ベスト・アシスタント

アルフレッド・ノーベルは、1833年、スウェーデンの首都ストックホルムに生まれた。
父のイマヌエルは発明家だったが、生まれた時には破産していて、ノーベルが生まれたころは一家は貧乏暮らしだった。
しかし、イマヌエルが発明した「機雷」がロシア軍に採用され、一家はロシアのサンクトペテルブルクに移住し、一家は一転して裕福な暮らしとなった。
ノーベルは家庭教師から英才教育を受け、若いころは文学に熱中し、本気で文学者の道に進むことも考えていたほどだった。
1853年、クリミア戦争が始まり、イマヌエルの工場は急拡大した。
しかし1856年、クリミア戦争が終わると兵器の需要は激減し、イマヌエルの工場は潰れてしまう。ノーベルの一家はストックホルムに戻り、いちからやり直すことにした。
ノーベルは、ある化学者から発明されたばかりの薬品「ニトログリセリン」の破壊力を聞き、これを爆薬として開発しようとした。
ニトログリセリンは、強い爆発力が有ったものの、液体であるためショックですぐに爆発するという危険性があった。
実際、スウェーデンにニトログリセリンの小さい工場をつくったが、爆発事故が起こり、工場が破壊されたのはもちろん、5人の労働者が死亡した。
その中は末の弟もいて、父親も事故にショックを受けて亡くなってしまう。
彼は残った兄弟たちと協力して、この爆薬を安全なものにしようと研究に打ち込んだ。
そして、火薬を導火線で爆発させる仕組みを考えた。この起爆装置を「雷管」といい、以後世界中で使われるようになった。
しかし確実に爆発させることは出来ても、意図しない爆発が起きてしまう不安定さは相変わらずだった。
ノーベルは、固形化すれば良いと思いつき、試行錯誤の末、近くの湖でたまたま珪藻土(けいそうど)が油を吸っているところを見出した。
これで試してみると、なんと三倍のニトログリセリンを吸収したうえ、爆発力はニトログリセリンと遜色なかった。
1年後、彼はギリシャ語で「力」を意味する「dunamis」から、発明品を「ダイナマイト /dynamite」と名付け、1867年に特許を取得した。
ダイナマイトは、アルプス山脈を貫くトンネルなど、それまで不可能と思われていた土木工事に大いに活用された。
1870年にプロイセンとフランスの戦争「普仏戦争」が勃発した。ドイツ諸国家の一部に過ぎず弱小国と思われていたプロイセンは、ダイナマイトを橋の破壊などに活用することで、大国フランスに勝利した。これはダイナマイトが兵器として活用された初の戦争となった。
しかし、煙が残り相手に発射場所が確認できやすく、軍事目的には相応しくなかった。
そこでノーベルは、1876年、新兵器「無煙火薬」の開発に着手し、フランスに拠点を構え、1844年、ニトロセルロース・ニトログリセリン・樟脳を混ぜて作る無煙火薬「バリスタイト」を完成させた。
この功績で、ノーベルはフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を贈られ、ノーベルの人生の絶頂期であった。
また、世界各地に約15の爆薬工場を経営し、ロシアにおいては「バクー油田」を開発して、巨万の富を築いた。
しかし、ノーベルの人生には"翳り"が見え始めるのは1888年のこと。
ノーベルの兄が死亡した際に、新聞社はノーベル本人の死と取り違え、掲載した死亡記事では、「人類に貢献したとは言い難い男が死んだ」と書いていた。
また翌年には、ノーベルの母親が死亡。フランス軍は、ライバル会社の無煙火薬を採用し、「バリスタイト」は生産中止に追い込まれてしまう。
ノーベルは1890年にイタリア軍にバリスタイトを売る契約を結ぶが、フランスの新聞からはフランスで研究した火薬を他国に売った裏切り者と非難された。
ノーベルはフランスを出てイタリアに移り住む羽目になったが、この頃から持病の心臓病も悪化していった。
ノーベルは、病室にあってベルタ・フォン・ズットナーの書いた「武器を捨てよ!」という本に出会う。実はズットナーはノーベルの知人で、かつてはノーベルの秘書を勤めたこともあった。
1892年、ノーベルはズットナー主催の平和会議に出席した。しかし、ズットナーが平和のためには各国は武器を捨てるべきと主張したのに対し、ノーベルは各国が究極の兵器を持つことで互いに「恐怖」のため戦争をしなくなって平和が訪れると主張し、二人の考えはすれ違った。
ノーベルは自分の主張を推し進めるように、1894年にはスウェーデンの兵器工場を手に入れ、大砲の生産を開始した。
この時、爆発事故で家族が亡くなったことの他にショックだったことは、前述のように彼が死亡したと誤認され、死亡記事に「人類に貢献したとは言い難い男の死」と伝えられたことだった。
ノーベルは遺書で、自分の遺産を安全確実な有価証券に変え、その年利を前年に人類に貢献した人物に与えるように指示していた。
授与する分野は「物理学」「化学」「生理学および医学」「文学」「平和」だった。
1896年12月10日、ノーベルは脳出血で63歳にして亡くなった。生涯未婚で使用人一人に看取られただけの寂しい最期だった。
