福岡と菊池氏
 福岡氏中央区六本松 の菊池霊社
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 鎮西探題があった祇園(博多区) 2014年道路陥没時の写真
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福岡県の大刀洗には、町のシンボルともいうべき菊池武時の像がある。南朝の菊池軍が北朝軍と戦って血のついた太刀洗を洗ったのが町名の起こりである。
ところで、福岡市・六本松あたりで「菊池霊社」と名のつく場所を見つけ、同じく福岡大学に近い七隈の住宅街の中にも「菊池神社」があったのを思いだした。
果たして熊本の菊池氏は、福岡市内の六本松〜七隈の辺りとどのような縁があるのかと
疑問に思っていた。
そのことを実際に調べようと思ったのはきっかけがあった。数年前、東京で近代絵画の巨匠・バルデュス展が開かれ、故バルデュスの日本人夫人がテレビや新聞に登場されたことである。
扇情的な少女のイメージを描き続けたバルデュスの作品の中にあって「夢見るテレーズ」がよく知られるが、この夫人自身もバルデュスのモデルとなっている。バルデュスの絵は、単に扇情的であるばかりではなく、どこか中世の宗教画のような聖なる雰囲気を纏っている。それはどこからきたものだろうか。
バルテュスはポーランドの貴族の流れを組む家柄の伯爵として、1908年にパリに生まれた。父のエリックは画家、また舞台芸術家として活躍し、母のバラディーヌもまた芸術家であったという。
幼い頃から多くの芸術家たちに囲まれて育ち、芸術家としての資質は自然と身についたが、両親は必ずしもバルデュスが芸術の道に進むことに賛同したわけではなかった。そこでバルデュスは、ルーブル美術館で過去の巨匠たちの作品を模写することによって、独学で絵画技法の基礎を身につけたという。
バルデュス29歳の時、高貴な家柄の出で、誇り高い貴族的な雰囲気の女性と結婚し、一児をもうけている。その後に離婚するが、離婚後も互いの友情は絶えることがなかったらしい。
第二次世界大戦に従軍するが負傷してパリに戻るが、戦後はパリの喧噪を逃れたいとの理由から、モルヴァン山地のシャシーという小さな村に住んだ。
ここで前述のとおり兄の妻の連れ子だった美少女と、30匹ほどの猫と一緒に7年間ほど共同生活を送っている。この間、彼女を題材に「少女のエロテシズム」を数多く描いたために、様々な誤解や中傷をうけるが、バルデュス自身は、「これから何かになろうとしているが、まだなりきってはいない。要するに少女はこのうえなく完璧な美の象徴なのだ」と語っている。
そして自分の信じる美しさのみを描き続けつつ、ここでの生活の間に風景画を数多く残している。この頃、バルデュスの存在は才能ある画家の一人として一部には認められてはいたが、なお一般には理解されず、売れない画家の一人ではあった。
ところが、田舎暮らしに引き篭もるバルデュスに転機がおとずれる。当時のフランスの文化大臣で熱烈な日本美術のファンであったのアンドレ・マルローが、バルテュスをローマにあるアカデミー・ド・フランスの館長に任命したのである。
バルデュスに与えられた仕事は、アカデミーが置かれていた由緒のある建物ヴィッラ・メディチの改修・修復であったが、バルデュスはこころよく引き受けた。ほとんど過去の資料もない中、バルテュス自身の感性のみを頼りに、全身全霊で修復に取り組んだ。バルデュスは、この頃ほとんど絵画の制作はしていないものの、生涯で最も幸福だった時期だと振り返っている。
そして59歳の時、マルローから任されたのがパリのプティ・パレ美術館での「日本美術展」であった。その準備のために東京を訪れたバルデュスは、当時20歳だった上智大学の学生・出田節子と出会う。
出田節子はフランス語を学んだ学生の頃、京都のお寺の国宝級の美術品が見られると聞いて、仏使節団の見学に参加していた。そこでバルデュスに見初められ、モデルになるのを口実として交際するようになり、その後彼女と結婚している。
バルデュスは節子夫人につき「憧れていた日本の形がその姿のうちに秘められていた」と語る一方、節子夫人は自分はバルテュスに誘拐されたようなものと語るが、次第に画家の考え方に惹かれ、一生を託してもいいと思うようになったという。
