安徳宮




安徳宮

安徳公民館

平安時代末期には、昔日の大宰府の威光は薄れていた。
1183年、安徳天皇が平家一門に擁せられて、太宰府に落ち延びてきた。
安徳天皇は高倉天皇の第一子、母親は清盛の女・建礼門院・徳子である。
三歳で即位して、平清盛死後、平家は没落の一途をたどり、昔日の繁栄は今や一朝の 夢と化し、東国から源氏の追討をうけ、太宰府までも逃れた。
「平家物語」によると、一門は安楽寺に参り、終夜歌詠み、連歌をしている。 安徳天皇は、坂本の善正寺、筑紫郡那珂川町安徳にある原田種直の居城を行在所としている。
天皇はその後、一時遠賀郡の山鹿秀遠に迎えられ、しばらく山鹿の城に落ち着いたが、 ついで豊後の柳ケ浦に移り、再び海に浮かんで讃岐の屋島に行在所を営んだ。
その後、瀬戸内海を西に西に追われついに壇ノ浦に入水したことは広く知られた史実である。

ところで大宰府は、平家が早くから注目していた場所でもあった。
清盛の父・忠盛は、鳥羽上皇の信任を得て西国諸国の受領をつとめていた。
1133年宋船が入港すると、忠盛は大宰府に無断で密貿易を行っている。
清盛はさらに積極的であった。大宰大弐を自ら希望して就いた。
当時の大弐はほとんどが遙任で、本人が現地入りすることはなかったが、平氏一族が現地入りしたのも 、貿易による利益の妙味を知っていたことによる。
大宰大弐の権力と貿易による財力さらにその政治力が、平家の勢力を九州一円に広めていった原因 となった。
源氏に追われた平家が九州を復活の拠点にしようとしたのも、こうした背景があってのことである。