聖書の言葉より(安息日を覚えよ)

旧約聖書は、「休むこと」(安息日)をとても大切にしている。また、新約聖書は、「神の国に入る」ことを「安息に入る」と表現している。
「安息日の休みが、神の民のためにまだ残されている」(ヘブル人への手紙4章8節)
そして、「モーセの十戒」の第四戒は「安息日を覚えて、これを聖とせよ」である。
その淵源は、神が「天地創造」を終えて七日目に休んだことによる。
「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである」(出エジプト20章)とある。
またイスラエルでは、七日目ばかりか「七年目」も「安息の年」とされた。
「あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない」(出エジプト記23章)。
ここで「安息の年」は、貧しい者や野の獣への配慮があることがわかる。
加えて、寄留者や奴隷に対する配慮も含まれる。
「安息の年の地の産物は、あなたがたの食物となるであろう。すなわち、あなたと、男女の奴隷と、雇人と、あなたの所に宿っている他国人と、あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、その産物はみな、食物となるであろう」(レビ記25章)。
特にイスラエルは、「あなたは寄留の他国人をしえたげてはならない。あなたがたはエジプトの国で寄留の他国人であったので、寄留の他国人の心を知っているからである」(出エジプト25章)とある。
以上とから、「安息の年」の規定が与えられている理由は、三つ考えられる。
(1)土地は神の所有であり、その地の収穫は主の恵みによるものであることを覚えるため。
(2)土地(自然・動物)そのものを休ませるため。
(3)貧しいもの、寄留者、負債を負って奴隷になっている人々の解放のため。
さらには、古代イスラエルには50年に1度、「ヨベルの年」というものがもうけられた。
「あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。その五十年目はあなたがたにはヨベルの年である。種をまいてはならない。また自然に生えたものは刈り取ってはならない。手入れをしないで結んだぶどうの実は摘んではならない」(レビ記25章)
このように古代イスラエルにおいて、7年目の年を「安息の年」としていたが、その安息年が7回めぐってきた翌年、つまり50年目を「ヨベルの年」といい、この年は負債や奴隷からも解放される喜びの年とされていた。
ちなみに、「ヨベル」とは、安息日の始まりと終わりの合図として、会堂の屋上からラビが吹き鳴らす「雄羊の角笛」のことである。
さて、神が天地を創造されて、第7日目に安息に入られたため「七」は完成・完全を表す数字として聖書の中で繰り返し用いられている。
例えば、ヨシュアがエリコの城を攻め落として勝利したとき、彼らは6日間、エリコの町を回り、7日目には「七度」町を回った。
その時、堅固なエリコの城の城壁は崩れ落ち、イスラエルは大勝利を収めた。
「七」は完成・完全を表す数字であるが、それが繰り返されることで、決定的な神様の介入と、神様の「時」が示されているといえよう。
新約聖書にペテロがイエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と聞いた場面がある。
するとイエスは「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。(マタイ福音書18章)と応えている。
これは7×70=490回という「計算」に意味があるのではなくて、「七」という数字を繰り返すことによって「完全」に赦しなさいと教えているのである。

新約聖書においても、「安息日」や「ヨベルの年」は、新しい契約の「型」としていくつかの場面で登場する。
それはイエスの十字架の後に聖霊が下ったのは、7週後の50日目(五旬祭・ペンテコステ)であった。
イスラエルで一番有名な祭りは出エジプトを記念した「過越の祭り」であるが、次にい大きな祭りが「七週の祭り(シャブオット)」で、この祭りは、7週(49日)を経た50日目の日曜日に行われる。
「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない」(レビ記23章)。
興味深いことに、イエスの十字架の刑死は「過越の祭り」の時であるが、使徒に聖霊が下ったのペンテコステの日は、「七週の祭り(シャブオット)」の時でなのある。
これは50年目にめぐってくる「ヨベルの年」を思い起こさせる数字である。
ただ、日本人には仏教の「四十九日(しじゅうくにち)」という喪の期間を思い浮かべる。