ノーベルは、総資産の94パーセント、現在の日本円で250億円を遺していた。そればかりかこの遺産を研究者に与えるとして、その構想はスウェーデンたけでなく国外でも大反響を呼び「ノーベル賞」と名付けられ、1901年からノーベルの命日12月10日に授賞式が行われることになった。
彼の死後、ノーベル財団(本部・ストックホルム)が設立され、1910年からノーベル賞の授与が始まった。最初は五部門でスタートしたが、1969年に「経済学」が新設され6部門になった。
多くはノーベルが若いころに興味を持って学んだものだったが、なぜ「平和」を入れたのかは奇妙である。
ノーベルの遺言書では「平和賞」の趣旨を「国家間の友好、軍隊の廃止または削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物」としている。
彼の秘書としてかつて働いていたズットナーが、戦争反対をテーマにした小説「武器を捨てよ!」(1889年)が、当時欧米で話題になっていた。
かつてノーベルの身近にいたアシスタントが書いたこの小説が、ノーベルの「平和賞」創設に影響を与えたと推測される。
実際、女性としてはじめて「ノーベル平和賞」を受けたのは、1905年あのズットナー(第5回)である。彼女は作家として、戦乱相次ぐ欧州で生涯を平和運動に捧げたことが評価された。

野口英世は1876年、福島県猪苗代に生まれた。1歳半の時に左手に大やけどを負うが、 恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服した。
左手の手術により医学のすばらしさを実感し、自らも医学の道を志し、アメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に世界で活躍する。
ノーベル賞の候補にも挙がるも、1928年、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で黄熱病の研究中に感染し51歳で亡くなった。
黄熱病はメキシコ大西洋岸、赤道アメリカ、アフリカ西海 岸に発生する地方病で、肝臓が侵され、強い黄疸を示し、最後には黒い血をはいて死に到る。蚊によって媒介されると考えられていて“西半球の恐怖”と恐れられていた。
黄熱病は当時、ロックフェラー財団が大々的に取り組んでいたテーマであった。
ロックフェラー医学研究所の野口英世研究室には、数人の研究助手がいた。
その一人でスティーブンという23歳の技術員が、1918年3月、ロッキー山紅班熱を発病、1週間で亡くなった。
未亡人と幼児を残されたことに英世は責任を感じていた上に、出張中に秘書が解雇され意気消沈していた。
肩を落とす野口の姿を見かねた医学研究所・所長のフレキスナーは、エブリン・ティルデンを英雄の「秘書」として採用した。
ティルデンは1891年、マサチューセッツ州ローレンスに生まれ、メーン州の小さな町に育った。
17歳の時に、一度結婚まで考えたが、家族が寄宿舎に入れたため、その恋は実らず、その時に一生結婚しないと決心したという。
ブラウン大学の女子校であるベンブローク女子大学で英文学と外国語(ドイツ語とフランス語)を専攻。卒業直後、牧師だった父が急死し、自分一人で母を養っていかねばならなくなり、病院に勤めていた。
そのことが縁で、所長のフレキスナーの秘書が英世の秘書として紹介してくれた。
ティルデンが来るまでは、英世の英文はすべてフレキスナーが見ていたが、英世はティルデンの経歴を知って、執筆中の論文の添削をティルデンに依頼した。
完成した論文をフレキスナーに提出したところ完かん璧ぺきであったので、フレキスナーはティルデンに引き続き英世の英文を見るように話した。
この時から、英世の研究論文は、ティルデンの存在なしには成り立つことはなくなる。
「野口先生の助手になった私の最初の課題は、口こう腔くう中のスピロへータを培養することでした。これが私の細菌学概論への入門というわけでした」と、いうようにして英世の指導のもとに始まった医学研究は、ティルデンにとっては魅力的なものとなっていく。
そして本格的に「細菌学」を学ぼうとコロンビア大学に入学、修士の学位を得た。
ティルデンはその後、ノースウエスタン大学医学部の正教授となっている。
ティルデンは英世が亡くなるまでの12年間、英世と一緒に働き、英世の死後、所長フレキスナーの要望で3年ほど英世が残した研究を行った。ティルデンは英世の研究の最高のパートナーであり協力者であった。
シンシナティ大学教授エクスタインが「英世の伝記」を書くためロックフェラー医学研究所を訪れたが、所長のフレキスナーは協力を拒絶、ティルデンにも会うことを禁じた。
しかしティルデンは自らも英世の伝記を書きたいと考えていたほどであったので、エクスタインの伝記に英世の本当の姿を記録しておかなければと考え、協力・添削もしたという。

ジョン・ジョージ・ケメニーは1926年、ハンガリーのブダペストのユダヤ人の一家に生まれた。