1970年代の初めまで夫妻はイタリアで暮らしたが、77年からはバルデュスの健康を気遣ってスイス・アルプスのグラン・シャレに住み、2002年に 亡くなるまでバルテュスとともに暮らした。グラン・シャレは、二人でたまたま立ち寄ったホテルがとても気に入り買い取ったものだった。
実際グランシャレは木造建築で、周囲の山々に囲まれた荘厳な雰囲気によって、日本の山中に在る感じさえ漂わせている。そこで節子夫人はバルテュスの傍らで、バルデュスの希望の希望に従って常に和服を着て過ごしたという。
ところでバルデュスの最後の伴侶となる出田節子は、熊本の菊池一族をルーツとしている。
1984年6月、京都市美術館で開催中の「バルテュス展」にバルテュス、娘の春美さんと共に来日し、その折に家族で節子の祖先の地である菊池市を訪問している。
菊池一族は、熊本の隈府(わいふ)に本拠地があり、そこに今、菊池美術館が立っている。この地は、南北朝時代に13代菊池武重が加賀祇陀寺の大智禅師を招いて建立し、開山された禅宗の寺跡で、菊池一族の拠点といってよいところである。
冒頭で述べたように、バルデュス夫人が菊池出身であることを知り、福岡市内の六本松や七隈にある菊池霊社や菊池神社の由来について調べたところ、それらが菊池一族が福岡市内に残した戦跡であることを知った。
「建武の新政」が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して味方の勢力を築こうと考え、まだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。
懐良親王は薩摩に上陸し、足利幕府方の島津氏と対峙しつつ、九州の諸豪族である肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年に隈府(わいふ)城に入って「征西府」を開き九州攻略を開始した。そして、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
一方、足利幕府(北朝)は、博多に鎮西府大将として一色氏らを置いて、南朝勢力と対決しそれを潰しにかかった。
南朝方の菊池武光は「針摺原の戦い」(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝し、懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏を九州から追い払った。
ところが少弐氏が幕府方(北朝)に寝返ったため、菊池武光ら南朝方は1359年の「筑後川の戦い」(大保原の戦い)でこれを破り、懐良親王は1361についに九州の拠点である大宰府を制圧する。
しかし1367年足利幕府は、今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣してそれに対抗した。その結果、懐良親王は大宰府を追われ、征西将軍の職を後村上天皇の皇子である良成親王に譲り、筑後矢部において病により薨去したと伝えられている。
さて、今の博多駅に近い祗園辺りに鎌倉時代につくられた幕府の出先機関である「鎮西探題」があり、菊池武光の父・菊池武時はそこを攻撃してる。
しかし菊池武時は少弐氏・大友氏の離反によって敗れ、馬上の武時の首は福岡市六本松付近で落ち、七隈付近でその胴体が落ちたといわれる。この首を祭ったのが六本松の「菊池霊社」で、胴体を祭った胴塚が七隈の「菊池神社」の由来となったのである。
ところで、菊池氏の本拠である熊本・菊池夢美術館には、隈府(わいふ)ゆかりの出田節子と徳冨愛子に関連したコーナーが常設されている。
徳富愛子は、明治の文豪徳富蘆花の夫人で1874年、菊池市隈府中町で酒造業原田家の長女として生まれた。愛子は文学少女として成長し、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだが教師となるもあきたらず、英語、音楽、そして絵画の道を自らみがき、その多彩なる才能は夫・蘆花の作品にことごとく表れているという。
熊本菊池の隈府ゆかりの徳富蘆花と愛子夫人、バルデュスと節子夫人、ともども大変仲の良い「おしどり夫婦」と伝えられている。
仲の良い夫婦にあやかり、菊池では「よいワイフ=隈府」で「おしどり夫婦の里づくり」を行っている。
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