SLと転車台のある風景

1966年にダークダックスとザ・ピーナッツがそれぞれ発表した「銀色の道」は、日本人の心に残る名曲であろう。
♪とおい とおい はるかな道は♪の歌詞ではじまり、♪銀色のはるかな道~♪でおわる。
この名曲が、北海道のオホーツク海に面した網走の鴻之舞(こうのまい)金鉱と、その引き込み線のイメージから生まれた曲とは思いもよらなかった。
作曲者の宮川泰(みやがわやすし)は、小学生の頃一時期鴻之舞に在住した時期がある。
「鴻紋(こうもん)軌道」の光景をイメージして「銀色の道」を作曲したという。
1932年から1952年にかけて、石北本線丸瀬布駅と鴻之舞を結ぶ索道「鴻丸索道」による物資輸送が行われている。
鉱山が栄えたころの1943年から1948年までの短い期間であったが、紋別中心地と鴻之舞との間に「鴻紋軌道」が敷設されていた。
軌道は物資輸送等に使用されたが、現在は「道紋別丸瀬布線」が通るのみである。
「鴻之舞」の地名の由来は、アイヌ語の"クオノマイ"(仕掛け弓のある処)からうまれた。
その当て字は「久宝能舞」と「久保之舞」の二案があったと云わ、ているが、命名者となる吉田久太郎は、「鴻之舞」と発案した。
その意味するところは、"鴻(おおとり)が辺りを威嚇して今にも飛び立とうとする様"を描いたと云われている。
鴻之舞地区は北海道紋別市の山間部にあり、国鉄名寄線紋別駅より約28kmの地にあり、事業所所在地の標高は海抜約150m。
この鴻之舞鉱山は、1915年に発見されて以来、17年には、数人の共同所有であった鉱業権を「住友」が買取り、整備開発がなされ、数十年の長い歴史を有しており、その間戦前から戦後にかけて「東洋一」の富鉱金山として栄えたという。
1949年、紋別市街と鴻之舞を結ぶバス路線が開設されている。
「上藻別(かみもべつ)」地区へ走る路線はかつての紋別市街と鴻之舞を結ぶ路線の名残であり、路線名は「鴻之舞線」で変わっていない。
木製の構造物は既に朽ち果て、集落もないが、大煙突、発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートやレンガ製の構造物が藪や林の中に散見される。
ここに、鉱山があったことを示す碑、「鉱山犠牲者の慰霊碑」が建立されている。
現在、韓国との「徴用工問題」にも関連している鉱山でもある。
さて、我が地元福岡にも、ダークダックスが歌った「銀色の道」に連なるような風景があった。
1907年、「志免(しめ)村(現・糟屋郡志免町)で「海軍炭鉱第五坑」が採炭を開始したことから、「博多湾鉄道」の酒殿(さかど)駅〜志免駅間が延伸開通し、志免駅が開業する。
海軍からの要請で海運業にも参入し、社名を「博多湾鉄道汽船」に変更している。当初の本店は東京市京橋区銀座に置き、資生堂創業者・福原有信(ふくはらありのぶ)も株主に名を連ねていたという。
博多湾鉄道の志免駅に伸びる線は、戦後に国鉄の「香椎線」旅石(たびいし/貨物駅)支線」となるが、1960年に「志免駅〜旅石駅間」が廃止となった。
そして1956年「志免駅」周辺が「志免鉄道記念公園」として整備された。
その東側にある「志免鉱業所竪坑櫓」は、1943年に海軍炭鉱の竪坑櫓として建設されたもので、国の重要文化財に指定されている。
いまだにその威容を誇っており、志免町のシンボルとなている。
最後まで残された「勝田線」の前身は、「筥崎宮、宇美八幡宮、太宰府天満宮」への参拝客を運ぶ目的で敷設された「筑前参宮鉄道」であるが、宇美村の筑前勝田駅以遠は延伸されることなく、実際には「石炭輸送」で活躍した線である。
炭鉱の閉鎖と共に勝田線は廃止となり、勝田線の廃線跡は「緑道」として整備されている。
