福岡県アスリートの快挙

福岡県福津市津屋崎に昭和初期の大相撲で幕内優勝した宗像出身の名力士・関脇〈沖ツ海〉の石像が彫られた墓碑と、入幕記念の石碑がある。
「津屋崎千軒」という名で整備された漁師町の一角、天神町の「新泉岳寺」に、その石碑が立っている。
「万松山新泉岳寺」は1913年、津屋崎の実業家、児玉恒次郎が東京・高輪の赤穂浪士の墓がある〈泉岳寺〉から寺号と墓砂を分霊として譲り受け、四十七士を祀ろうと建立した。
関脇〈沖ツ海〉の墓碑と入幕記念碑は、境内東隅の市道寄りにある。
墓碑の表面には「東京相撲 沖ツ海墓 東ノ関脇」と白色で3行に刻字されているが、東の関脇の字は消えかかっていて、裏面には「児玉建之」などと刻字されている。
本名は北城戸福松(きたきどふくまつ)。1910年5月28日、福岡県宗像郡南郷村(現宗像市)大穂の北城戸房吉の二男として生まれた。
1924年5月場所で、若藤部屋所属・沖ツ海福雄の四股名で東京相撲の初土俵を踏んだ。
身長182㌢、体重116㌔。強烈なぶちかましと左四つからの下手投げに威力があり、西の小結だった1932年3月場所には9勝1敗で初優勝した。
翌場所、東の関脇となり、大関昇進も期待される有望力士だったが、1933年9月30日に巡業先の山口県萩市でフグ料理の中毒で急死した。まだ23歳の若さだった。
九州・山口の冬場の地方巡業では、フグを食べられるのも楽しみであったであろうから、ごちそうになってフグの毒にあたったか。
1936年夏場所から「関脇双葉山」が初優勝以来、大関、横綱昇進後も含め5場所連続優勝しているが、角界では「もしも沖ツ海が生きていれば、双葉山の69連勝を阻めたのでは」とまで惜しまれたほどである。
「宗像市コミュニティーセンター南郷(なんごう)会館」には、死の直前に婚約した師匠若藤親方の娘らと並ぶ沖ツ海の写真や、尋常南郷小学校で撮った同窓生との記念写真などの資料が展示してある。
実家近くには沖ツ海の御影石造りの墓もあるが、新泉岳寺にも墓碑が建てられたのは、沖ツ海が15歳の時に親もとになって一切の世話を引き受け、相撲界へ入門させた児玉恒次郎が、「郷土の誇り」として語り継ぐ記念碑として残したかったからだろう。
ちなみに直方出身の 魁皇が2000年の夏場所で優勝したのは、福岡県出身の幕内力士としては沖ツ海以来68年ぶりの快挙だった。

福岡市西区の愛宕山(標高約60メートル)山上にある愛宕神社は市内では眺めの良い場所の一つだ。
これは江戸時代から同様だったらしく、福岡藩の儒学者・貝原益軒も自ら著した藩内の地誌「筑前國続風土記」の中で「此山上にのぼれば、海陸山川の眺め廣くして勝れたる佳景也」と称賛している。
現在は、眼前に広がる景色は東側が早良区のシーサイドももち、正面が西区のマリナタウンの近代的な街並みだが、これらの埋め立て地が造られる以前、東側は百道の海岸の先に西公園が直接見通せたようだ。
一方、正面の眼下には豊浜の戸建て住宅街が今も昔もあるが、1962年まではここに「姪浜炭鉱(早良炭鉱)」があった。
そのことを物語るのが「早良工業」とある建物が存在していることからもよくわかる。
「姪浜炭鉱」の存在については昔話で聞いたぐらいで、どんな炭鉱だったのか実態は全く知らなかった。
個人的なことだが、30代初めに姪浜で暮らしたが、我が賃貸アパートは「早良工業」の所有であったため、ここが姪浜炭鉱の後続の会社と知り、調べてみた。
愛宕山の麓の豊浜に本坑、現在の西区小戸付近に第二坑があったというが、現在の街の姿からは到底想像できない。
姪浜図書館でに古写真などを当たってみたところ、思いの外に大規模な炭鉱で驚いた。
