ディープな筑後人


柳川・浄華寺にある安東省庵追慕碑
四王寺山の高橋紹運の墓

筑後平野は、のどかな田園風景の中を筑後川がゆったりと流れる。そうした自然の優しさが、筑後を「芸術の里」としたのは想像に難くない。
先日亡くなった永六輔とのコンビで数々の名曲を世に贈った中村八大や作曲家の団伊玖磨も筑後で育った。また絵画の世界では、青木繁と坂本繁二郎という近代を代表する画家も輩出している。 最近、こうした心安らぐ芸術とは対照的に、現代史のきわめてディープな部分に立ちあった筑後人が少なからずいたことに気がついた。
彼らは、茨城県水戸の動きや福島県松川での出来事と絡みつつ、現代史を構成するパズルの「ある部分」を構成しているといって過言ではない。
さて2016年夏、福岡の地方ニュースに柳川において「三体の孔子像」が再会したというニュースに目が留まった。この「三体の孔子像」は、明の儒者・朱舜水が故国より持参したもので、水戸光圀に招かれて江戸に赴くまでの間、 福岡柳川にて世話になった柳川の儒者・安東省庵に贈ったものだった。
それらの孔子像は、古物商に売られたり、 一時行方不明になったり、あるいは宮中に献上されたりして、なかなか一つに出会うことがなかった。
しかし、ひとつはそのまま安東家に伝えられ、他の二体はそれぞれ波瀾の経緯をたどりながらも、一つは柳川市の伝習館高校、 もう一つは東京の湯島聖堂に落ち着いている。
その三体が、「安東省庵顕彰会」の尽力により、ほぼ400年ぶりに伝習館高校大会議室にて再会することとなったのである。
ところで明の儒者・朱舜水が柳川に逗留していたとは驚きだが、そこには日本史のヒトコマとして語りきれないくらいに、壮大なストーリーがあった。
1644年 徳川家光の時代、中国では李自成が反乱を起こして北京を占領したため、明の崇禎帝が自殺して明は滅びた。
その後、満州族(女真族)の世相・順治帝が即位して「清朝」が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。しかし、「明朝復活」をはかろうという遺臣達がいた。 その一人が明の武将・鄭成功で、海上経営を行っていた父親を引き継ぎ、清に降伏したのちも海上権を守って、大陸に反攻を試みようとしていた。
実は、鄭成功の母親は平戸生まれの日本人であったため、日本に数度にわたって援助を求めたが、愛国の気概を秘めた朱舜水も、そうした鄭の動きに呼応して1659年両者合意の下に長崎に来たのだ。
しかし、鄭成功の方はあえなく39歳の若さで台湾で急死し、朱舜水も「明朝復興」を諦めざるをえず、そのまま日本に滞在したのだ。
さて、柳川の儒者・安東省庵は、聡明で好学心が高く、1634年に藩主・立花宗茂より「分家」の内意書を与えられている。
朱舜水との出会いのきっかけは、安東が京都で朱子学を修めている時、日本に亡命している朱の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して「師弟」の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そのうち、明朝を救おうとした「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。朱舜水は、はや60を過ぎ、五代将軍・家綱の時代になっていたが、ここで動いたのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講じた。
ところで朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした実学で、「経世済民」をモットーとし、藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療にも及び、水戸光圀の政治・人格・業績にも大きな影響を与えた。光圀が「大日本史」編纂にあたって楠木正成を日本一の「忠臣」として称えたのは、舜水の忠義一徹ぶりと重なり合うものがあったからだ。
こうして、朱舜水によって、日本にはじめて「本場」の朱子学と陽明学が入ることとなったともいえる。
ところで幕末の1860年、この水戸学の影響下、水戸浪士による井伊直弼の暗殺すなわち「桜田門外の変」が起こっている。
昭和の時代、この水戸大洗において井上日召らの血盟団が結成され、「君則の姦」を除く意図のもと「一人一殺主義」が唱えられたが、「昭和維新」を志す水戸出身の若者の思想形成に、水戸学の尊王思想の影響があったことを否定できない。
また意外にも、この水戸の浪士と深い関わりをもった一人の福岡「筑後人」がいた。 筑後国久留米(福岡県久留米市)の水天宮の神職の家に生まれた真木和泉(まきいずみ)という人物で、1823年に神職を継ぎ1832年に和泉守に任じられる。
国学や和歌などを学ぶうち「水戸学」に傾倒し、1844年、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け「尊王の志」を強く抱くに至った。
さらに、この真木和泉とともに久留米藩校「明善堂」で儒学者の薫陶をうけた人物に、権藤直(ごんどうすなお)という人物がいて、その息子が「昭和維新」と関わることにもなる。
