草魂の雑餉隈


雑餉隈てんぐやビル裏がソフトバンク創業地


長年住んだ町の隣町が「雑餉隈」という町である。この名前をなんと読むか、テレビの「難読地名」で登場したくらいだから難しい。正解は「ざっしょのくま」である。
このあたりは、博多区の南部と大野城市西部にまたがる地域で、かつて進駐軍が駐屯した町であった。その後に陸上自衛隊の春日駐屯基地がつくられ、基地とセットのように歓楽街が広がっている。その町名からも連想されるように「草魂」たくましい人々が数多く出た町なのである。そうした、この町と関わった「草魂の人」三人を紹介したい。
2004年にNHKの番組プロジェクトXで「不屈の町工場 走れ魂のバイク」が放映された。日本最大のバイクレース「鈴鹿8時間耐久レース」に出場して、わずか数人の小さなチーム(町工場)が、大メーカーに挑んだ話である。この町工場の経営者・吉村秀雄は、マフラーやカムシャフトなど「奇跡の部品」を生み出し、その手は「ゴッドハンド」とも言われた。吉村秀雄は、雑餉隈で製材所を営む家庭に生まれ、1937年高等小学校を卒業し、横須賀の追浜基地にあった予科練に14歳で入隊した。
翌年、霞ヶ浦航空隊での訓練中に落下傘事故で入院し、海軍を除隊となった。
九州に帰郷した吉村は福岡第一飛行場(通称雁ノ巣飛行場)にあった大日本航空福岡支所に入社し、独学で検定試験に合格して、19歳の日本最年少の航空機関士となった。太平洋戦争開始により正規の機関士となり、現シンガポール支部に転任となったが、1945年の終戦間近には胃潰瘍で実家のある雑餉隈で療養中に終戦を迎えた。そして日本は連合国軍の占領下に置かれたが、板付飛行場に近いためアメリカの進駐軍が駐屯した。終戦後に吉村の実家は鉄工所をはじめたが、商売の足として使用していたオートバイに興味を覚えるようになり、オートバイ屋「ヨシムラモータース」を創業した。
シンガポール赴任で英語を覚えた吉村のもとには、オートバイ好きの米兵が出入りし、米兵はいつしか吉村のことを「POP」(親父)と呼ぶようになる。そんな吉村に運命の転機が訪れる。1954年進駐軍の兵士からレース用にと「バイクの改造」を依頼されたのだ。
そして板付基地で行われたドラッグレースに出場した吉村は、オートバイの加速に飛行機の離陸に通じる魅力を感じた。そしてレース用にオートバイのチューニングを手掛け、ヨシムラのマシーンは、レースで驚異のタイムをたたきだす。勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がった。あの本田荘一郎でさえも吉「ヨシムラ」が生み出す部品に脱帽するほどであった。
1965年、吉村は九州から横田基地のある東京都西多摩郡福生町(現・福生市)に移り「ヨシムラ・コンペティション・モータース」を設立する。やがて、ホンダから部品を提供してもらいマシーンを改造するという契約を結んだ。しかし、自らレース専門会社を設立したホンダは、態度を一転させて吉村との契約を断ち、部品の提供をストップしたのだ。アメリカの市場に飛び込んだが、共同経営者に会社を乗っ取られ、再起をかけた新工場も火事で焼失する。この時、吉村自身も両手が動かぬほどの瀕死の重傷を負ったのである。
そんな「絶体絶命」の吉村の前に現われたのは、「レースで勝ちたい」と願うバイクメーカーの技術者達であった。そして吉村は家族と共に、一発逆転をかけ1978年「第一回鈴鹿8時間耐久レース」にうって出る。そして並み居る大メーカーを退けて優勝をさらった。そしてその後の優勝を含め、通算4度の優勝を果たしている。
「草魂の人」二人めは、国際アクション・スターの千葉真一である。千葉は1939年雑餉隈で生まれた。そして父親が経営していた柔道場があった。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属し、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていたという。テストパイロットの父親は、空母へ初着艦を成功させるなどしたが、危険な「重責業務」のため給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかったという。
千葉4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となり、家族で君津市へ転居した。終戦後、父親は漁業組合の役員に転職したが、家計は相変わらず苦しかった。色々なスポーツをしたが、当時の「体操ブーム」にのって、木更津一高では体操競技に専念した。そして3年生で全国大会優勝を成し遂げ、1957年日本体育大学へ進学した。同級生には「ヤマシタ飛び」の山下治広などがいて、オリンピック出場を目指して練習に明け暮れた。一方、学費を稼ぐために土方や引越しのアルバイトなどをしていた。
