五卿滞在
延寿王院
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松 屋
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太宰府は激動する幕末政争の震源地のひとつであり、維新史の思想統一の場だった。
薩長連合の母体となり、三条実美と京都の岩倉具視を直結させるアジトとなったのである。
太宰府にやってきた五卿の運命は、数奇な道をたどった。
1863年の八・一八クーデターで、官位を剥奪され長州へいわゆる”七卿落ち”した三条実美ら7人
の公卿は、三田尻、湯田と転々としたあげく、第一次征長戦争の停戦条約にしたがって九州へむかった。
うち沢宣嘉は平野国臣とともに生野で挙兵し、錦小路頼徳は結核で病死した。
五卿は九州入りして大宰府に全員預けられた。
五卿の宿舎は、延寿王院と決まり、福岡藩の監視下に軟禁されることとなった。
上水城、阿志岐、二日市、針摺、武蔵などに見張り番所が置かれた。
大宰府天満宮参道つきあたりに宮司・西高辻邸がある。
江戸時代までは、安楽寺延寿王院といわれていた。
三条らは、この邸内で坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文ら尊王倒幕の計画を練ったのである。
これら志士たちが大宰府にとまった泉屋、大野屋、松屋などの旅館は、今はみやげもの店にかわり
、屋号の看板がみられるだけである。
五卿滞在3ヵ年の史話、逸話はまことに多く、現在、五卿記念館が建設され、その遺物および
参考品などは天満宮の宝物館に陳列されている。
また二日市、通古賀、関屋、水城などの旧家には五卿の遺墨を散見することができる。
さらに太宰府や二日市温泉周辺には、五卿の歌碑がつくられている。
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三条西実智歌碑
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三条西実智
歌碑
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三条実美歌碑
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東久世通禧
歌碑
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四条隆謌歌碑
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壬生基修
歌碑
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