大宰府政庁跡



九州歴史資料館提供


  都府楼跡ともよばれる大宰府政庁跡は、1968年から発掘調査が行われ、現在は遺構も平面 復元され史跡公園となっている。
往時の大宰府は、この政庁跡を中心に学校院跡、観世音寺跡、 匠司跡、蔵司跡などが東西に並び、政庁の南門から朱雀大路が南方向へとのびていた。
その大路の左右両郭に、それぞれ12坊、南北22条の条坊制によって古代都市が形成されていたのである。

大宰府が現在の地に建設されたのは天智天皇初年以降のことである。
日本書紀には水城、大野、椽の建設に簡単な説明がある。
これらは大宰府の防衛施設であり、 その中心となる大宰府政庁の建設もこの頃に開始されたと考えられる。
ちょうど藤原京の時代 と同時期であり、美術史上の白鳳時代と考えられている。

朱雀大路西側溝跡(1992年発見)

都府楼礎石群

現在、四王寺山(大野山)を背景とした大宰府政庁跡を訪れ、36個の礎石のあたりを踏みしめると、 建造物が建ち並ぶ中、官人たちが往来した当時の姿が目の前によみがえってくるようである。
現在の都府楼跡は大宰府官衙の中心で、京の朝堂院や内裏にあたるところである。
正殿をはじめ、東西両脇殿・中門・南門・後殿・築地などには、現在も礎石が残っている。
これらは十世紀後半再建されたもので、発掘調査によると下層に二期の遺構が重なっている。
それは、少弐藤原広嗣の乱(740年)と藤原純友の乱(941年)による焼失のあと再 建されたものと考えられている。
遺跡の西後背地に平坦な台地があり、俗に「大宰の帥の館」跡といわれているが、門礎と思 われる円孔のある礎石が一個発掘されている。
 大宰の帥といえば万葉集を代表する歌人・大伴旅人もこの地で政務を執っていた。

 藤原純友の乱以後は、8世紀律令制下の大宰府とは大きく変化した。
機構面でもかなり大きくなり、官人は当初の定員をはるかに越えていた。
 1019年「刀伊の入寇」をもって九州における武士団が形成され、大宰府官人の武士化がすすみ、南北朝時代をもって、鎌倉時代以来の「大宰事府西府」としての役割も終わったのである。