この期間、親しい人々は故人のご冥福を祈り、この期間を経て、亡くなった人の魂は仏様のもとへ行くと考えられていく。
伝搬過程のどこかでで影響があったのかもしれない。
ところで、「ヨベルの年」には、人々は土地を休ませただけでなく、借金の全てが免除された。
自由な経済活動は、今も昔も富の格差を生むのであるが、この時代には自分の土地だけでなく、自らを奴隷として売らなければならないほど困窮するということがあった。
そして、ひとたび奴隷となってしまった人々は、自力で自らを買い戻して(贖って)自由人となるということは不可能であった。
そのために、売られてしまった土地や、奴隷となっていた人々が、7回の安息年を経た50年目に解放されることは、そうした行き詰りからの脱却を意味した。
そしてこの年は「恵みの年」とも呼ばれていて、国中に大きな喜びがあったのである。

イスラエル民族独自の定めや律法が旧約聖書にあるが、それらユダヤ教的な要素を「メタファー」としつつ、より普遍的なものとして広がっていったのがキリスト教である。
そころが、不思議なのはユダヤ教では週の7番目の日「土曜安息日」を聖なる日であるのに、どうしてキリスト教は週の初め日曜日を聖なる脾と定めたのであろうか。
実は、ペンテコステの日に聖霊が下り、エルサレムに誕生した「初代教会」は聖書の教えどおり安息日を聖別し守っていたことがわかる(使徒行伝17章2節/18章4節)。
エルサレムから始まり復興した初期キリスト教は、イスラエルから近い小アジア地域に続きマケドニアとローマにまで伝えられた。
その過程で避けられなかったことが、ローマ土着の宗教との摩擦であった。
ローマ人たちは、もともと多神教的宗教観を持っており、「ヤハウェ」という唯一神を信じるユダヤ人を理解することができなかったため、ユダヤ教を信じるユダヤ人たちのことを非常に嫌っていた。
その後ローマでキリスト教徒が増えその信仰が認められる一方で、ローマに住むユダヤ人達(ユダヤ教徒)は、イエスを救い主とは認めす、そうした信仰を理由にローマの命令に従わなかった。
ただキリスト教徒は、ユダヤ人たちと同様に七番目の日を安息日として守るので、外見上はローマ人たちにはキリスト教がユダヤ教の一分派に見えた。
それゆえ、迫害を避けることができなくなったキリスト教会は、キリスト教がユダヤ教と違うということを認識させようと努め、その過程でローマ人たちが元々守る「日曜日」を礼拝日として受け入れるようになる。
実は、日曜日(Sunday)は、もとローマミトラ(太陽神)教の「太陽神崇拝日」だったのである。
BC1世紀頃ローマに入って来たミトラ教は、ペルシアのゾロアスター教から派生した宗教で、太陽神ミトラが「征服不可能な神」、また「不滅の若い神」として描写され、主に軍人たちによって熱烈に信奉された。
キリスト教がローマに伝えられる頃には、帝国と皇帝の「守護神」に格上げされ、ローマで一番影響力ある宗教として定着していたのである。
ローマ教会は、ミトラ教で守る日曜日を礼拝日として受け入れることで、ローマ人たちの迫害から脱しようとしたのである。
2世紀頃、日曜日礼拝を受け入れたのは、ローマ教会とその影響下にある一部の教会だけで、エルサレムを中心とした東方教会は、聖書の教えどおり七番目の日である土曜日を安息日として守った。
しかし、AD313年、コンスタンティヌス皇帝がすべての宗教を同等に認めるという内容の「ミラノ勅令」を下してから、キリスト教は一大転機を迎える。
コンスタンティヌスは、ミラノ勅令頒布以後、聖職者たちに各種特権を与えたり、教会設立を支援するなどキリスト教を擁護する政策を広げて行く。
かと言って、彼が完全にキリスト教に改宗したのではなかった。
キリストを自分が一番好きな太陽神ミトラと同一の神として理解した彼は、死ぬまで「ポンティフェックス・マクシムス」というローマ宗教界の最高祭司職位を所有していた。
結局、帝国全体を一つに統合する政治的目的でキリスト教を選んだと見ることができる。
コンスタンティヌスはこのような宗教思想を土台とし、今後「日曜日に仕事を休む」法令を宣布したのである。
これが「太陽崇拝日」が、キリスト教の礼拝日に変わるようになった経過である。
世界的ベストセラー「ダビンチコード」(2003年)にもそのことが書かれている。
321年の「日曜日休業令」は、ローマ教会の位置をより確固たるものにする結果をもたらす。
皇帝の権威によって、帝国のすべての民が日曜日に強制的に休むよう規定することで、安息日を守って来た東方の教会までローマ教会の方式どおり従うしかなかったのである。