さて、「志免鉄道記念公園」にはかつて「蒸気機関車」が置かれていた。この蒸気機関車は、1919年から1974年までの55年間、長崎本線や唐津線で旅客、貨物の輸送に日夜活躍した。
なかでも1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された時期には、多くの人、被災された人々を乗せて走ったこともあった。
1974年に廃車となり、福岡県志免町の公園にて保存されてきたが、製造されてから94年目になった2013年、老朽化による解体処分が公表された。
ところが、「もうすぐ製造から100年となる蒸気機関車を救って欲しい」との多くの方々からの「救済の声」が、大分県の玖珠町に届き始め、志免町との協議の結果、「玖珠町」が譲渡を受け、福岡県直方市の「汽車倶楽部」に補修を依頼して、2015年6月より、大分県の「豊後森駅」前に保存することとなった。

JR「日田駅」から大分方面へ30分ほどで「豊後森(ぶんごもり)」という駅に着く。
駅前にかつて蒸気機関車の6つの車庫が扇城に並んでいて転車台と繋がる大掛かりな「転車台」が保存されている。「転車台」とは、車両の前後を回転させて方向転換する設備である。
かつてサンフランシスコでみた市街電車は、終点において運転手自身が転車台使って”人力”で押して向き回転させていたのが名物だった。
ここ豊後森の「転車台」は、機械で動かす仕組みになっている。老朽化してすっかり廃墟となっているが、これだけの設備が保存されているのは感動ものである。
大分(豊後)の森中を走る蒸気機関車のイメージは、かつてNHKスペシャルで見たイギリスのウエールズを舞台に走る「機関車トーマス」の映像が思い浮かぶ。
「豊後森」は実際に「童話の里」とよばれ、デンマークの童話作家「アンデルセン」と関わりがある。
それは「日本のアンデルセン」と呼ばれた人物の生まれ故郷であったからだ。
アンデルセンは、1805年のデンマーク=ノルウェーの都市、オーデンセに生まれた。
父は最下層の靴職人、母は洗濯婦という非常に貧しい家庭であったが、貧しさゆえの物資の欠乏や、虚言癖のある祖母からの影響を受けて、想像力の豊かな天才少年として育った。
アンデルセンは、世に受け入れられず様々な辛酸をなめたの血、童話作家として生きる道を見出し、『人魚姫』や『マッチ売りの少女』、あるいは『アナと雪の女王』の原作となった『雪の女王』など、多くの作品が読み継がれている。
アンデルセンは1875年にコペンハーゲンにて肝臓がんのために、この世を去った。
豊後森を「童話の里」としたのは、意外にも瀬戸内海を拠点とする村上水軍の末裔である「久留島武彦(くるしまたけひこ)」である。
村上水軍は大きく三つに分かれ、広島の因島(いんのしま)を根拠とする「因島村上氏」、能島(のしま)を根拠とする「能島村上氏」、四国本島近くの来島(くるしま)を根拠とする「来島村上氏」である。
ちなみに、日露戦争でロシア(バルチック)艦隊を撃破した日本海海戦に村上水軍の「丁字戦法」を取り入れ世界の海戦史上例の無い大勝利、「東郷ターン」と呼ばれた。
この「来島村上」氏が関ヶ原の戦いで西軍につき敗軍となった後、改易(取り潰し)は逃れたものの、今後一切水の上で暴れられないようにとの徳川家康の思惑があったのか、大分県の山奥である「豊後森藩」に転封させられたのである。
そして、二代目藩主が、「来島」を「久留島」と改めて現在に至っている。
久留島武彦は、村上水軍「因島来島氏」の末裔で、日本人の誰もが馴染んだ童謡「夕やけ小やけ」の作詞者である。
大分県玖珠郡森町出身の児童文学者で、森藩9代の藩主・久留島通容(くるしまみちかた)の孫にあたる。
1887年、大分中学(現・大分県立大分上野丘高等学校)に入学する。
久留島はそこで英語教師をしていたアメリカ人宣教師のS・H・ウェンライトと出会い、ウェンライト夫妻の影響もあり日曜学校で子供たちにお話を語る楽しさを知り、キリスト教の洗礼を受けた。
