた。
823年、弟子の盲僧達に見守られながら玄清は入滅し、墓は大宰府坂本にある。 その後、記念碑が四王寺山頂・焼米が原に建てられた。