日昇る処、日没する処

2023年の正月は、サッカーワールドカップ・ドーハ大会の余韻が冷めやらぬまま迎えた感がある。
日本代表の活躍と同様に、躍進著しかったのがモロッコで、アフリカ勢として初めて「ベスト4」にはいった。
世界的スケールで見ると、「日昇る処(日本)」と「日没する処(モロッコ)」が躍動したということでもある。
モロッコはアフリカ北西岸は、「マグレブ(日没の意)」とよばれる地に位置し、先住民は古くから“自由の民”と呼ばれていた「ベルベル人」である。
モロッコはフェニキア人やローマの属領であったが、その後イスラム王朝の興亡が繰り返され、1666年に現王朝のアラウィー朝が国家統一を成し遂げた。
1921年にはフェス条約でフランスとスペインによる分割統治が決定、大半はフランスの保護領に入った。
サッカーW杯の盛り上がりは、旧宗主国と旧植民地国との関係がもうひとつの要素かもしれない。
モロッコ人は、洗練されたアラブ・イスラム文化やブラック・アフリカ文化などが混ざり合った多層性に富んだ独特の文化を築いてきた。
もっともユニークなのは、男女が交互に応答する歌謡舞曲の「アビッドゥース」、集団見合いの場といわれる「婚約ムッセム」などが知られている。
日本との関係では、回転寿司店には欠かせないイワシやタコが、モロッコ沖の世界有数の漁場からとれる。
またモロッコという国名よりも、その古代都市カサブランカ、マラケシュなどのほうが馴染みがある。
ハンフリーボガードの名文句が散りばめられたハリウッドの映画「カサブランカ」の影響か、「カサブランカ・ダンディー」など日本の歌謡曲として馴染みのある都市名である。
また世界文学では、フランス人のサン=テグジュペリが書いたモロッコを舞台とした「星の王子様」がよく知られている。
サンは学校の勉強は大嫌い、特に算数が苦手だったため、海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたにもかかわらず、結果は不合格だった。
その後、モロッコでの兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、婚約者の家族が飛行士という仕事を良い目で見ていなかったため、パイロットではなくて他の仕事を探した。
サンは、瓦製造会社やトラック製造販売会社のセールスマンとなったが、仕事の単調さにうんざり。
夜は街にくりだし金を使い果たし、すぐに貧乏暮らしに戻るという生活だった。
婚約も破棄され、職もなく、何の目標もなく失意の中で考えることは、大空のことばかりであったという。
そして郵便航空会社の面接をうけ、まずは整備士の仕事をした。
それから輸送パイロットの資格をとり、ついに自分の道を見つけた。
この仕事は、危険な夜間にも飛行することが強制され、不可能を可能にする技術が求められた。
サンのような本来エリート階層に属する者でこうした仕事に従事する者は当時ほとんどいなかったが、サンはこの仕事に天職をみつけたといえる。
サンは1927年モロッコにある飛行場の主任に任命されたが、なかなか厳しい仕事だった。
当時、飛行機はたびたび燃料を補給しなければ長距離飛行ができなかったので、当時飛行機が「不時着」したりすると現地のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)達は飛行機の乗組員を捕虜にして、スペイン政府に武器や金品を要求するなどということが頻発していた。
ところが、サンは航路の中継点でムーア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったりしながら、アラビア語を学んだりした。
そして、熱砂、スナギツネ、砂漠の民、星の降る村の風景、壮大な自然などを心の滋養としつつ、文学的イマジネーションをはぐくんでいった。
サンは「飛行」に没頭する中、虚飾にみちた地上での生活にますます嫌気がさしていったようだ。
帰国後「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになりダンスホ-ルやナイトクラブに出入りし、おまけに伴侶とも出会うことができた。
しかし孤独な心は癒されることもなく、結局彼の心を慰めたものは飛行機だけであった。
サンはモロッコで星降る空を見上げて暮らした1年あまりの年月が、孤独ではあったが人生で一番幸せな日々だったと回想している。

戦前フランスが植民地化したアフリカの国といえば、モロッコの東隣に位置する「アルジェリア」である。
2022年大会では、アルジェリアは予選で敗れ西隣のチュニジアが出場していた。
宗主国のフランスとの関係を考えれば、黒人選手の中にはアルジェリアをルーツとする選手が多くいることが推測される。
1998年、フランスはアルジェリア系のジダンを擁してW杯で初優勝している。また2022年大会で最多得点の大活躍をしたエムバペも、アルジェリア系の母とカメルーン出身の父をもつ。
