トップアスリート輩出地

我が家の近隣には、有名なアスリートの実家がある。
「それがどうしたというんだ」いう人もいると思うので、当地の歴史案内もあわせて敷衍したい。
2019年のラグビーワールドカップで最も注目されたのが、五郎丸歩(ごろうまるあゆむ)である。
五郎丸は1986年生まれラグビー好きだった両親の影響から、3歳からラグビーに触れ、近所にあったラグビースクールに3人の兄弟と一緒に入団した。
小学5年生になった頃にはすでに身長が160cmを超えており、老司中学校時代はサッカー部に所属しながら筑紫ヶ丘ジュニアラグビースクールにも通い続けた「二刀流」だった。
佐賀県立佐賀工業高校に進学した時には、サッカーは選ばずラグビー選手としての道を歩み始める。
そして3年連続で花園に出場し、いずれもベスト8まで勝ち進んでいる。
U17日本代表にも年選ばれ、早稲田大学スポーツ科学部スポーツ文化学科に進学する。
1年時よりフルバックのレギュラーとして活躍。在学中には3度の「日本一」も経験している。
2005年3月、大学生(19歳)で日本代表に選出。同年4月16日、対ウルグアイ戦で日本代表デビューする。
2008年4月、トップリーグのヤマハ発動機「ジュビロ」にプロ契約で入団したが、ヤマハ発動機の社員選手となる。
入団したトップリーグでは低迷して伸むも、猛練習を重ねて実力をつけ、2011年と12年には得点王に輝きベストキッカーを2年連続受賞している。
ヘッドコーチのエディー・ジョーンズさんの指導の下、日本代表としての明確な目標をもって練習を重ね、3年間で7キロも体重を増やすなど「肉体改造」にも取り組んだ。
日本代表として挑んだラグビーワールドカップ2015では、グループリーグの4試合に出場。
合計55得点を記録するなど活躍し、大会終了後には“ベストフィフティーン”にも選出、日本人で初となる高い評価を受けた。
2019年のワールドカップ(日本大会)では、キック前の両手を合わせるおまじないのような「ルーティーン」が印象的だった。
大人から子供までよくまねたことが記憶に新しい。
大会後にはオーストラリアのスーパーラグビー所属のレッズに加入。その後、フランスのトゥーロンに所属するなど、国際的な場で活躍した。
現役引退後は、静岡ブルーレヴズの「クラブ・リレーションズ・オフィサー」として主に広報活動を行っている。
また、アサヒビール(アサヒスーパードライ)、日本財団のスポーツ貢献事業、佐賀県(SAGAスポーツピラミッド構想)のアンバサダーなどを務めている。
さて五郎丸の出身中は「老司(ろうじ)中学」(ろうじ)、その名前の由来を調べてみると、意外な事実を知った。
大宰府政庁など九州にあった古代官衙(かんが・役所)や寺に使われた瓦の型式に、「老司式」(ろうじしき)と「鴻臚館式」(こうろかんしき)の二種類があるという。
大宰府が発展すると皿や壺などの陶器の需要が増し、粘土の多い泥の底には赤土が沈殿していて、塩分を多量に含んでいるので、陶器の材料に適し、素焼きでも釉(うわぐすり)がいらない壺が出来た。
陶つくりを万葉の頃には「盧人(ろじ)」と呼び、それが老司(ろうじ)に変化したという。

五郎丸が通った鶴田小学校から車で5分もあれば、南区柏原(かしわら)につく。
この柏原小学校・中学校を卒業したのが、北京オリンピック・東京オリンピック金メダリストの立役者・上野 由岐子(うえの ゆきこ)である。
チームメートに肩車をされて誇らしげに右手人さし指を突き上げる姿は今も印象に残っている。
上野由岐子(うえの・ゆきこ)は、1982年7月生まれ。柏原小学校3年から「花畑ブルージェイズ」でソフトボールを始める。
小学校で県大会優勝、福岡市立柏原中学校で全国制覇している。
九州女子高(現福岡大若葉高)に進学し、最年少で参加した1999年世界ジュニア選手権でエースとして優勝に貢献。
身長174センチ。右投げ右打ち。球速は高校生時で107キロで、すでに日本人最速を記録していた。
そうしたジュュニア離れした速球で「オリエンタル・エクスプレス」の異名を取った。
2000年シドニーオリンピック候補にも名前が挙がったが、高校の体育の授業中に腰椎を骨折するけがを負い、シドニー行きを断念せざるをえなかった。
それどころか、医者に普通の生活も送れなくなるかもしれないと言われる程の大怪我だったが、奇跡的な回復を遂げた。
2001年に高校を卒業後、日立高崎ソフトボール部(現・ビックカメラ女子ソフトボール高崎)に入部。
史上初の2試合連続完全試合を達成し、2001年の新人王に選ばれた。
実業団入りと同時に代表チームにも招集され、アトランタとシドニーでは開幕投手を務めた高山樹里、シドニー世代の石川多映子、増淵まり子に代わって代表のエースとしても活躍を始める。
2004年にはアテネオリンピックでは実質的なエースとして開幕戦のオーストラリア戦を任されたが、4回3失点KOされて敗れた。