ウェンライトの転勤と共にウェンライトのいる関西学院に転校し、同校を卒業する。
1924年、久留島は日本童話連盟が創立され厳谷小波らと共に顧問に就任した。
同年にデンマークで行われたボーイスカウトの世界大会「ジャンボリー」に、日本の派遣団副団長として参加している。
このときアンデルセンの生地であるオーデンセを訪れ、アンデルセンの生家が物置同然に扱われていることや、アンデルセンの墓が手入れもされず荒れ放題だったことに心を痛め、地元新聞をはじめ、行く先々でアンデルセンの復権を訴えた。
これに心動かされたデンマークの人々は久留島のことを「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。
JR豊後森駅から徒歩30分で「久留島武彦記念館」に着く。
また大分県中津市にいくと村上は久留島の口演童話活動を記念して「村上記念童心会館」がある。
久留嶋の中津市時代の幼馴染に、西鉄社長でライオンズを創設し井筒屋の社長もつとめた村上功児がいた。
この会館は、村上社長が久留島の業績を記念して建てたものである。また、青少年の育成に尽くした人に「久留嶋武彦文化賞」が贈られている。
ところで、豊後森駅前の転車台のある廃墟が、ごく最近「聖地巡礼」の地となっている。
そして韓国や中国からの訪問者が増えている。
新海誠の「すずめの戸締り」の冒頭に登場する廃ホテルのモデルこそが、豊後森駅前の廃墟に近似しているのだ。
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。
彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、廃ホテルで円形のコンクリート建築。周囲の廃屋に比べてひときわ大きく目立っている。
かつてこのリゾートの中心施設だったらしい、その廊下から出るとそこはホテルの中庭だった。
すっかり天井の落ちたすかすかの鉄骨ドームの下に、百メートル走が出来そうなくらいの広さの円形の空間があり、地面には透明な水が薄く溜まっている。
その水溜まりの中央に、白いドアがぽつんと立っていた。すずめは、なにかに引き寄せられるように、扉に手を伸ばす。
この「円形のホテル」のモチーフとなった建物が豊後森のSL格納庫ではないかと推測される。
「扉」は山を登り切った山中の廃墟にあったが、眼下に見えるのは古い「温泉郷」。
玖珠盆地は、ゆったりと玖珠川が流れ、まわりをメサ(卓状台地)が取り囲むのどかな里。万年山は、我が国最大級のダブルメサ、5月のミヤマキリシマ開花期は見事な美しさを誇る。
屏風を立てたような岩扇山、また福万山、鏡山などの集合メサ郡は全国でも類を見ない雄大な山容をみることができる。
豊後森の機関庫から車で25分程の場所に、この温泉郷ではないかと思われる「天ヶ瀬(あまがせ)温泉がある。
2020年7月の豪雨で「天ケ瀬温泉」は、玖珠川が氾濫し大災害を被った。
「すずめの戸締り」は、大災害を巻き起こす「みみず」を封じ込めること(つまり戸締り)が主題であるだけに、ありがたくない符節の一致である。
ちなみ豊後森は大分県の玖珠郡玖珠町に位置するが、お隣の日田市は「進撃の巨人」の世界的ヒットで「聖地巡礼者」が増えているため、久留米と大分を結ぶ「久大線」は急速にアニメ聖地化が進行し、客足も増えている。
さて、前述のとおり豊後駅前の転車台のある廃墟は、大分県の旧国鉄久大線を走るSLの格納庫として建てられ、現存する扇型機関庫としては九州唯一の近代化産業遺産である。
ここではSLが間近で見られるほか、すぐ近くには「鉄道ミュージアム」もある。
この設備は、1934年11月に久大線全線開通と同時に完成したが、1970年に鉄道のディーゼル化により、機関庫は廃止され現在に至っている。