愛宕山の北の麓には田川市の伊田鉱跡地に残るような二本煙突がそびえ、現在、イオンマリナタウン店や住宅街がある一帯には様々な採炭施設が建ち並び、石炭輸送のための引込線も走っていた。
博多湾に面した場所には巨大なボタ山もあった。
たかだか半世紀程前には、現在とは全く別の風景が愛宕神社の下に広がっていたわけで、今のリゾート化した街並みに至る落差の大きさに愕然とさえする。
この炭鉱を1914年に開いたのは葉室豊吉という人物で、その石碑「葉室豊吉」が愛宕山中腹にたつ。
そして、その孫にあたるのが、ベルリン五輪(1936年)200メートル平泳ぎの金メダリスト・葉室鉄夫である。
葉室鉄夫は、1935年福岡県中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)を卒業し日本大学予科に進学する。
1936年のベルリンオリンピック200メートル平泳ぎで、葉室はドイツのエルヴィン・ジータスとの接戦の末に、2分41秒5の五輪記録で金メダルを獲得した。
この決勝戦はアドルフ・ヒトラーも観戦しており、表彰式での君が代演奏ではヒトラー自身も起立し、右手を前方に挙げるナチス式敬礼で葉室の栄誉を称えている。
1937の日本選手権200メートル平泳ぎで、2分40秒4の「世界記録」を樹立して優勝。以来1940年に第一線を退くまで、200メートル平泳ぎで「世界ランキング1位」の座を守った。
1940年に日本大学を卒業し、引退後は、福岡日日新聞社を経て、1946年毎日新聞社に入社し、運動部記者となってアメリカンフットボールの甲子園ボウル創設に携わるなど、第一線記者として活躍した。
運動部副部長を務めた後、1972年退職し、その後、大阪市のサンタマリアスイミング校長、高石市教育委員などを務めた。
1990年に国際水泳殿堂入りを果たした。
晩年の2005年10月、近所のプールから帰宅後、葉室は腹痛を訴え高石市内の病院へ搬送されるも症状は悪化し、同日夜、腹部動脈瘤で死去した。享年88。
なお、葉室の死によって戦前の日本のオリンピック金メダリストは全員亡くなったことになる。

戦後初の公の場での「日の丸」掲揚は福岡市でなされている。その場所とは、福岡国際マラソンのスタート・ゴール地点ともなっている「平和台陸上競技場」である。
福岡市の繁華街にも近い福岡城跡のある舞鶴公園の一角にあるこの競技場こそが、戦後初の「日の丸」が掲揚された最初の場所なのだ。
そこには、一人の人物の働きが大きくものをいった。
岡部平太は、福岡市の西・糸島市の芥屋出身。隻流館(福岡市)で柔道を始め、福岡師範学校(現福岡教育大学)に入学。
海や山などの自然に鍛えられた運動能力は高く、柔道をはじめ剣道、テニス、陸上競技、野球などさまざまなスポーツで活躍した。
1911年、柔道の全国大会「京都武徳会」で準優勝を果たし、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校(現筑波大学)に入学し、同時に講道館へ入門する。
1917年、柔道の国際化を進めるために米シカゴ大学に留学した岡部は、2年半の留学期間中に、アメフト、ボクシング、スキージャンプ、バスケットボールなどたくさんのスポーツを経験。
米ハーバード大学では、スポーツ生理学や女子体育の理論、体育史などを貪欲に学び、日本にはなかった科学トレーニングの基礎を身に付け、日本へ持ち帰った。
岡部は、日本における近代スポーツの遅れを痛感し、スポーツの発展には先進国との交流を積極的に進める必要があると考えていた。
理事長として1928年、日本初の陸上競技の国際試合となる「日仏対抗陸上競技大会」を開催して勝利し、極東選手権では陸上競技の総監督として優勝も果たしている。