負ければ1次リーグ敗退が決まる予選最終戦の中国戦でオリンピック史上初の完全試合を達成した。
3位で予選通過し、勝てばメダルが確定する決勝トーナメント準決勝の中国戦で再び登板してタイブレーカー8回を完封勝利するも、勝てば決勝進出のかかる3位決定戦のオーストラリア戦では登板機会はなく、敗れて銅メダルに終わった。
この試合で登板がなかったことについて、まだ監督に信頼されるピッチャーになれていなかった自分が悔しかったと語っている。
またこの大会中、風邪を引くなど体調を崩したこともあり、これ以降自分の体調管理に対して深く意識するようになったという。
その後、08年の北京と21年の東京で金メダルを獲得する大活躍をした。
連戦連投で最終的に勝利を収めたその活躍ぶりは、かつての日本プロ野球の大投手稲尾和久になぞらえて、一部の新聞紙では「神様、仏様、上野様」と言う見出しが出る程になった。
北京大会のあと、ソフトボールがオリンピックから消えることは決まっていた。決勝を終えると、グラウンドでライバルのアメリカ代表の選手たちと復活を呼びかけたという。
その一方で子どもの時から夢見てきた金メダルを実現し、競技との向き合い方がわからなくなっていた。
モチベーションが上がってこない。所属する実業団のチームで現役は続けていたが、何よりそんな気持ちでプレーする自分自身がいやだった。
北京大会から8年後の2016年8月、ソフトボールが東京大会で復活することが決まった。それでも上野投手は日本代表のユニフォームに袖を通すことに戸惑いがあった。
気持ちが揺れる上野投手をそばで見守ったのが、日本代表の宇津木麗華監督である。
宇津木監督は現役時代、日本代表の主軸としてシドニーとアテネの2大会に出場。現役引退後は上野投手がプレーする実業団のチームで監督を務めた。上野投手とはチームメートであり、師弟関係でもある。
宇津木監督は、「とにかく続けてほしかった。自分のためにではなく、人のためにソフトボールをやるということであれば彼女にとってプレッシャーがないのではないか。気づいたら金メダルが取れていたということで十分」であったと語っている。
宇津木監督は上野に「これからは頑張るんじゃなくて、ソフトボールに恩返しをするつもりでやればいいのよ」とことばをかけ続けた。
そのことばが上野投手を少しずつ前向きにさせ、燃え尽き症候群のようになっていた自分を支えてくれた宇津木監督が日本代表を率いることが決まり、「麗華監督の力になりたい、恩返しをしたい」という気持ちが強まったという。
さらに新型コロナウイルスの感染拡大によるオリンピック1年の延期。
当時37歳だった上野投手にとって、1年という年月はあまりにも長いはずだ。
それでも「現状で満足するなよ。もっと探究心、追求心を持っていろいろな意味で進化しないとだめなんだ」と考え、ヨガを始めたり、新しい球種の習得に取り組んだりとチャレンジすることをやめなかった。
このように、ソフトボール界を長年引っ張る上野投手の言葉と姿勢は、競技の枠を越えて多くのアスリートに影響を与えている。
シーズンオフに合同自主トレーニングを行ったプロ野球・巨人の菅野智之投手やソフトバンクの千賀滉大投手もその姿勢から学んだという。
ソフトボールで日本を初の金メダルに導いた北京は「上野の413球」は、2022年サッカーワールドカップでの「三苫の1ミリ」とともに語り継がれるであろう。
さて柏原にある花畑園芸公園の横、道路を隔てて柏原小学校がある。西へ行くと福岡では憩いのもととして有名な「油山(あぶらやま)市民の森」。福岡では有名な名所だ。
玄界灘へそそぐ樋井川にかかる赤い橋を渡ると羽黒神社の鳥居があり、階段上の境内は予想外に広い。
当社は出羽三山・羽黒山の修験者によって勧請されたとされ、福岡藩主の崇敬も篤かったようだが、なぜか、無格社。
大巳貴命を祀り、神紋は、亀甲に大。だが、本社羽黒山の出羽神社の祭神は、伊氐波神で、神紋は巴。
祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)で、創建の時代は明らかではないが、当社に関する文書では 中世のころ出羽羽黒山の修験者によって勧請されたと考えられる。
江戸時代には福岡藩主の深い信仰を受け、 その武運長久、家内繁栄、無病息災と五穀豊穣の祈祷所でもあった。
社殿等の新改築はその寄進によるもので、ある。神殿は荘厳な桃山造で 文化財に相当するものであったが、明治の 初めまでは付近の集落の産土神であった。
1945年福岡空襲によって社 殿は焼失したが、氏子によって再建された。
現存する鳥居、燈籠等の石造は江戸時代に 建造された物が大部分であり、当社の歴史を示 す文化財となっている。

今時プロ野球で注目選手といえば山下舜平大(やましたしゅんぺいた)で、オリックスブレーブスで山本由伸の次を担うとも言われている。