米軍戦闘機による機銃掃射を受け現在でもその爪跡が残っていて、貴重な歴史遺産となっている。
この豊後森に置かれているSL(2008系)は、かつて「志免鉄道記念公園」に置かれていたものだ。
2023年3月、自分はこのSLと約30年ぶりに再会したことになる。

2018年の冬に、岡山県津山を旅した。津山は、織田信長の小姓・森蘭丸の第五男が築いた城下町。宇田川溶庵など洋学が盛んなところ。
そしてB’Sの稲葉浩二の実家「稲葉化粧品」があり、また横溝正史作「八つ墓村」の舞台となっただけに、かねてより一度いってみたいと思っていた。
「八つ墓村」は、1938年に実際起きた津山事件をモデルにしているだけに、西洋と土俗の入り混じった山間の街として以前より興味を抱いていた。
津山駅から歩いて20分ほどに位置する津山城の遺構を見学した後、予想した以上に整備された長い城下町を歩いていくと、そこで出会ったものは、なんと「渥美清」の顔、そういえば映画「八つ墓村」(1971年)の金田一耕介役は渥美清であった。
というわけではなく、そこにあったのは「男はつらいよ」の撮影地を示すいくつかのの石碑であった。
「男はつらいよ」第24作は、津山を舞台に行われている。
渥美清は、1996年に68歳で亡くなっているが、津山は「渥美清」という俳優を全面にだして町の保存を行っているように思える。
岡山県津山は、かつて「森藩」に属していた桜が美しい山間の城下町である。
1603年信濃川中島藩より森忠政(森蘭丸の弟)が18万6千5百石にて入封し、津山藩が立藩した。
ちなみに森蘭丸は信長に仕えた美男の小姓として有名だが、俳優のオダギリジョーやTVアナウンサーの押坂忍といったイケメンが多い町であることを知った。
岡山県津山は、横溝正史の「八つ墓村」のおどろおどろしいイメージがあるが、意外にも近代的な要素を兼ね備えた町である。
江戸時代の初めごろにオランダ人がコーヒーを出島に持ち込み、出島に出入りする通詞(通訳)や役人も示しコーヒーを飲んでいたことが記録にある。
このコーヒーに強い興味を示したのが津山藩の洋学者・宇田川榕菴(うだがわようあん)である。
榕菴はわずか19歳で「哥非乙説」という論文を書いている。
「哥非乙説」をまとめる2年前、榕菴は養父の玄真とともに、将軍に拝謁するために江戸へやって来たオランダ商館長と面談をしている。
こうした江戸参府の時にお土産としてコーヒーを贈ることがあったようで、この時榕菴もコーヒーを口にするチャンスに恵まれたと推測できる。
ちなみに「珈琲」の当て字は、榕菴が考えたものといわれている。
この津山駅をおりてすぐ目に入るのがSL機関車。そこに隣接する「津山まなびの鉄道館」は、旧津山扇形機関車庫として車両、転車台、蒸気機関車の動輪など展示するスペースと、岡山の鉄道の歴史や、鉄道のしくみを体験ながら学べるスペースがある。
1936年に建設された「旧津山扇形機関車庫」は現存するものでは豊後森に次ぐ国内2番目の規模を誇る施設である。
そして国内で1台のみ製造された大馬力のエンジンを積んだディーゼル機関車「DE50-1」が保存されている。
大分県の童話の故郷である豊後森、そして岡山県の八つ墓村舞台の津山も、かつては同じ名前の「森(地名or大名の名)藩」とよばれ、そしてSLと転車台の設備が並んで現存しているというのも、奇縁である。