さて1960年は「アフリカの年」といわれてきた。西欧諸国から植民地支配をうけていた国々が次々に独立し、アフリカだけで17の国が独立した。
その先陣を切ったのがアルジェリアの独立なのだが、アルジェリア独立は「アリジェの戦い」という映画によって見事に再現された。
1954年11月1日、首都アルジェの古代都市カスバを中心として、暴動が起きた。
それはアルジェリアの独立を叫ぶアルジェリア人たちの地下抵抗運動者によるものだった。
暴動の波はアルジェリア全域から、さらにヨーロッパの街頭にまで及び、至る所で時限爆弾が破裂した。
1957年10月7日、この事件を重大視したフランス本国政府は、マシュー将軍の指揮するパラシュート部隊をアルジェに送った。
その時、独立運動地下組織の指導者はサアリ・カデルという青年であった。彼はマシュー将軍の降伏勧告に応じようとせず、最後まで闘う決意を固めた人物で“事実は小説よりも劇的だ”といわれる見本みたいな映画だった。
この映画は社会的背景などを理解できずとも、その「迫真性」は今で覚えている。あの感動は一体何だったのだろう。
1954年秋、アルジェリア解放戦線が6人のアラブ人青年によってアルジェ市の裏通りの靴屋の二階で結成されている。
映画の中でジャファルを演じているヤセフ・サーディは現実にカスバで地下組織を指導した闘士の一人で、同志をフランス落下傘部隊に殺害されている。
現在はカスバ・フィルムの社長として全財産をなげうちこの映画のプロデューサーをつとめたという。
戦車、大砲、トラック、ヘリコプター、小火器などすべての武器はアルジェリア軍当局から提供をうけ、すべてを忠実に再現するため衣裳などは全部新らしく作られた。
後にヤセフ・サーディは、「当時を再現し、あの感動を再びよびさますことによって、ある国家や国民を審判するのではなく戦争や暴力のおそろしさを伝える客観的な映画を作りたいと念願した」と語っている。
そして8万人に及ぶ全住民がエキストラとして感動的なクライマックス・シーンに出演した。
かくしてヤセフ・サーディ社長の「前代未聞の映画構想」は見事に当たり、「事実は小説よりドラマチック」を証明する映画ができたといえる。
そして、「アルジェの戦い」の撮影の舞台となったのが、アルジェのもっと古い地区で「城塞都市」のカスバというところである。
余談になるが、日本の昭和歌謡の中で「カスバの女」という歌があった。外国人兵士に恋する女性を歌ったものである。
カスバは、ジャン・ギャバンの主演の「望郷」の舞台ともなっていることから、この都市名が日本の歌謡曲にとりいれたのであろう。

アフリカのギニア湾といえば、奴隷貿易や金や象牙の産出で知られた地。カメルーンはそのギニア湾と西岸に面するアフリカ中部の国である。
サッカーが盛んでアフリカチャンピオンをきめるアフリカネイションズカップで5回優勝している強豪国だ。
2002年の日韓共催ワールドカップでカメルーンが宿泊地地にしたのが、奇しくも大分県中津江村。
「奇しくも」というのは、第一に中津江村が東洋一の大金山とうたわれた「鯛生(たいお)金山」を擁した場所であるからだ。
1894年に行商人が拾った小石が金鉱石と判明したことをきっかけに発見されたと伝わる「鯛生(たいお)金山」は大分県、福岡県、熊本県の3県が接するところに位置する大分県日田市中津江村にある。
砂金採り体験「ゴールドハンティング」もあり、「パン」と呼ばれる浅い皿状のもので水槽の底にある砂をいすくいあげ、見つかった砂金は持ち帰りができるという。
カメルーンは金の産地ではなく、原油とカカオ豆が主な輸出品だが、ギニア湾沿岸の金の産地に近い。
もうひとつの「奇しくも」は、カメルーンの主要輸出品の一つが木材であり、中津江村が属する日田市も木材の名産地であることである。
ちなみに、日田市を流れる三隅川に繋がった川の河畔に家具の街・大川がある。
日本は、カメルーンより家具や和太鼓の枠組みに使われるブビンガという木材を輸入している。
さらには、奈良の国宝・興福寺中金堂では、その再建に当たり(2018年に落慶法要を開催)、カメルーンのケヤキを66本、柱として使用しているという。
そして2022年サッカーW杯直前に、あるTV番組で「カメルーン選手団」を誘致した職員の秘話が語られていた。その奇跡のような話にあらためて中津江村とカメルーンとの「奇縁」に驚かざるをえなかった。
当時、中津江村役場の職員の長谷俊介は「鯛生スポーツセンター」の所長を務めていた。
老朽化のため改宗して人を呼びたいと考えていたが、ちょうどその頃、日韓共同開催のワールドカップのキャンプ地募集の知らせが届いた。
市町村から条件を満たしたキャンプ地を候補地として、その中から海外の代表チームに視察に来てもらって選んでもらうという流れだった。
長谷は、仮にキャンプ地に選ばれなくても日韓ワールドカップのキャンプ候補地になった村ということだけでも箔が付くと考えた。