1931年 満州事変が勃発すると、満州に渡って「満州体育協会」を創設する。
第1回スピードスケート世界選手権大会でも監督を務め、「満州の雄」として、その名をとどろかせた。
かくして日本が国際大会で活躍することのほとんどなかった時代に、スポーツで「日本を世界に知らしめる」という岡部の活動は、日本のスポーツ発展に大きく貢献した。
日本の敗戦により満州から帰国した岡部は、日本の誇りを取り戻すためスポーツで日本人が優勝できるのは「マラソン」しかないと考えた。
そして、日本初の五輪マラソン選手・金栗四三(かなくりしそう)に呼び掛け1950年に「オリンピックマラソンに優勝する会」を設立した。
「韋駄天」こと金栗は熊本出身で、岡部と同い年で九州人、さらには東京師範で嘉納を師と仰いだところも同じである。
岡部は監督として第5回ボストン・マラソンに参加し、広島県出身の田中茂樹選手が優勝している。
岡部、金栗の二人は1950年に「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成するが、田中優勝の祝辞を述べた金栗が、この会の設立を岡部の発案であることを明かしている。
かくして岡部は、金栗四三とともに日本のマラソン発展に大きな貢献をしたが、岡部はマラソンにとどまらず、日本のアメリカンフットボールの先駆者など、多彩なスポーツで活躍したことで知られる。
岡部が提案したのは、従来の精神論ではなく、科学的な根拠に基づく調査やトレーニング法で、岡部なくして日本マラソンの隆盛はなかったといえる。
「優勝する会」の1期生だった田中茂樹によれば、合宿にすき焼きが出て驚いていると、岡部は「疲労回復には食事と睡眠が一番だ」と笑っていたという。
精神論ばかりの時代で、そんなことを言う人は初めてだったと懐古している。
例えば、選手の疲労回復を促すための科学的調査を提案する。嘉麻市にあった三井山野炭鉱の研究所の協力を得て、走る前後の尿や血液を採取する。
その結果、マラソンで1時間半を走る疲労度が、炭鉱労働で最も激務だった木材運搬に匹敵することが分かった。
そして現在普及している「高地トレーニング」も岡部の発案であった。
その後のボストンマラソンへの挑戦で結果が出ずに悩んだ岡部が注目したのが、1960年ローマ五輪の覇者、アベベ・ビキラだった。
標高が高い母国エチオピアでの生活が心肺機能を高めたという説を確かめるべく単身で現地に飛んだ。
田中は「優勝する会」参加当初、不思議な練習が多かったと振り返る。
400m、1500mなど距離を決め、緩急をつけて走らされる。それは当時日本では浸透していなかったインターバル走だった。
そして岡部が練習や実戦の舞台としたのが、自らが創設した平和台陸上競技場だった。
そして、オリンピックではなかったものの、「優勝する会」の夢を見事も結実させたマラソンランナーが「重松森雄」である。
重松は、福岡県立福岡工業高等学校を卒業して、1959年九電工に入社する。 1961年に熊日30キロロードレースで当時の1時間36分29秒の「日本記録」で優勝した。
九州一周駅伝などのレースに出場するが、1961年に病気に襲われ、療養を余儀なくされる。
このとき、将来をことを考えて大学を出ておくべきだと決意し、九電工を退社。翌年に福岡大学に入学するという異色の経歴の持ち主である。
21歳で福岡大に入学し、2年目だった。
いつも地元の 脊振(せふり) 山(1055メートル)を3、4時間走り込み、山登りには絶対の自信があった。
ところで、2024年箱根駅伝は「100回記念大会」にあたり、史上初めて全国の大学に開かれることになった。
過去にも関東以外から参加した例はあった。中でも、関東の学生に衝撃を残して世界へ飛躍したのが、1964年に招待参加した福岡大の重松森雄であった。