第12代藩主通靖の世に明治維新を迎えて、廃藩置県となり、久留島通靖は「森県知事」に任命されました。 明治4年(1871年)当時は、いまの玖珠町行政区画内は23村がありましたが、明治22年(1889年)に、森村・万年村・北山田村・八幡村の4つの村に合併しました。その後、森村は明治26年(1893年)森町に、万年村は昭和2年(1927年)玖珠町に改称し、そして昭和30年(1955年)この4町村が合併して、現在の玖珠町となりました。 玖珠の生い立ち~玖珠は、童話とメサの里です。 玖珠ー “くす” と読みます。この地名の由来には、おもしろい民話が語りつがれています。 昔、この盆地には大きな楠(樟)の木がそびえておった。その木陰では作物も育たず、里人は難儀をしておった。と、ある日、大男が通りかかった。里人が懇願すると、大男は苦心の末、ついにその大楠の木を切り倒してしまった。そのきりかぶが、そう、伐株山というわけ.。  こんな話が生まれた育った玖珠盆地は、ゆったりと玖珠川が流れ、まわりをメサが取り囲むのどかな里です。万年山は、我が国最大級のダブルメサ、5月のミヤマキリシマ開花期は見事な美しさを誇ります。屏風を立てたような岩扇山、また福万山、鏡山などの集合メサ郡は全国でも類を見ない雄大な山容で、見る者に深い感動を呼び起こさずにはいません。  anou.jpg 森藩時代の中心地であった森町。その森藩は、豊後の8つの藩の中で一番小さい1万4千石だった。藩主久留島氏はもともと瀬戸内海村上水軍の頭領で、関ケ原の戦い(1600年)で西軍についたため、豊後森藩へ移封。その後、初代康親から12代通靖まで約270年間の藩政が敷かれ明治を迎えた。8代藩主通嘉公の時、末広神社の改築に着手し、久留島庭園や清水御門、栖鳳楼等の建造物が今も数多く存在する。 in00.jpg 玖珠町を代表する伐株山と万年山。ともにメサと呼ばれる卓状台地だ。伐株山は標高685メートル。登山口より頂上まで徒歩1時間。四季を通じて気軽に登山ができるのが魅力だ。最近では、大空を爽快に舞うハンググライダーやパラグライダーの基地としても人気が高い。また、中腹には憩いの森キャンプ場もあり楽しめる。  万年山は海抜1140メートル。各登山口から徒歩で2時間頂上からの雄大な眺めが素晴らしく、5月下旬から6月上旬にかけて、ミヤマキリシマやドウダンツツジが咲き乱れ、鮮やかな花のじゅうたんが美しい。山頂付近には非難小屋や炊飯施設等もあり、絶好のハイキングコースである。 水清き玖珠川が流れ、奇岩が織りなす美しい山景を有するこの地では、それぞれ様相の異なった滝を目にすることができる。天瀬町との境にある慈恩の滝は、大蛇伝説で知られている水量豊富な滝。上滝と下滝の2段式になっており、滝の裏側の歩道からは流れ落ちる様子が目の前で見られる。 三日月の滝は落差10メートル、滝の落ち口が三日月の弧を描いたようになっているところからこの名がつけられた。 日本の滝100選にも選ばれた西椎屋の滝は、落差86メートルの豪快な水の落ちっぷり。 清水瀑園は別名“うつばしの滝”と呼ばれ、豊の国名水15選に指定された。森林の中で自然に湧き出す清水が幾つもの滝をなしている。 各地に名勝あれど、玖珠ほど多くの景勝地を持ち、その趣もそれぞれ違ったところはないように思える。 大草原いっぱいに敷きつめられたコスモス園は、まるで別世界のようだし、台風のお陰で木が倒され、突然姿を現した東奥山七福神は、新たな観光スポットとなった。 奇岩の峯が続く立羽田の景は紅葉や雪景色が風雅であり、広い池をたたえる鶴ヶ原の景は、かつて森藩主の別邸があったといわれ、昔から水景色の美しいところ。そして5月には目映い新緑が広がる谷河内の景がおすすめ。木漏れ日が揺れる緑の中で、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込めば、疲れた体も一気にリフレッシュ。 k00.jpg 森藩の栄華を偲ばせる建築物や踊り、太古の神秘さを感じる遺跡、人々の暮らしの中に息づいた楽など、その時代の象徴となる貴重な文化財がこの町にも残っている。角牟礼城の石垣は穴太積みという様式で、大小様々な加工を施してない自然の石を使用。