教会堂建築の夢


福岡県筑前町の今村カトリック教会
スキだらけのくまモン

2015年6月末、「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産へ登録されることになった。ただひとつ注目したいことは、長崎の三菱長崎造船所  高島炭鉱 端島炭鉱 旧グラバー住宅などの「産業遺産群」と重なるように存在しているのが、明治以降に設立された「キリスト教教会群」で、こちらも世界記憶遺産に登録申請中である。
 それらは270年にも及ぶ禁教と迫害の時代を乗り越え、明治から昭和にかけて建造された教会群である。この「長崎の教会群を世界遺産にする会」の発起人にあたるのが鉄川一級建築士事務所の鉄川進代表である。鉄川氏は、1979年長崎大学工学部構造工学科卒業後、錢高組、鉄川工務店を経て、2004年より現職である。
実はこの鉄川進こそは、日本におけるキリスト教会堂建築のパイオニア鉄川与助の孫にあたる人物である。我が地元・福岡県筑後平野の大刀洗町あたりに、場違いな巨大な建造物が立っている。この建造物こそ今村カトリック教会で、この教会をつくった人物が鉄川与助である。
 鉄川が手がけた教会堂は長崎の浦上天主堂以外にも、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など数しれない。
 鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島で、鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家であった。
鉄川家がいつ頃から建設業に関わったか正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が「青方得雄寺」を建立した史実が同寺の棟札に記録されている。明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
鉄川は、幼くして父のもとで大工修業を積み、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に「装飾」としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。原爆によって破壊された浦上天主堂を完成させるにあたり、旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川に技術的な「飛躍」を与えた。
 さて、鉄川与助が浦上天主堂を建設する一方、大浦天主堂の設計・建築にあたったのが、熊本天草出身の小山秀之進で、兄・織部とともに「異国情緒」の長崎を形づくった最大の功労者といってよい。
小山家の3男として誕生した織部は、幼くして北野家へと養子に出され、長崎開港時は、天草郡赤崎村の庄屋職を務めていた。一方、秀之進は、小山家11人兄弟の末っ子でありながら、勤勉さと才能を認められ、この歴史ある家を継ぐこととなる。
 1858年、五ヶ国と修好通商条約が結ばれ、翌年に長崎港も自由貿易港として新たに開港された。開港にあたって各国より外国人の居留場が要望されていた。そこで名乗りを上げたのが、天草郡赤崎村の庄屋、当時50歳の北野織部だった。
織部は、専用船の建造を天草御領村大島が誇る船大工達に発注し、300隻を動員させ、はるばる天草から長崎港に「天草石」を運んだ。
工事は当初予定よりも伸び、織部は長崎奉行所に再三に渡って完成期日の延期願書を提出した末、1860年10月についに完成した。
さて、開港後まもない長崎にフランス人宣教師フューレが派遣されたのは、西坂の丘で殉教した26聖人へ捧げる教会堂を建立するという確固たる目的があった。1864年、当時この町の土木業界きっての実力者である「小山商会」小山秀之進(36歳)に、その教会堂建設の依頼が舞い込んでくる。北野織部の実弟・小山秀之進は、すでに外国人住宅の施工をいくつも手がけていたが、神父の指導の下、それまでの洋風建築の建設の経験と従来の伝統技術とを結びつけての教会堂建設がはじまった。
外国人から「コーヤマ」あるいは、「ヒーデノシーン」と呼ばれていた小山秀之進だが、彼が請負った仕事は、長崎会所や外国人居留地関連など公的なものばかりではなく、居留する外国人達の私的な建物にまで及んだ。
長崎随一の観光名所として知られるグラバー園内に現存する洋風住宅で、今は国指定重要文化財となっている旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅といった幕末洋風建築の建設も小山秀之進が携わっている。
 さて、小山商会が完成させた大浦天主堂の聖堂はゴチック建築様式で1945年8月9日の原爆で中央大祭壇やステンドグラスが大破したが、5年間に及ぶ修理を経て、53年3月、国宝に再指定された。小山は神父の設計図を元にしながらも随所に日本的手法を用いており、純粋な西洋建築ではなく、天草の資本と技術が築き上げた「洋風建築」といえる。
 小山は自ら手掛けた木造洋風建築に住む若き貿易商グラバーにすすめられ、「高島炭鉱」の共同管理経営者となる。
1876年、小山は48歳にして小山家の8代当主の座にすわるが、高島炭鉱開発への関与を境に、小山の輝かしい人生に暗雲が立ち込める。そしていつしか天草郡御領村大島の小高い丘に建つ小山邸は、借金のカタとなっていた。
その後、天草へと戻った小山は、三角港築港や、熊本三角間鉄道敷設などを手掛け、71歳で他界している。
 ところで、熊本のゆるキャラ「くまモン」の生みの親は、放送作家・脚本家 小山薫堂(こやまくんどう)という人物である。小山は、もともとキャラクターを作る予定はなく、ロゴ作りをお願いしたデザイン会社が、おまけで「くまモン」を作ってくれた。それを熊本県庁の職員に見せたら、とても可愛いと評判になり、県庁内で大好評になった。それでは、PRキャラクターにしようということで「くまモン」が生まれたのである。
 そして小山のアイデアをベースとして、「くまモン」自ら名刺を配ったり、関西でいろいろなイベントに出たりして知名度をあげていった。誕生から3年半、「ゆるキャラグランプリ」では日本一を獲得し、海外進出までも果たしている。その人気について小山は計算されて、すきのないものよりも、欠点があって人々がそこを「埋めたく」なるようなキャラに人気が集まるのではないかと語っている。
 小山薫堂は1964年、熊本県天草市生まれ。日本大在学中にテレビ番組「11PM」の放送作家としてデビューした。「料理の鉄人」「カノッサの屈辱」などを手がけ、脚本を担当した映画「おくりびと」は米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。
 小山は、大学1年生の時に大学の先輩に誘われてラジオ局でアルバイトをすることになり、ひとりの放送作家と出会って人生が動き始める。その放送作家にニューヨーク取材に誘われ、その旅行で三宅祐司と仲良くなった。
帰国後に三宅の番組の打ち上げにもぐりこんだところ、プロデューサーの方から「君は誰?」と聞かれてしどろもどろになっていたところ、放送作家が「放送作家なんです。今度、三宅の番組を書かせようと思っています」と言ってくれた。
 その時、自分は放送作家になるのかと思ったという。台本の書き方もわからなかったが、先輩がつい教えたくなるような「スキがある」ことがチャンスを引き寄せた。
どこか「くまモン」の風貌を思わせる小山薫堂だが、大浦天主堂をはじめとする長崎の「異国情緒」の生みの親・小山秀之進の直系の子孫にあたるのとは、かなり意外ではあった。