野球界の名伯楽
 大宰府にある筑紫台高校 |
ボクシングの世界で多くの世界チャンピオンを育てたエディ・タウンゼントという名トレーナーがいた。 1914年に 弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と山口県出身の日本人の母の子としてハワイで生まれた。母はエディが3歳の時に病死したが、11歳からボクシングを始め「無敗」のハードパンチャーとして活躍した。
ハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになったが、真珠湾攻撃のために、エディは日本人の血を引いていることもあり、それまでもてはやしていた仲間達は次々と去り孤独の身となった。
そしてエディは、ボクサーに見切りをつけトレーナーとして次の世代を担う人材育成を志すようになった。
当時、日本のプロレスラーの力道山はボクシング進出を企図しており、自らの名を冠した「リキボクシングジム」を設立していた。そして、自ら所有する都心の一等地にビルを建て、1962年に当時ハワイでボクシングトレーナーとして実績のあったエディ・タウンゼントを強引に連れてきてトレーナーとしたのである。
この時エディは48歳で、以後、藤猛(スーパーライト級)、海老原博幸(フライ級)、柴田国明(フェザー級、スーパーフェザー級の2階級制覇)、ガッツ石松(ライト級)、友利正(ライトフライ級)、そして井岡弘樹の6人の世界王者をはじめ、「和製クレイ」と称されたカシアス内藤や「浪速のロッキー」と称された赤井英和(現在は俳優)等の名選手を育て上げている。
しかし多くの世界チャンピオンを育てたにもかかわらず、エディの生活は一向に豊かにならず、彼の日本人の妻はスナックを営むことでタウンゼント家の生活を支えたという。当時日本のボクシングジムでは当たり前のように指導用の竹刀をつかっていたが、牛馬みたいに叩かなくても言いたいこと言えば分かると拒絶した。また選手のボクシング引退後のことを考え、勝てる可能性がないと判断すると、タオルを投入するのは誰よりも早かったといわれている。
またエディは勝ったボクサーの祝賀会には一切参加せず、負けた選手にはずっと付いて励ました。 ボクサーは勝った時には友達いっぱい出来るから自分はいなくてもいいが、負けたボクサー励ますのが自分の役割だと考えていた。
エディは生涯に6人の世界王者を育てたが、エディが育てた最後のチャンピオンが井岡弘樹である。すでに老人となっていた自らと少年との年齢差から生まれる様々な違いに戸惑いつつも、自らの指導とその人柄に全幅の信頼を寄せる「マイボーイ」に最後の情熱を賭けたといえる。 そうして名実ともに二人三脚で世界チャンピオンへの道を歩み続け、ついにストロー級の「初代世界王者」となるのである。しかし、その頃からエディは体力の衰えを覚えるようになり、直腸ガンに冒されていることが判明した。
しかし車椅子に乗りながらも井岡少年の指導を続行した。そして、1988年1月31日、大阪城ホールで行われた初防衛戦で井岡弘樹が世界同級1位の李敬淵(大韓民国)と戦った。井岡が挑戦者の李を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインをかかげた後に静かに息を引き取ったという。享年74歳であった。
過去に育て上げたボクサーたちに「エディに最も愛されたボクサーは誰か」という質問をしたところ、皆迷うことなく「自分が最も愛されたボクサーだ」と答えたというエピソードがある。
さて福岡には野球の世界で多くの名選手を育てた「名伯楽」といわれる人がいる。「名伯楽」とは、中国周代の馬を見分ける名人のことをいう。福岡の野球界の「名伯楽」とは高畠導宏氏である。若い日の選手としての挫折、若者を育てる情熱、夢なかばで病に倒れた点などエディ・タウンゼントと共通するものが多い。そして何より、二人ともいい意味での「人たらし」であったという点がよく似ている。
高畠氏は南海ホークスの選手 (1968〜1972)して活躍し、29歳で南海ホークスのコーチとなった。それ以後のコーチ歴は延べ7球団で30年にもおよび、打撃コーチとして数多くの好打者を育て上げた。
プロ野球入りのきっかけは、中央大学4年生だった時に、読売ジャイアンツから5位指名を受けた。しかしこれを断り、日鉱日立(ノンプロ野球チーム)へ入り、全日本の四番の強打者として鳴らした。その実績を評価されて1967年、南海ホークスからドラフト5位指名を受けてプロ入りを果たした。 南海ではノンプロ時代の実績から先輩の野村克也とクリーンアップを打つ左の強打者として新人王をも期待されたが、練習中での怪我が響き大きな実績を残すことなく選手生活を終えた。