1938年ヒットラーが政権を握るナチスドイツは、ハンガリーにも手を伸ばそうとしていた。
ケメニーの父親は危険を察知し、一足先に渡米し、1940年ケメニーと他の家族も渡米をし、難を逃れたのであった。
アメリカに着いた後、ケメニーは英語をほとんど知らないままジョージワシントン高校に通い、プリンストン大学に進み、平穏な日々を送っていた。
しかし第2次世界大戦は終わらず、1年後ケメニーは大学を休学し、ロスアラモス国立研究所で「マンハッタン計画」に参加して軍に協力する。
「マンハッタン計画」では、コンピュータがまだ実用化されず、ミサイル弾道について計算処理する人を多く必要とし、ケメニーのような優秀な大学生が集められていた。
ケメニーの仕事は計算した結果をパンチカードに出力し、プラグボードの再配線もして、印刷された計算結果をチェックする仕事であった。
ロスアラモス国立研究所で、ケメニーと同じハンガリーブダペスト出身のジョン・フォン・ノイマンの講義を受けた。
ノイマンはコンピュータについていろいろと教え、自分が考案しているプログラムとデータを一つのメモリーに入れた「2進法」コンピュータについて語った。
1946年プリストン大学に戻ったケメニーは、学士号を取得して翌年卒業し、博士号取得のためそのまま大学院に進む。
その頃、ドイツから亡命したアルベルト・アインシュタインがロスアラモスにやってきた。
アインシュタインは物理学の研究のため、複雑な計算する必要があり、数学に優れたケメニーが助手をすることになった。
ケメニーはアインシュタインの優しい人柄に触れながら助手の仕事を2年間続け、その間に自身の研究もし、1949年に「論理学」の博士号を取得した。
プリストン大学で博士号を取得したケメニーは、1953年ダートマス大学に移り、数学を教えた。
同僚には、プリストン大学で統計学の博士号を取得していてコンピュータの知識があるトーマス・カーツがいた。
しかし、ダートマス大学にはコンピュータはまだなく、ケメニーは135マイル(約217km)も離れたマサチューセッツ工科大学に通い、コンピュータを使用する日々を送っていた。
コンピュータを使用しているうちに、ケメニーはコンピュータが一部の専門の研究者しか使えない環境に不満が湧いてきた。
1957年、ジョン・バッカスが開発した「Fortran」を見たケメニーは、人間が機械語を覚えるのではなく、機械が言葉を覚えればいいのだと気がつく。
ケメニーは学生たちにもコンピュータに触れて欲しいと思い、大学側も、学生達がコンピュータを普通に使える環境を整えることにした。
そしてケメニーはカーツとともに、一つのコンピュータで多くの学生が使用できる「タイムシェアリング」のシステムの開発に取り組み始めた。
そして開発されたタイムシェアリングは「DTSS」と名付けられた。
「DTSS」はソフトウェア開発環境が整った世界初の統合開発環境(IDE)で、端末はテレタイプを使用し、多くの学生が使用できるように配慮した。
「DTSS」は他の学校や研究機関に接続され、メールやチャットができるようになった。
ケメニーたちは「DTSS」の開発と同時に、専門家でなくてもプログラミングを習得しやすい「プログラミング言語」の開発にも取り組む。
そして生まれた「ダートマスBASIC」は「Fortran」の構文を参考にし、プログラミング言語を解釈しながら実行処理するインタプリタ方式にし、コマンド名はわかりやすさを優先した。
NEW:新しいプログラムを作成する OLD:保存していたプログラムを表示する SAVE:プログラムを保存する LIST:現在のプログラムを表示する RUN:現在のプログラムを実行する IF/THEN:条件判断 LET/=:式の値を変数に代入する。
演算や平方根、絶対値などの関数を扱い、286個の変数が使えた。、こうしてできたプログラミング言語「ダートマスBASIC」は改良を続けて1970年代には約300台の端末が稼働した大規模なタイムシェアリングに成長を遂げる。
この成功は話題となり、国の機関や教育機関も積極的にタイムシェアリングを取り入れるようになる。
1970年、ケメニーはダートマス大学の理事長に就任し、ケメニーは画期的な改革に取り組んだ。
男女共学化少数民族(ネイティブアメリカン)の積極的受け入れコンピュータリテラシーの推進など。
理事長の職を降りるまでの12年間、学生たちの教育環境の向上に勤めた。
理事長就任中には、スリーマイル島の原発事故に関する事故調査委員会の委員長にも選ばれたりもした。
「ダートマスBASIC」を参考にして開発された「亜流」が出回るようになったため、「True BASIC」を開発して、ハードウェアに影響されないように、MS-DOS、Microsoft Windows、Classic Mac OSなどに対応させた。
その後「BASIC」は、パーソナルコンピュータが広まるとともに、自作のプログラムを雑誌などで公開するようにもなり、ブームを巻き起こしていく。