その一方で、変えることのできない「神の創造の秩序」を守ろうとした人々は、砂漠や山の中に隠れて過ごして「安息日礼拝」を固守したが、日曜日礼拝が教会全体に拡散することを阻むことはできず、「日曜日礼拝」は、今日まで続けられてきたのである。

新型コロナウイルス以後の社会秩序(ニューノーマル)を巡って2022年にスイスで「ダボス会議」が開かれた。
この会議のスローガンに掲げられたのが「グレート・リセット」である。
これは、いまの社会全体を構成するさまざまなシステムを、いったんすべてリセットすることを示す。
いま、我々が生活する世界は、さまざまな金融システム、社会経済システムの多くは、第二次世界大戦以降につくられてきたものだ。我々の生き方や働き方の基本方針は、これらのシステムによって決定されていると言っても過言ではない。
しかし、既存のシステムのすべてが完璧だったわけではなく、現代社会が抱える多くの「ひずみ」も生み出してきた。
さまざまな問題を解決するために、これまで当たり前であったシステムを白紙に戻し、まったく新しい仕組みを一からつくり出していくことこそが、「グレート・リセット」である。
この「グレート・リセット」は、旧約聖書の「ヨベルの年」を思わせるものがあり、実際にその関連を指摘する人々も少なくない。
個人的な話だが、新型コロナウイルスが広がり始めた頃、自分の脳裏に浮かんだのはモーセの十戒の第4戒の「安息日を覚えよ」であった。
農業は「土地を休ませる」ことを自然に学んだ社会である。ヨーロッパ中世において定着した「三圃式農法」がそれをよく表している。
またキリスト教会が大きな力をもった社会では、「安息の思想」が身についていたこともあろう。
ところが、産業社会においては「自然(土地)を休ませる」という考えは次第にうすれていった。
「休む」といえば、労働者の権利として「休日」が求められ、その休みは聖なる日でもなんでもなく、余暇と娯楽による気晴らし(パーストタイム)としか 認識されなくなっていった。
こうした生じた自然への過大な負荷(森林の開拓)などが、パンデミックに繋がったのではなかろうか。
それは自然からの「警告」だったとも受け止められる。
ところで2018年9月、フランシス・ローマ教皇が、新型コロナウイルス感染拡大の反省として、「地球に『安息日』を設けるべき」と強調。地球と調和した、よりシンプルな生活への回帰を求める」という新聞記事が掲載された。
フランシス・ローマ教皇は1日、新型コロナウイルス感染からの反省として、人類は地球を「休息」させることができれば、地球は回復できることを示したのである。
コロナの影響防止のための外出や営業の自粛措置等が世界中でとられていることで、人々は従来に比べてシンプルな生活を送るようになり、その結果、温室効果ガスの排出量が減少するなどの「休息効果」が得られた点に言及。
そればかりか先進国には最貧国向け債務の放棄を呼び掛けたのである。
教皇はこの中で「休息の時(A Time to Rest)」と題し、「神は『安息日』を定めて、土地と人々に休息を与え、再生できるようにした。ところが、現代社会での我々の生活手法は、地球に対して、その限界を超えて追求し、成長へのあくなき要求と、際限のない生産と消費を進め、地球の自然資源を疲弊させてきた。その結果、森林は浸食され、土壌は劣化し、草原は消失、砂漠は拡大、海は酸化され、嵐は増大している」と指摘。人類が地球を休ませることなく、こき使ってきたことの弊害を強調した。
そのうえで、コロナ感染の影響で、結果的に、外出自粛や禁止、ソーシャルディスタンスの確保等の措置がとられていることで、人々はやむを得ずシンプルで持続可能な生活を再発見させられている、と述べた。
また、「ある意味で、危機はわれわれに新しい生活に戻るチャンスを与えたのかもしれない」と、そうした制約こそが大気や水は以前よりもきれいになり、動物たちも以前生息していたところに戻るようになっている、と「パンデミックのプラス効果」に言及した。
また、人類が途上国に押し付けた膨大な生態系負債によって途上国の資源を過剰採掘してきたことを忘れるべきではないとし、「正義の回復」を求めた。
その「正義の実現」として、先進国諸国は、コロナ感染拡大の影響をもっとも深刻に受けている最貧国向けの債務を放棄するよう要請した。
法王は「大地と調和をした生活をし、多様な形の生き方をしているのは先住民族たちだ」と指摘し、彼らの生活を、過剰な採掘をする多国籍企業から守る必要があり、これらの企業は、化石燃料や鉱物、森林資源等を壊滅的に採掘する連中だと痛烈に批判した。
コロナ感染によって引き起こされた医療、社会、経済危機からの回復は「正義の修復の時」でもある訴えたのである。