一見、無造作に積み上げたようにみえるが、実はバランスを計算した近世城郭の頑固な石垣である。8代森藩主・通嘉公が伝えたといわれる優雅な山路踊りや花見の宴などに使用されたとされる栖鳳桜は、風流な情緒を漂わせる。また、神社に奉納される同じ杖楽でも滝瀬楽、山下岩戸楽、古後大浦楽はそれぞれに特色があって興味深い。 douwasai01.jpg 「日本のアンデルセン」と讚えられた口演童話家、久留島武彦。日本全国をまわって童話を読み聞かせ、我が国の児童文学史に大きな足跡を残した偉人である。「故郷の玖珠こそ志を育てるのにふさわしい」と有志が昭和25年、玖珠町に童話碑を建立。この除幕式こそ「日本童話祭」の第1回目である。 毎年5月4~5日に開催される童話祭は、おとぎ劇場や竹トンボ教室、子供太鼓や連ダコあげなどの楽しい催しに、県内外から子どもたちが大集合。一番のお目当ては、日本一のジャンボ鯉のぼり。鯉があがると歓声もあがり、童話の里は子どもたちの楽しい笑顔でいっぱいになる。 水軍で有名な来島村上氏が治めた豊後森藩の名残、旧久留島氏庭園を歩く【大分の旅】 旧久留島氏庭園  Twitter  Facebook  はてブ  Pocket  LINE  コピー 旧久留島氏庭園は江戸時代に豊後国(大分県)の『速水、玖珠、日田』を領した森藩の藩庁があった場所です。 藩主は来島氏。戦国時代に瀬戸内海で活躍した村上水軍の一族であります。1601年に入封し明治維新まで森藩を治めました。 いちのまる いちのまる 童話作家で著名な久留島武彦はその末裔に当たります。 今回は旧久留島氏庭園の風景と来島・久留島氏の歴史について書きます。 それでは参りましょう! 旧久留島氏庭園へのアクセス 大分自動車道の玖珠ICを下り右折、国道387号に入ります。 そのまま道なりに進むと『三島公園』、『わらべの園』の看板がありますのでそれに従えば到着します。高速道路を下りてから10分かからないくらいで着くかと思います。 JR豊後森からバスが出ているようですが本数が余りに少ないので自家用車かレンタカーで行くことをおすすめします。 来島氏の歴史について 旧久留島氏庭園 水軍で有名な村上氏は瀬戸内海の要所である能島、因島、来島に一族を置き一帯を支配しました。 後に能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏と呼ばれることになります。 元を辿ると清和源氏に行き着くようですが、途中の家系図が混乱していて正確なことはわかっていません。 参考記事 島がまるまる城跡?!村上水軍が治めた来島城跡に行ってきた!【愛媛の旅】 jp-travelogue.com 参考記事 村上海賊の城、能島城跡をカレイ山展望公園から眺める【愛媛の旅】 jp-travelogue.com 旧久留島氏庭園 来島村上氏は伊予国(愛媛県)の河野氏に仕え瀬戸内海の警備にあたりました。 当主の村上通康は主家頭領の河野通直にとても気に入られ婿養子となり、後継者に指名されるほどでした。それは通直の息子や家臣に激しく反対され叶いませんでしたが、河野家中でかなりの発言力を持っていたことがわかります。 ところが、かつては有力な豪族であった河野氏も戦国時代になると家督争いや隣国からの圧力でボロボロな状態に。 縁戚関係があった安芸国の毛利氏に助力してもらいながら何とか存続しているような具合でした。 村上通康は1567年に病死しています。跡継ぎは息子の通総です。 関連記事 湯築城の風景と伊予の豪族・河野氏の歴史について紹介する!【愛媛の旅】 jp-travelogue.com 旧久留島氏庭園 1577年、織田信長が羽柴秀吉に中国征伐の命を下します。 主家・河野氏の体たらくにうんざりしていた来島通総は隙あらば叛旗を翻そうと虎視眈々と狙っていました。 