権藤直は、「筑後の三秀才」とよばれた医者の息子で、品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、彼の内に「志士的な情熱」が渦巻いていたのは想像に難くない。
なぜなら、「寛政の三奇人」の一人ともいわれた高山彦九郎は、久留米の「権藤家」の親戚の家にて自決しているほどなのだ。
そして、昭和維新の中核「血盟団」と深く関わるのが、権藤直の息子にあたる権藤成卿(ごんどうせいきょう)なのである。
権藤成卿は、明治元年に福岡県三井群山川村(現久留米市)で生まれている。日露戦争の機運が高まる中、権藤は親友を通じて、内田良平の「黒竜会」の動きに共鳴し、権藤は内田良平への資金援助を担当したらしい。
後に、内田とは袂を分かつが、権藤は独自の構想を抱き「権藤サークル」を形成する。 このサークルを母体としながら、1920年には独自の結社「自治学会」を結成した。
権藤は、若き日に中国に遊んだ経験があり、それが独自の「農本主義」思想を生んだといわれる。権藤は、この「自治学会」にて、「社稷国家の自立」を主張し、明治絶対国家主義を徹底して批判した。「社稷」とは、土の神の社、五穀の神の稷を併せて言葉で、古代中国の「社稷型封建制」に由来する共済共存の共同体の単位のことをいう。
また「大化改新のクーデター」構想に思想的な確信をあたえた唐への留学生・南淵請安に理想を求めたりもしている。権藤は、“日本最古の書”であるとして「南淵書」を発表し、たちまち学者たちの批判を浴びるも、「南淵書」は北一輝の「日本改造法案」と並んで、昭和維新のひそかな“バイブル”となったのである。
さらに、権藤は1926年4月、東洋思想研究家の安岡正篤が、東京市小石川区原町に創立した「金鶏学院」において講義を行うようになる。 聴講生は軍人、官僚、華族が中心であったが、ここに井上日召や四元義隆といった、のちの「血盟団」の構成員も含まれていた。
そして1929年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越しし、 1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まっ
た四元義隆らを下宿させ、さらにその隣には苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。 また、のちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も権藤の家にさかんに投宿したのである。つまるところ、権藤成卿は「血盟団メンバー」にそのアジトというべき場所を提供したということだ。
1932年2月9日、メンバー小沼正が打ったピストルの銃弾が民政党の井上準之助を貫き、菱沼五郎の銃弾が三井の総帥・団琢磨を襲った。いわゆる「血盟団事件」の勃発である。そのターゲットとなった団琢磨は1868年、筑前国福岡荒戸町で、福岡藩士馬廻役・神尾宅之丞の四男として生まれた。
12歳の時、藩の勘定奉行、團尚静の養子となり、藩校修猷館に学ぶ。金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学する。
1878年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国した。その後、東京大学理学部助教授となり、工学・天文学などを教えるが、工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。
1888年に三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任した。三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、1909年三井鉱山会長となる。そして、三池が「三井のドル箱」として、三井財閥形成の原動力となった。
こうして團は三池を背景に三井の中で発言力を強め、1914年三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となるものの、昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった。
1932年3月5日、東京日本橋の三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された。音楽家の団伊玖磨はその孫で、団伊玖磨の混成合唱曲「筑後川」は、今なお地元を中心に歌われている。
筑後の三秀才といわれた医者の子・権藤成卿と、彼がアジトを提供した血盟団によって殺された父親をもつ団伊玖磨は、同じ故郷の「筑後川」を胸に抱いた二人だったのだ。
1586年、豊臣秀吉の九州平定では、鹿児島の島津が秀吉の最大の敵となったが、豊臣方についた豊後・大友氏は、1586年島津勢力と太宰府に近い岩屋城で歴史に残る死闘を繰り広げた。その戦いで功績のあった大友方の高橋紹運の子が立花宗茂である。
宗茂は、関ヶ原の戦いでも義理立てして西軍(秀吉方)についたが故に敗戦するも、特例で奥州棚倉藩に1万石の領地を与えられ、後に柳河藩主となっている。