SOCIETY 学び 2021年最新「Global100」ランキング 日本企業も選出、ダボス会議開催に合わせて発表 関連記事 グレート・リセットが注目される理由・背景 新型コロナウイルス感染症(COVID-19) グレート・リセットという言葉が初めて登場したのは、リーマンショック後の不況の中でのこと。アメリカの社会学者であるリチャード・フロリダ氏の、著書のタイトルとして注目された。 2020年から2021年にかけて注目される理由は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な流行にある。世界的な未曽有の危機の襲来に、これまでの社会や経済システムでは、対応してきれなくなっているのだ。 これからやってくるウィズコロナ・アフターコロナの時代。経済成長や公的債務、人々の雇用や働き方、格差の是正や幸福度の上昇を目指すためには、既存の仕組みから抜け出し、新たな仕組みをつくり出す必要があると言われている。 パンデミックによる格差 世界中に感染が広がった新型コロナウイルス感染症により、社会には格差が生まれた。不安定な経済状況から多くの人が職を失ったが、そのような境遇に立たされた人々は貧困層や女性など、社会的弱者層が多い。さらに新型コロナウイルス感染症のワクチンは、後進国にはなかなか行きわたらず、人々は感染の高いリスクにさらされている。 そのような社会的な格差が、新型コロナウイルスのパンデミックによって広がっていることも、グレート・リセットが注目されている一因だ。 気候変動 気候変動によって、世界各地で猛暑・洪水・干ばつ・森林火災などの被害が頻発している。地球温暖化をできる限り抑えていかなければ、このような気候変動による被害はますます増加し、多くの人々が巻き込まれる可能性が高い。そのため、再生可能エネルギーの推進をはじめとした二酸化炭素排出量の削減などが急務だ。 EARTH 編集部オリジナル 【気候変動による世界の被害】記録的猛暑に見舞われている世界の国々の状況 関連記事 エネルギー危機 2022年にはじまったロシアのウクライナ侵攻によって、世界で天然ガスの価格が高騰し、エネルギー危機に見舞われている。欧州を中心に、再生可能エネルギーへの移行が急スピードで進められているが、石油や天然ガスに依存した体制自体を見直す時期に来ていることは、間違いないだろう。 実現に向けた取り組み グレート・リセットを実現させるためには、重要な取り組みは以下の3つだ。 ・政府主導のステークホルダー経済の実現と公平なルールづくり ・新たな投資プログラムの活用 ・第四次産業革命のイノベーションを活用した上での、健康と社会的課題への取り組み 各国政府が新しい仕組みとルールを積極的に取り入れ、新しい形で、社会経済を推進していくことが、グレート・リセット実現のための鍵だ。 またイノベーションと多様な才能の集まりが必要とされる、第四次産業革命。世界が一体となって、社会的・健康的な課題に取り組むことで、ウィズコロナ時代から早期に脱却できるだろう。 2021年「ダボス会議」のテーマに ダボス会議で登壇する女性 Photo by Evangeline Shaw on Unsplash グレート・リセットを耳にする機会が増えた理由は、世界経済フォーラム(WEF)にある。WEFは、2020年6月に開催された2021年の年次総会「ダボス会議」で、テーマを「グレート・リセット」に設定した。 WEFとは世界情勢の改善に取り組む国際機関であり、1971年に誕生した。政治・ビジネス・社会といった各分野のリーダーたちと連携し、官民両セクターの協力のもと、目標達成のために取り組むという特徴を持つ。特定の利害と結び付くことなく、グローバルな公益の実現を目的とした非営利団体だ(※1)。 WEFは毎年1月にダボスで行われる年次総会において、世界、地域、産業のアジェンダを形成している。2020年の年次総会は、新型コロナウイルス感染症の影響で、6月に開催を延期。2021年については、8月にシンガポールで開催される予定だったが、中止となった。 2021年に世界が立ち向かうべき大きな問題といえば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と、その蔓延による社会経済の失速だろう。ウィズコロナ・アフターコロナの社会をよりよいものにするために、WEFが重視しているのが、グレート・リセットというわけである。 コロナ以前から、我々の社会は数多くのひずみを抱えてきた。未知のウイルスの蔓延によって、社会全体の仕組みの変化を求められているが、新たな仕組みの構築を考える上では、これは大きなチャンスでもある。 SOCIETY 学び ダボス会議とは? テーマや内容、SDGsとの関連を解説 関連記事 WEFが重要視するステークホルダー資本主義 既存の仕組みが崩壊したいまだからこそ、これから先の未来を生きるための新たな仕組みを整備し、よりいい結末へ向かうべきというのが、WEFが打ち出した理念なのだ。