通総は1579年に河野氏から離反し、1582年に羽柴秀吉の調略を受けて織田方に与することになります。 その際、河野氏、及び毛利氏・能島村上氏に来島を攻められ居城を失ってしまいます。通総は一先ず秀吉の下に寄りました。 信長、秀吉の調略は能島、因島、来島の村上三家に及んでいましたが、従ったのは来島氏だけでした。秀吉に可愛がられた来島通総の子孫は大名に、他二家は大名には成れず毛利家臣として存続しています。 ちなみに通総の父である村上通康の娘と穂井田元清(毛利元就の四男)の間に生まれた毛利秀元も大名になっています。 毛利秀元といえば宰相殿の空弁当が有名ですね。 関連記事 岩国城と宰相殿の空弁当で有名な吉川広家について【山口の旅】 jp-travelogue.com 本能寺の変で織田信長が討たれ、代わりに羽柴秀吉が天下を狙う役回りとなります。この辺は細かく説明すると脱線してしまうので割愛! 来島通総は秀吉に従い四国征伐、九州征伐、小田原征伐に参戦したようです。 そして朝鮮出兵(文禄の役)での海戦で通総は戦死してしまいます。 旧久留島氏庭園 その跡を継いだのは来島康親。彼も父と同様、秀吉に仕えました。 豊臣秀吉が亡くなり、1600年の関ヶ原の戦いでは秀吉や毛利氏と関係が強かった来島氏は西軍の味方に付きます。 ご存知の通り関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍が勝利を治めています。 敗将となった康親は戦後に流浪の身なりますが、東軍の将・福島正則と縁があったため赦され、1601年に江戸幕府から豊後国森1万4000石を拝領されます。 来島康親は31歳の早さで亡くなり長男の通春が跡を継ぎます。 通春の代に来島の姓を久留島に変えたと云います。 旧久留島氏庭園 ってな感じで久留島氏の豊後森藩は明治まで続き、その後は華族に加えられます。 旧久留島氏庭園 来島村上氏の子孫である久留島武彦は明治から昭和に活躍した児童文学者です。 彼は森藩最後の藩主である久留島通靖の孫に当たります。  「日本のアンデルセン」と呼ばれた久留島武彦は、明治・大正・昭和の三代にわたって、人が人として共に生きていく上で、必要な教えを楽しいお話にのせて子どもたちに語り聞かせた教育者です。また、日本にボーイスカウトを紹介し、日本ボーイスカウトの基盤作りに尽力、以下のような日本初となる数々の業績を残し、日本の近代児童文化の基盤を築き上げたパイオニアといえます。 久留島武彦記念館HPより 久留島武彦はデンマークに訪問したとき、アンデルセンの生家やお墓が余りに雑に扱われているのを見て心を痛めました。 『これはどうにかならないものか?』と行く先々でアンデルセンの復権を訴え、これにデンマークの人々が感激し日本のアンデルセンと称賛したため『日本のアンデルセン』と呼ばれるようになりました。 終わりに 旧久留島氏庭園 旧久留島氏庭園は歴史・観光スポットというよりは地元の子供たちが遊ぶ公園です。 私のような不審者がカメラをぶら下げて徘徊していると、親御さんたちから白い目で見られます。 いちのまる いちのまる もう、慣れたけどね。 おしまい! 玖珠町 歴史 シェアする TwitterFacebookはてブPocketLINEコピー いちのまるをフォローする  ホーム九州地方大分県玖珠町水軍で有名な来島村上氏が治めた豊後森藩の名残、旧久留島氏庭園を歩く【大分の旅】 サイト内検索  カテゴリー カテゴリーを選択九州地方 (86) 福岡県 (7) 久山町 (1) 福岡市 (2) 柳川市 (1) 八女市 (1) 北九州市 (3) 佐賀県 (7) 佐賀市 (7) 長崎県 (1) 長崎市 (1) 熊本県 (6) 熊本市 (3) 小国町 (1) 美里町 (1) 山都町 (1) 大分県 (53) 臼杵市 (7) 竹田市 (4) 国東市 (8) 豊後高田市 (2) 宇佐市 (1) 豊後大野市 (3) 大分市 (7) 中津市 (6) 別府市 (7) 杵築市 (2) 日出町 (1) 由布市 (1) 日田市 (1) 九重町 (1) 玖珠町 (2) 宮崎県 (4) 日南市 (2) 木城町 (1) 五ヶ瀬町 (1) 鹿児島県 (8) 鹿児島市 (8)四国地方 (20) 香川県 (3) 高松市 (2) 東かがわ市 (1) 徳島県 (2) 藍住町 (1) 徳島市 (1) 愛媛県 (10) 今治市 (5) 松山市 (3) 大洲市 (1) 宇和島市 (1) 高知県 (5) 土佐清水市 (1) 高知市 (3) 南国市 (1)中国地方 (18) 山口県 (8) 岩国市 (3) 下関市 (2) 長門市 (3) 島根県 (2) 安来市 (1) 浜田市 (1) 鳥取県 (4) 鳥取市 (4) 広島県 (2) 広島市 (1) 庄原市 (1) 岡山県 (2) 津山市 (1) 岡山市 (1)近畿地方 (13) 兵庫県 (8) 姫路市 (1) 神戸市 (1) 三木市 (1) 伊丹市 (1) 朝来市 (1) 篠山市 (1) 明石市 (1) 芦屋市 (1) 京都府 (1) 福知山市 (1) 奈良県 (1) 平群町 (1) 滋賀県 (3) 彦根市 (2) 長浜市 (1)東海地方 (6) 愛知県 (3) 岡崎市 (1) 犬山市 (1) 名古屋市 (1) 岐阜県 (1) 岐阜市 (1) 静岡県 (2) 南伊豆町 (2)北陸地方 (7) 石川県 (3) 加賀市 (1) 金沢市 (1) 七尾市 (1) 富山県 (4) 高岡市 (2) 富山市 (1) 魚津市 (1)甲信越地方 (6) 山梨県 (2) 甲府市 (1) 甲州市 (1) 長野県 (2) 上田市 (1) 松本市 (1) 新潟県 (2) 上越市 (2)関東地方 (84) 千葉県 (1) 市川市 (1) 東京都 (17) 世田谷区 (3) 港区 (6) 国立市 (1) 狛江市 (1) 三鷹市 (1) 渋谷区 (1) 羽村市 (2) 檜原村 (2) 埼玉県 (1) 秩父市 (1) 神奈川県 (7) 箱根町 (1) 横須賀市 (1) 藤沢市 (5) 群馬県 (48) みどり市 (5) 渋川市 (2) 沼田市 (3) みなかみ町 (1) 下仁田町 (3) 東吾妻町 (2) 安中市 (1) 富岡市 (2) 高崎市 (5) 太田市 (5) 桐生市 (3) 前橋市 (7) 昭和村 (1) 甘楽町 (1) 川場村 (1) 伊勢崎市 (4) 草津町 (2) 神流町 (1) 上野村 (1) 栃木県 (7) 足尾町 (2) 足利市 (2) 宇都宮市 (3) 茨城県 (3) 牛久市 (2) 古賀市 (1)東北地方 (1) 福島県 (1) 白河市 (1) タグ  歴史 城 神社 寺 古戦場 パワースポット 登山 温泉 国宝 B級スポット 滝 ワイナリー 橋 鍾乳洞 湖 グルメ へび 岬 博物館 世界遺産 ダム トンネル 農業 公園 動物園 灯台 人気記事TOP10 1 日本屈指の聖域か?!最恐なパワースポット白鹿権現について【大分の旅】 2 滝廉太郎の生涯と歌曲・荒城の月の歌詞の意味について【大分の旅】 3 軍神・広瀬武夫とアリアズナの悲恋物語。広瀬神社に行ってきた!【大分の旅】 4 白河小峰城に登城!お城の歴史と人柱伝説・おとめ桜について【福島の旅】 5 立花山城の歴史について!立花道雪と誾千代の居城を登る【福岡の旅】 6 神風連の乱とは?かれらは何を思って明治政府に戦いを挑んだのか【熊本の旅】 7 群馬の寝釈迦はどこにいる?隠れた神聖スポット袈裟丸山(二子山)に登る【群馬の旅】 8 大分県で爬虫類を飼うならエキゾチックAIJAがおすすめ!【大分の旅】 9 島津vs大友!豊薩合戦の戦死者が弔われた千人塚に行く【大分の旅】