福岡大の重松森雄は、アジア初の東京五輪を目前に控え、華やぐ正月の都心へ福岡からやってきた。
40回の節目の大会には福岡大と立命大が招かれたためだが、「打倒関東の気概」は如何なく発揮されたといってよい。
箱根駅伝では、エース区間の2区を走り、日大の高口徹、中大の碓井哲雄ら並み居る関東の強豪の走者を差しおいて区間賞相当の記録をマーク(招待大学のため参考記録)。
5区を希望したが、監督には2区で勢いをつけろと言われたからだという。
脊振山での鍛錬は2区でも生きた。8位でたすきを受けると、5キロを「5000メートルの自己記録より20秒ほど速い」14分11秒で通過。構わず飛ばすと「権太坂も楽々越えて」、1時間13分52秒(24・7キロ)の6人抜きで区間賞。
翌日の読売新聞は「重タンクのように突進した。関東の名門も顔色がなかった」とたたえた。
現在82歳の重松は、わずか1度の箱根を世界への飛躍に結びつけた体験から、箱根予選会が全国に開かれることを喜んだ。
「日本トップレベルだった関東の学生に勝って、これでマラソンでもやれるぞと大きな自信になったという。
重松は「箱根が自分を変えてくれた。あの区間賞でメンタルが強くなったおかげです」と強調する。
かつて「箱根」を世界への飛躍台とした重松は、自分も関東の大学へ行きたかったが、家庭の事情で地元に残った。
今もそんな学生がいるはず。地方のレベルアップ、選手発掘ができる全国化は続けてもらいたい。
何よりも、今年の予選会を目指す全国の選手には関東の学生に負けない気概で挑んでほしいと語った。
2024年箱根駅伝予選会が10月15日に東京立川で開催された。ハーフマラソンを5人の選手が走りその総合時間で箱根駅伝決まる。
前年の成績で10位以内はシード校なので出場せず、1位が昨年に続いて大東文化大学で、出場権ないの山梨学院大学が、11位とわずか3秒差で10位にはいり、2024年箱根駅伝出場をきめた。
関東圏の大学以外では、27位の京都産業大学が最高順位で、関東圏の大学との差をまざまざとみせつけた。
さて、重松の快進撃は大学4年の頃より始まる。
65年4月、伝統のボストンマラソンを2時間16分33秒で初制覇。
さらに約2か月後の英ウィンザーマラソンで、2時間12分0秒の「世界記録」をマークした。
個人的にも1964年東京オリンピックで、国立競技場でその圧倒的な強さを示したアベベの記録に優ったということ自体、 信じられないことであった。
ただ、この記録は1967年12月3日の福岡国際マラソンで、オーストラリアのデレク・クレイトンが2時間9分36秒を記録して更新された。
結果として2時間10分台の世界最高記録としては最後となった。
クレイトンの世界記録は、平和台陸上競技場をスタート地点とした「福岡国際マラソン」で達成されたものであり、人類がマラソンで「2時間10分の壁」を破ったビッグニュースとして世界に発信された。
さて重松は、大学卒業後は実業団に進んだが、座骨神経痛に悩み、メキシコ五輪代表最終選考レースは4位で五輪は逃した。
このメキシコ五輪では、福岡県小倉出身で八幡製鉄の君原健二が銀メダルを獲得している。
引退後は岩田屋やサニックスの女子陸上部の監督を歴任しているが、重松は指導者としても、岡部平太に強い影響を受けている。
2017年、長崎県の実業団チームメモリードで女子陸上部の総監督に就任し、現在、クラブチーム「ファースト・ドリームAC」(福岡市)の監督である。
2019年8月、その名を冠した「重松森雄杯 脊振山麓選抜小学生駅伝競走大会」が開催された。
重松森男に次ぐ、マラソン世界記録更新ランナーの出現が期待される。