リセットが必要な分野は、教育や社会契約、労働条件など多岐にわたるが、WEFがもっとも重視する分野が資本主義経済である。 従来型の資本主義は、株主資本主義であった。株主が企業に対してお金を出し、企業は株主の利益を最大化させるために、企業活動を行う。主にアメリカで主流となってきた資本主義のスタイルである。WEFは、この株主資本主義にも、グレート・リセットが必要と説いている。 WEFが提唱する新たな形は、ステークホルダー資本主義である。企業活動にはさまざまなステークホルダーが絡みあっている。株主だけではなく、顧客や従業員、地域社会など、そのすべてに貢献できるよう企業活動を行うのが望ましいというのが、ステークホルダー資本主義の、基本的な理念である。 ステークホルダー資本主義は、1973年の第1回「ダボス・マニフェスト」で提起された理念であるが、2020年のダボス会議の主題でもあった。2021年のグレート・リセットを機に、WEFは、より一層の推進を目指している。 SOCIETY 学び 日本企業に広がる「ステークホルダー資本主義」の考え方 普及の背景と推進するメリットとは 関連記事 2022年のダボス会議でもステークホルダー資本主義が議題に ちなみに2022年のダボス会議は1月に開催される予定だったが、新型コロナウイルスのオミクロン株による感染拡大によって延期。2022年5月22日から26日にスイスで開かれる予定だ。 2022年のテーマは「Working Together, Restoring Trust(信頼を取り戻すために一致協力を)」。ステークホルダー資本主義のほか、パンデミックからの景気回復や気候変動などが議題となる。 コロナ禍での気付きと求められる変化 ノートパソコンを前に会話をする二人 Photo by Headway on Unsplash これまでにない新しいウイルスと、それによってもたらされる感染症は、我々の生活を一変させた。その影響は、我々の多くが想定していたよりも深刻で、長期化している。2021年を迎えたいまも、事態の収束は見えていない。今後も、ウイルスとともに生活し、被害を拡大させないための努力が求められ続けるのだろう。 コロナ禍における世界的な問題のひとつが、債務の増加である。感染拡大の封じ込め、経済活動の推進、そして人々の生活を保護するために、多くの費用が投じられた。国際金融協会(IIF)が発表したデータによると、2020年に世界が抱える債務は、24兆ドル増加し、281兆ドルとなった。2021年1~3月のデータでは、世界の債務は289兆ドルとなり、世界の国内総生産3.5倍以上の金額で過去最高水準に達しているのだ(※2)。 各国の財政状況が厳しくなれば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対する支援は縮小せざるを得ない。そうなれば、倒産する企業や失業者は、いまよりも大幅に増加し続けるだろう。格差はさらに広がり、持続可能な社会の実現は難しくなる。こうしたネガティブな変化は、すでに世界各国で起きつつあり、日本においても例外ではない。 このような状態だからこそ、これからの時代を生き抜くために必要とされるのは、ポジティブな方向への「変化」である。既存の仕組みが崩壊したいま、新たな仕組みを構築するチャンスの時期でもある。新たな基盤を早急に構築できれば、これからの時代に、これまでとは違った形で我々の生活を支えてくれるだろう。そのためには、世界で生きる我々の一人ひとりが、変化をより積極的に受け入れていく必要がある。 グレート・リセットと聞くと、「社会の仕組みががらりと変わってしまう、途方もないこと」のように思えるが、すでに変化は起きつつある。しかもそれは、一ヶ所のみではない。ステークホルダー資本主義の広がりも、そのひとつである。 理想社会の実現のため、ステークホルダー資本主義への変化が必要だと言われてはいたが、ビフォーコロナの時代、実際に行動に移す企業はそれほど多くはなかった。しかしいま、株主だけではなく、労働者や顧客、そして地域社会のために積極的に取り組む企業が増えてきている。コロナ禍を、社会全体で乗り切っていこうとする意識の表れであり、アフターコロナへの着実な一歩と言えるだろう。 グレート・リセットがもたらす世界に適応していくために 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の登場によって、急激に変化した現代社会。「望んでそうなった」というわけではなく、「そうせざるを得なかった」と感じている方がほとんどではないだろうか。