この大友方の「立花家」の流れに柳川の儒学者・安東省庵がいる一方で、島津方にも一人の筑後八女出身の儒学者がいた。
豊臣秀吉の島津征伐の際、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。この蔵久の子孫にあたり、久留米の有馬家に仕えた儒学者の家が広津家である。
明治時代、広津家の家系から広津柳朗という小説家がでた。広津柳朗は、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて、本能のおもむくままに犯罪に走る人々を描いた。
その息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判批判」がライフワークとなった。
広津和郎は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
1949年、下山事件・三鷹事件・松川事件と、鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ。 松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件だが、線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが「故意に」何らかの意図をもって工作したことは明らかであった。そして、これらの「三事件」には、共通した点が二点あった。
 第一の共通点は事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」をそのまま信じ、小説家の広津和郎とてその例外ではなかった。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。これらの事件で、国鉄労組は、「世論」を味方にすることができず、結果的に「大量馘首」は相当すみやかにに行われていったという結果になった。
 第二の共通点は、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がちらつくことであった。 列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであったことなどである。
広津和郎がこの事件に関わったきっかけは、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による「無実の訴え」である文集「真実は壁を透して」を読んだことである。広津は作家の直感として、この文章には、一片の翳りもないと感じたからだ。
第一審、第二審でそして死刑、無期その他の重刑が、二十人の被告に対して判決が言い渡されている。
アメリカ映画「十二人の怒れる男」で、陪審員の一人が、被告になった青年を見た時、その透明さに、犯罪者とはどうしても思えなかったことから評決が覆ったストーリーを思い出す。
実は、「松川事件」の公開された資料自体が極めて少ないものだったが、広津は新資料を探すのでもなく、あくまでも「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の「虚偽性」を追及していった。
その際、広津氏の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する嗅覚であったといえる。広津はその乾ききった「言葉」の背後にあるナマナマしい真実を暴くために、言葉の端々を「吟味」していったのである。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その調書から組合員による架空の「共同謀議」にもっていこうとするプロセスを暴いていった。
国費によって裁判費用がまかなえる検察側に対して、裁判を戦うのに一文の費用も出せない被告達に対するカンパは当初、広津氏自身の「言論」活動にかかっていたのである。
しかし、広津氏の「中央公論」に掲載された裁判批判は少しずつ「世論」を動かしていった。 広津氏の処女作は「神経病時代」という作品だが、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
被告のひとりの身体障害と歩行の程度を調査した医師の鑑定書が非科学的な根拠づけによるものでないこと。 同一被告の数次にわたる調査の間にズレがあること。検事調書の中心から外れた記録などから、それ以前の警察調書における強制と誘導を論証していったのである。
そして広津和郎のペンが世論を喚起したのは確かで、1961年最高裁は、松川裁判の被告に「全員無罪」を言い渡した。
広津は後に、「ああいう納得のゆかぬ裁判で多くの青年達が死刑や無期にされているのを黙視できない」と語っている。
ところで、朱舜水に最初に師事したのは安東省庵だが、舜水と人々との交流はそればかりではなかった。6年後に徳川光圀が師事するまで、地元の人々はその人格、その博識を慕って彼に師事したのである。
この中に、果たして八女出身の儒者・広津家のものがいたかは定かではない。しかし「大義の人」朱舜水が福岡県の筑後地方に蒔いた「経世済民」の種子が、時を隔てた昭和の時代に、広津和郎のペン先に生き残ったと推測するのは、拡げすぎであろうか。