そんな身体を酷使していた最中、大学2年生の夏に練習中に跳馬で着地に失敗して腰を痛め、なかなか快方に向かわなかった。医者から「1年間運動禁止」と宣告され、もはや選手を続けることが困難となった。
千葉が将来を模索していた頃、たまたま代々木駅前で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを見かけた。面接時には日本体育大学の経歴を珍しがられ、2万6千人の応募からトップの成績で合格したが、父親は芸能界入りを猛烈に反対して千葉を勘当したという。それでも千葉は1959年 東映ニューフェイスとして入社し、翌年にはテレビドラマ「新七色仮面」の二代目・蘭光太郎役で主演デビューを果たした。
その後千葉は、「アクションスターの元祖」ともいえる存在となっていく。1968年から、テレビドラマ「キーハンター」に主演し、これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらった。
東映は常にアクションスターであることを千葉に求め続けて、吹き替えしてもらうことなく自ら危険なスタントを演じていった。その精神は千葉に憧れて映画スターになった香港の大スター・ジャッキーテンに受け継がれている。
「草魂の人」最後は、ソフトバンク創業者の孫正義である。孫正義は24歳の時に雑餉隈の雑居ビルで、ソフトバンクの前身にあたる会社を設立している。その場所は、現在1階に、ソフトバンクショップが入っている「てんぐ屋ビル」の裏手あたりである。
資本金1000万円で、孫正義と二人のアルバイト社員でのスタートした。木製のみかん箱の上に乗って社員に熱い思いをぶちあけた。「30年後のわが社は1兆・2兆を数の単位とするような会社にするぞ!世界の人々に情報革命を提供するんだ!」と。しかし、「この人おかしい」「気が狂っている」と思ったのか二人の社員は辞め、社長一人になってしまったこともあったという。
孫正義は、在1957年日韓国人三世で、佐賀県鳥栖市五軒道路無番地で生まれた。この周辺は戦前から韓国・朝鮮の人たちがバラックを建てて住み着いていたという。
小学校の時、孫一家は北九州に移転し成績も一番だったが、孫の頭の中には「韓国人である自分は日本で受け入れられるだろうか」という思いがめざめていた。
そして、進学した久留米大付設高校の一年生の夏休みに、カリフォルニアに1ヶ月の短期留学をする。
カリフォルニアの青い空と、アメリカという国のスケールの大きさに圧倒され、アメリカで結果を出せば、日本で認めてもらえるという思いが強くなり、アメリカの高校への編入を心の中で誓った。
その時父は病の床にあり、周囲の誰もが「早すぎる」と反対した。しかし、今アメリカ行きを躊躇したら自分の道は開けない、大義の為には時に人を泣かすことがあると、親類縁者にも累がおよぶ「脱藩」の罪を犯して国家大事を選んだ坂本竜馬の心境に自分を重ねた。
そして自分のアメリカ行きに賛成してくれた唯一の人が、誰あろう父親だったのだ。
1974年2月久留米大学付設高校を1年でやめて、カリフォルニアに旅立った。
1977年にはカリフォルニア大学バークレー校へと編入が認められたが、仕送りの負担や猛勉強の必要などの条件を満たすためには、自分に与えた時間の余裕は1日5分間氏しかない。
それで100万円稼ぐ為には、発明以外ないと毎日ひとつの発明のアイデアをノートに書き込んでいった。
そして音声付自動翻訳機を考えついたが、これを商品として完成させて儲けを出すには20年はかかりそうだった。そこでバークレー校の研究者の名簿から一流を選りすぐり、彼らに発明に協力してもらうよう交渉した。
その中にスピーチ・シンセサイザーの世界的権威がいた。孫青年は、この世界的権威氏を説得して、「今は金はないから成功報酬で」という非常識に賭けてみようと思わせしめたのがすごいところである。そして孫は出来上がった自動翻訳機の試作機をシャープに売り込んだ。
そして得た資金1億円を元手に、在学中の1979年アメリカでソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立し、インベーダーゲーム機などを日本から輸入して学費を生み出した。
またサンフランシスコ郊外のカレッジの英語研修で一緒に学んだ二歳年上の女性と結婚している。
1980年に、カリフォルニア大学バークレー校を卒業し日本へ帰国し、翌年さっそく会社を設立するための事務所を福岡市南区大橋に構え、1983年に雑餉隈の地に「日本ソフトバンク」を創業したのである。そういえばもうひとり、雑餉隈出身の芸能人がいた。
「博多出身」を前面にだして実家の売り物であるタバコを盗んでは母親に、「こら!なっばしよっとか」と怒られていたあの人です。