ハリマオとなった男


ハリマオ

数年前私は、福岡市南区にある私の母校・曰佐小学校の同窓会名簿を手にして一人の人物の名前を探した。そして第十七回卒業生の中に確かに彼の名前「谷豊 死亡」の欄を確認することができた。
旧筑紫郡曰佐村の農家に生まれた谷豊氏の波乱の人生はしばし私の心を占めた。
谷豊氏の父はシンガポールにわたり理髪店を経営するが、子供の教育のために一時日本に戻った。谷豊氏と弟が曰佐小学校を卒業した後、谷家はふたたびシンガポールに戻った。
現在の福岡市南区五十川に谷家の実家はあった。私は以前に谷豊氏の弟さんが今なお御健在であること聞いてこのあたりを訪ねたのである。
このあたりは谷の名前の多いことに驚いたが、たまたま道行く女性に豊氏の弟さんの家を聞くと、自分も谷の一党であるといって家を教えてくださった。
ただしこの時すでに豊氏の弟さんは亡くなられていたことを聞いた。
1937年に日中戦争が始まるとマレー半島でも反日的な機運が高まっていた。
トレンガヌにあった谷家の理髪店は華僑によって襲撃され、谷豊氏の妹が殺害されるという悲劇がおきた。
その後の谷豊氏の経歴は不明であるが、成人した谷豊氏が馬賊の首領として人々から「マレーの虎」(ハリマオ)と呼ばれて出没するようになったことが判明している。
 日中戦争の長期化にともない日本軍は東南アジアに活路を求めていた。
そこで現地の地勢や情報に詳しい谷豊氏と接触し、日本軍諜報機関(藤原機関)の一員として谷豊氏を取り込んだ。家も家族も失った感のある谷豊氏はこの時はじめて、公的な働き場所を得ることができたともいえる。
1942年、真珠湾攻撃の約2時間前にマレー半島に進攻した日本軍は、その後銀輪(自転車)部隊で半島を南下し、2月15日に英国の東アジアにおける要衝であるシンガポールを制圧した。
しかし谷豊氏はシンガポール占領から約1ヶ月後にマラリアにかかりシンガポールの陸軍病院で32歳の生涯を閉じている。マレーの心をもちイスラム教徒となった1人の日本人数奇な人生の終焉だった。
死後ただちに配下のマレー人イスラム教徒によりシンガポールのイスラム墓地に埋葬された。
 しかし谷豊氏の生涯は日本人の心に宿り続け、意外なかたちで蘇った。部下3千人を率いる大東亜の英雄「ハリマオ」として蘇ったのである。
つまり彼の人生は戦意高揚のために偶像化され映画化されたのだ。
また戦後はテレビドラマ「ハリマオ」のヒーローとして蘇えったのである。
怪盗「犬の面」らを率いて盗賊団の首領となり神出鬼没の大活躍をし、悪どい地主や金持ち、英国人を襲って奪った金を貧乏人にばらまく「義賊ハリマオ」の人気は民衆の間に広がった。
英政庁は多額の懸賞金をかけてそのヒ−ロ−の行方を追う。映画に登場するハリマオの配下には優秀な一芸に秀でた者が多かった。
爆発を扱わせると名人芸を発揮するザカリア、吹き矢の名手のアリー、カバット(手斧)投げのノール、ジャングルの巨木の枝から枝へ飛び移る身軽いタフィック、シラット(マレー空手)の名手ハミッッド、巨漢で十人力のインド人シンなどである。
少年の頃に、ハリマオが主人公となったテレビドラマを見ていたことを覚えている。大人になって図書館でたまたま「ハリマオ伝説」を読んだ時、ハリマオ伝説のモデルである谷豊氏の生まれが福岡市南区の五十川であったことを知って驚いた。
 ハリマオのモデルが実際にいて福岡出身であるという話は、それまで見たことも聞いたこともなかったからである。
今にして思うと谷豊氏の身内の方は、偶像化され一人歩きをしてしまった英雄ハリマオを苦々しく思いつつ、その事実を隠しておきたかったのかもしれないと推測する。
しかし驚いたことは、そればかりではなかった。ハリマオ伝説の主人公・谷豊が、我が母校である曰佐小学絞(当時、「曰佐尋常小学校」)出身であったのだ。
当時、職員を含めて一体誰が人気番組ハリマオの主人公が曰佐小学絞の卒業生だったことを知っていたのだろうか、少なくともそのことを語る人は誰もいなかった。そう考えると本当におかしな気持ちになる。
こうして、ハリマオ伝説のモデル谷豊氏こそは私がホームページの中で紹介したい人物の一人となったのである。旧曰佐尋常小学校の校区である現在の曰佐小学校・宮竹小学校・横手小学校では、ある時期、谷家の縁によりマレーシアの小学校との交流が行われていたことがあると聞いている。
ハリマオとよばれた人が、はからずもつくりだした日本とマレ−シアとのささやかな絆である。