そうなれば村の知名度も上がってスポーツセンターを利用するお客が増えて国や県から施設を改修するための補助金も下りるはず。
そのキャンプ候補地の条件というのは、バスで15分以内に練習場と宿泊場所があること。良質な芝のグラウンドが2面以上あること。60~70人宿泊できる施設があることの3つであった。
そして、なんとか条件を満たすようこじつけて立候補したところ、数々の応募の中から中津江村が 84の候補地の一つに認定された。
これで長谷のねらいは一応達成されたことになる。
ところが2001年8月25日、カメルーン視察団が他の候補地視察のついでに中津江村にやって来たところ、予想外の展開がまちうけていた。
視察団は、長旅で疲れているのか中津江村にがっかりしているのか、イライラした様子であったという。
ところが近所の子どもたちが サッカーの練習をしているグラウンドを案内した時に事件が起きてしまう。
ジャージー姿の視察団を見た子どもたちがカメルーン代表の選手たちだと勘違いして、「あっ 海外のプロ選手だ!サインください!」と騒ぎ始めた。
するとカメルーン視察団は 一気にご機嫌になってしまった。
そして 数カ月後、本当に 中津江村がカメルーンのキャンプ地に決定の報告がくる。
「候補地」でよかったのに本当に「キャンプ地」になった。全キャンプ地で唯一の「村」だったからメディアにも注目されまくり。
後には引けず村の施設をカメルーンの要求どおりに改造することとなった。
筋トレルームが欲しいというので、部屋はありますのでマシンは 渋々 購入した。
雑草だらけのグラウンドをプロがスタジアムの水準に替えるには芝の維持 数千万円かかる。
そこで長谷自身が専門書を読んで 芝を整えるはめになった。
また25メートルプールはあったが 要望どうり温水にするために3日間 お湯を入れ続けた。
またカメルーンは一流ホテル並みの部屋を要求してきた。しかしながら、1部屋に10人雑魚寝する畳部屋を一体 どうやって一流ホテル並みに変身させられるというのか。
長谷は、隣の村の潰れたホテルの家具をまるまる借り、さらに ベッドメイキングは福岡のホテル学校に相談し、生徒がボランティアで協力した。
引退した元一流ホテルのシェフがボランティアで協力したのである。
その結果、施設は 一流ホテル並みの環境になり、長谷俊介は今や「問題解決」の師匠にならんとしていた。そこには各方面からの協力者も現れたのも事実。
電波は届かないからトランシーバーでやりとりするしかない、と思いきや勢いというものは恐ろしい。
携帯会社の「au」が、電波が届かないなら 近くに鉄塔 建ててやろうということになった。
このように どんどん問題を解決した長谷だが、もうひとつの課題はカメルーン選手団の食事である。
何を食べるのかとか聞きたい事がたくさんあったのだが、なぜか突然 一切連絡が取れなくなってしまったのである。
そこで長谷は、アポなしで カメルーンへ直接会いに行くことにした。
その時、アフリカ王者を決めるアフリカネイションズカップにおいてカメルーンが優勝したタイミングであった。
サッカーが国技でもあるカメルーン人にとっては国を挙げて大喜びのビッグニュース。
選手たちはもちろんチーム関係者も軍隊に警備されその周りを数十万の国民がディフェンスしている、とんでもないタイミングだったのだ。
その選手達にアプローチするのは至難のワザだった、はずだった。
しかし長谷が泊まったホテルで偶然にも優勝パーティーがあり、選手とスタッフ この時たまたま勢ぞろいしていたのである。
そこに長谷は難なく突入することができた。この奇跡の出会いで全ての問題を解決し準備は万全、あとは カメルーン代表が中津江村に来るのを待つのみであった。
しかし2002年5月19日到着するはずの日に、カメルーン代表がなかなか到着しない。
後で判ったことは、パリのシャルルドゴール空港で選手の報奨金をめぐる騒動がおこり、ビザやパスポートがなかったりして出発が見送られたのだという。
ようやく機上の人となっても、各地の空港で問題が続出し、上空通過の許可がおりず足止めをくらったりで、予定から5日も遅れて、深夜3時の中津江村到着となった。
深夜にもかかわらず、中津江村の鯛生スポーツセンターでは、村人150人が手作りの旗でお出迎えた。
当時の坂本休(さかもとやすむ)村長は、休むひまもなく、この日のために3月からフランス語の勉強に励んでいた。
選手達は時差をものともせず、翌日には地元の高校生との親善試合を行った。
そして監督も、村民との交流について「一つの家族のようになれた」と感謝の言葉を述べている。
そして2010年、ワールドカップ南アフリカ大会で対戦国が日本となり、この時日本は「0-2」で敗れている。
この試合で、どちらを応援するか一番迷ったのが、中津江村の人々でなかっただろうか。
坂本元村長は、国際交流という文化を根付かせてくれたカメルーンへの感謝を村長なりに表すために試合会場に足を運び、カメルーン政府から最高位の「シュバリエ勲章」が授与された。