三宅
 官家礎石か (若八幡宮内)
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 若八幡宮 (三宅小学校に隣接)
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 那珂川 (三宅中学校近く)
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大宰府の前身は、筑紫大宰でありもともと、福岡市三宅のあたりにあったといわれている。
663年白村江の戦い後、大宰府は海岸に近い三宅の地より、今の都府楼に移転し、水城や大野城によって守られた。
初代大宰帥(長官)は、蘇我日向である。
蘇我日向は、官家(みやけ)を大宰府に移したといわれる人物である。
649年日向は、中大兄皇子に異母兄・倉山田大臣を讒言し妻子ら8人もろとも自害させた。
孝徳天皇が真相究明のために倉山田大臣の自宅そ捜索すると、その無罪が証明される。
中大兄皇子は倉山田大臣の死を悔やみ悼んだ。
その後、日向は筑紫大宰帥就任となるが
現在の大宰府はまだなく、筑紫那ノ津官家の大宰帥となった。
人々は「是れ隠流しか」と噂した。
那ノ津官家の所在地ははっきりせず、那珂川近くにある三宅がそれにあたるとされており、
三宅の若八幡宮、地禄神社境内にある礎石が筑紫那ノ津官家のものと考えられている。
ところで661年、斉明天皇は百済救援のため難波を出発し、ひとまずこの那の津の官家で日向に
迎えられた。
いったん朝倉橘広庭まで後退し、斉明天皇はこの地で亡くなる。
那の津官家は、白村江の戦いを機に現在の大宰府に移り、日向はその建設のために尽力した。
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