いま、この流れに対応するのが精いっぱいで、「アフターコロナ」「グレート・リセット」と言われてもピンと来ない……と感じる方も多いのかもしれない。 しかし、グレート・リセットが実現される・されないにかかわらず、アフターコロナの時代はいつか必ず訪れる。そのときには、これまでの仕組みのままでは対応が難しい問題も多々見つかるだろう。新たな仕組みの構築は、これからの時代を生きる国・企業・個人にとって、不可避な課題である。グレート・リセットの考え方も取り入れて、ウィズコロナのいまから、新たな考え方を身につけてみてはいかがだろうか? 新型コロナウイルスの感染拡大は、人々の健康状態だけでなく、社会構造にも大きな影響を与えた。感染症に限らず、地震や津波などの災害も、多くの人の 上流階級の余暇:富と権力の獲得ではなくてその誇示のため。「時間の非生産的支出の効果的な証拠」を積み上げる必要。
いずれにせよ上流階級の無為は複合的平等の条件下ではそれに必要な社会的財の集中もないであろうし、要求に応じられるものではないであろう。無益さはその社会的価値が低くなろう。しかし、なにもしないこと、時間をぶらぶらとして過ごすことは少なくとも時には良いことである。そうする自由は配分的正義の中心的争点である。
もう一つの理解:すること何もないという意味であるわけではなく、しなければならないものは何もないという意味。=“余暇は無為を意味しない”→故に余暇の生活と矛盾しない生活の形もある。
非生産性を余暇の中心的特徴とすることは、余暇の意味に非本質的かつ自己主義的規制を加えることになる、それ故、人間活動がその内側から方向付けられていることに特徴を見いだすことのほうが外的目的や物質的成果をもっていないということよりも重要になってくる。
それ故「仕事」を「自由な活動」として、その時間を「自由な時間」として述べることが可能となってくる。
・私的な休暇を意味する休暇(ヴァケイション)の使用は1870年代に遡り、「休暇を取る」という意味to vacation という動詞は1890年の末からである。
・「休暇」はすべて貴族が宮廷や都会から田舎の屋敷へ退くことをブルジョアが模倣したことからはじまり、すぐに都会と町からの逃亡それ自体が人気となった。
・休暇について決定的に重要なことは、その個人主義的(あるいは家族的)性格である。各人が自分の休暇を計画し、行きたい所へ行き、したいことをする。 ・休暇は商品であり、その選択は購買力によって制限を受ける。 ・休暇が社会生活と文化の中心的特徴になってくると、或る形の共同の用意が必要になってくる。Ex.野生動物と荒野の保全・公園、海岸、キャンプ地などへの税金の支出 ・休暇は特定の時代の特定の場所における一つの人工物である。
安息日は、 「家族の共同体に収容されている奴隷でさえも、国民的共同体に収容されている異邦人【居留外国人】でさえも聖なる休息に加わることを許されるべきである」
資本主義以前の経済においてさえも、各人に休息を押しつけることなしに休息を保護することは難しいことだったことは真実である。
安息日の休息はそれが購入はできないものであるゆえに、休暇よりも平等である。
しかしながら、これらの性質といったものは平等と自由の喪失が同時に進行する一つの例と言えるかもしれない。
例であるかもしれないが、安息日の歴史的経験は不自由の経験ではない。祝祭日は成員たちのためのものであり、成員達は法の限度内で自由であり得る。少なくとも法が約束、社会契約であるときは、たとえその約束が個人的に構想されたものではないとしても、成員は自由であり得る。
人は公共的な祝祭日に対して私的な休暇の方をとるのだろうか? ・祝祭日が可能な共同体であれば、祝祭日は存在するであろう。それは共同体を作る共同生活の一部であろう。休暇という言葉は私達がこのような共同生活からどれほど離れてきてしまっているかを示している。→私達は「空っぽの日」つまり休暇を切望している。
…祝祭日と休暇は自由時間の配分の二つの異なる仕方である。休暇は仕事との対照が必要であり、仕事は休暇が与えてくれる満足の重要な部分であり、祝祭日はイデオロギー的なものである。
大事なことは、自らの時間と場所にとって不可欠な休息が排除されないこと。 休暇が不可欠なのであるならばそれを享受すること。共同生活があるところでは共同生活に形を与えてくれる祭りに参加できること。 道徳的に必要なことは、その公正で道徳的な構造がどのようなものであるとしても、マルクスが資本の「侵害」と呼んだものによって歪められておらず、備えが求められているのに公共的な備えが整っていないことで歪められておらず、あるいはまた奴隷、外国人、賤民を排除することで歪められていないことである。