福岡市立野多目小学校3年生のときに筑紫丘ファイターズで野球を始め、主に捕手兼投手として活躍した。
福岡市立三宅中学校軟式野球部では投手兼捕手としてプレーし、3年秋には福岡県選抜として「U15全国KWB野球秋季大会」で準優勝を果たした。
福岡大学附属大濠高校では1年秋からベンチ入りし、2年春からはエースを務め、2年夏は県大会ベス8。
3年時は新型コロナウイルスの影響で夏の甲子園が中止となり、県予選の代替となった「がんばれ福岡2020福岡地区大会」では準優勝であった。
コロナ禍もあり、全国大会とは縁がなかったが、2020年10月に開催されたプロ野球ドラフト会議にて、オリックス・バファローズから「1位指名」を受けた。
プロ生活は順風満帆ではなかった11年目は3月の教育リーグから先発登板し、前年に二軍で6勝(2敗)を挙げたドラフト1位の宮城を目標としたが、2勝(9敗)にとどまった。
「大きく育てる」という監督の指導で、高校時代は直球とカーブしか投げなかったが、6月中旬からは封印していたフォークも解禁。
2年目の飛躍に向けて準備をしてきたが、春季キャンプ直前のコロナ感染で出遅れた。
「あまり大舞台を経験したことはありませんが、知らないから先入観もないし、逆にいいんじゃないか」という思考も大物の片りんを感じさせる。
5月以降は身長が伸び続け、身体の成長とトレーニングのバランスを考えて、別メニューで調整を余儀なくされる。しかし、離脱中のブルペンを見た球団関係者が「エグい球を投げる」と驚くほどの投球を見せ、9月の復帰後はCSや日本シリーズの出場メンバーにも選ばれた。
ところが、登板機会はなく一軍では未登板に終わり、今度は秋季キャンプ後に両足鏡視下三角骨摘出手術を受けることに。
。ルーキーイヤーの一軍公式戦登板は無く、二軍でも18試合・65回2/3を投げて防御率5.48という成績であったが、本人は結果を見たら全然だめなのに、経験値のなかった自分が1年通して勝ち負け関係なくローテーションで投げさせてもらったことに感謝しているという。
開幕を二軍で迎えると、5月には腰痛で離脱した。ただ山下が「腰は成長痛的なもので、身長が1~2センチ伸びたとか。190センチの体格。
ケガ前より、いい球はいってる」と語ったように、9月22日の二軍戦で実戦復帰を果たすとチームがポストシーズンを控えた19月8日の紅白戦では154km/hを計測。
同15日に出場選手登録となり、登板機会こそ無かったもののCSファイナルステージと日本シリーズ第4・5戦でベンチ入りした。
この年も山下の一軍公式戦登板は無く、腰痛の影響で二軍でも8試合の登板にとどまったが現状維持の年棒で契約を更改した。
11月25日には「両足鏡視下三角骨摘出手術」を受けたりした。吉田正尚もやった脚の手術なのだそうだ。
ところが3年目の2023年に大ブレイク。先発ローテーショオン入りして、開幕より7月までの投手成績は投手タイトル部門1位をほぼ独占している。何といってもオールスターゲームでは第2戦で先発投手をつとめた。
特質すべきは 最速158キロの直球を武器に開幕から快進撃を続ける山下には、毎試合のように米大リーグのスカウトがネット裏に陣取って数球団が熱視線を送った。
ところで「山下舜平大」の名前を両親がどのような思いを込めたのかは定かではないが、オーストリアの経済学の泰斗ヨゼフ・シュムペンターにちなんだというから、世界スケールでの活躍を期待していたのか。
シュムペンターの唱える経済のキーワードは「イノベーション」だが、それを「創造的破壊」と捉えた点が斬新であった。
技術革新による市場秩序の破壊と新秩序の創造こそが、企業家に多大の利益をもたらす。
ある意味、大谷昇平がそういうイノベーターあるが、山下舜平大にも幾分そんな可能性を感じさせる。
福岡市南区の三宅に若宮八幡宮という神社がある。三宅小学校の敷地内といっていいが、案内看板には、「筑紫官家跡 6世紀のはじめ、大和朝廷は、北部九州の豪族磐井の反乱をおさえたが、その後の筑紫近辺の支配の強化、内部統一や対外交渉の重要な拠点として官家を設けました。官家の呼び名が南区の「三宅」という地名に残っていることから、その場所は大橋付近という説もありますが、遺跡や遺物が確認できておらず詳しくはわかっていません」とあった。
神社の右側にあるこの手水鉢(ちょうずばち)は筑紫官家の柱の礎石として使用されていたものだという説もある。
前述の「老司式」の瓦は、当地の赤土を利用する。蛇行する川近くで土堀をすると水が溜まって仕事ができなくなるため、川の水路をまっすぐにして水を流す。
これを「野多目」という。
ちなみに山下が通ったのが「野多目小学校」である。
以上3人の通った小学校(鶴田小、柏原小、野多目小)は、半径2キロメートル以内に位置している。
全国的にも稀有なトップ・アスリート輩出地ではなかろうか。

神話に出てくる「塩土翁」とは塩田、塩原を経営していた神で、それ以外に赤土の採掘権を保有する神でもあったとか。