引退後の1973年に野村兼任監督にその研究熱心さを買われ、29歳の若さで打撃コーチに抜擢される。現在のソフトバンクつき解説者の藤原満(当時南海ホークス)のバットの太さがいまだに記憶に残っているのだが、これは高畠のアドバイスによるものだった。 藤原選手は高畠コーチの助言で、グリップが太く1キロ以上の重量があるタイ・カッブ式バットを特注で製作し、バットを振るのではなくボールにバットをぶつけてゴロやライナーを数多く撃てる「アベレージヒッター」に育てられた。
しかしアイデアマン高畠コーチの「真骨頂」は、なんといってもその練習内容である。その1つはバットを投げる練習である。これは正しいバットの軌道を掴み、バットをなるべく身体の近くを通す、つまりインサイド・アウトでバットを出せるようにするための練習だった。もちろん打つためのバットではなく、投げるためのバットを用意した。 しかしプロ野球の選手が、無人のグランドでバットを投げ続ける風景を見たら、気が狂ったとしか思う他はないだろう。
1977年、野村監督解任に伴いロッテオリオンズに移籍した。高畠氏は、ロッテ・コーチ時代の12年間で落合博満や水上善雄らを育成した。落合博満(ロッテ在籍時)に対しては、「オレ流」の性格を考えて「グリップの高さを10cmほど高くしたらどうだ」というアドバイスだけを送ったという。落合は、ロッテ在籍8年間で3度の「三冠王」に輝いている。
また当時のロッテからは落合以外にも高沢秀昭、西村徳文が首位打者となり、高畠は名コーチの評価をうけるに至った。 1990年には野村氏のヤクルト監督就任に伴いヘッド兼打撃コーチとしてヤクルト入団したが、野村監督との確執が生じ、この年限りで退団した。ヒガミっぽい野村からすれば、対戦相手チームの選手やコーチが試合前に高畠氏の処に挨拶にいったり、感謝の礼を言うのが気にいらなかったこともあったに違いない。 裏をかえせば、それだけ高畠氏の人望があったということである。 1991年からは、選手生活を送った「古巣」ダイエーに戻って4年間打撃コーチをつとめた。 以後も、中日ドラゴンズ、 オリックス・ブルーウェーブ 、千葉ロッテマリーンズ の打撃コーチとなった。
高畠氏は結局7球団を渡り歩いて落合、イチロー、小久保、田口などの30人以上のタイトルホルダーを育てたのだから、「名伯楽」という言葉に相応しい人物であった。
しかしある時期から、高校野球の指導者となることへの思いが強くなり、1998年中日で調査役をしている間に日本大学の通信課程に入学し、5年かかって教員免許を取得した。もともと高畠氏に教師になるという希望はなかったであろうが、プロの選手に対して技術の面だけではなく、精神的な指導の勉強をしたいということから「心理学」の勉強を始めた。選手に対して何か違うアプローチをしたいという研究熱心さが、高校野球の指導者になるという気持ちを生んだのかもしれない。
そして2003年、59歳の時に以前に教育実習を受けた私立・筑紫台高校(福岡県太宰府市)で教職につく道が開かれた。 これは中央大学の野球部の先輩が、筑紫台高校の校長と小・中・高を通じて親友であったことから紹介されたものだった。この時、当時の筑紫台高校の校長は高畠氏につき次のような印象を語っている。
「指導者としての魅力と可能性を感じたからです。教師というのは、一度飛び込めばそのままです。でも、高畠先生は、一年一年契約の世界で生きてきた人。真剣勝負の中で本物の指導をする人だけが生き残ってきた世界の人なので、特別、魅力と迫力を感じたんだと思います」。
高畠氏には、氏のために頑張りたいと思わせてしまう人間力が備わっていたといえる。 高畠コーチの本髄は、「選手をホメテ育てる」ことにあった。選手の欠点は直そうとしても直るものではない、少なくとも欠点ダケを直そうとしても無理で、選手に自分の「欠点」を意識させることなく、長所を伸ばすことによって、知らず知らずのうちに欠点を克服させるというものだった。 こういう流儀も高畠氏の長年の「人間洞察」に基づくものであったのだろう。 高畠氏は生徒たちと共に甲子園を目指すべく「第二の人生」が始まったかに思えたが、職員会議で自らが癌である事を告白し、赴任わずか1年半後に亡くなった。 高校球児を率い、監督として甲子園球場のグラウンドに立つという最後の夢は叶わなかった。享年60であった。
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