「終戦日本」を元気づけた歌

♪歌も楽しや 東京キッド いきで おしゃれで ほがらかで 右のポッケにゃ夢がある 左のぽっけにゃ チュウインガム 空をみたけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール いつもスイング ジャズの歌♪
「東京キッド」は、当時13歳だった、美空ひばりが主演した松竹映画『東京キッド』の主題歌として、1950年に制作された。
明るく楽しいリズムの楽曲は、映画と共に大ヒットし、戦後混乱期の日本人に夢と希望を与えたといわれている。
さて、NHKの朝の連続ドラマ「ブギウギ」は、美空ひばりとともに「終戦の日本」を照らした笠置シヅ子をモデルにしたものである。
笠置は、1914年香川県で生まれ、大阪下町の銭湯を営む家族の養女として育った。
最初に習った芸事は日本舞踊で、1927年、小学校を卒業すると、宝塚音楽学校の試験を受けるが、最後の体格検査でハネられた。
そこで、大阪松竹楽劇部(大阪少女歌劇団の前身)に入団した。
「宝塚少女歌劇」は、宝塚音楽学校の卒業生のみによって構成され、「良家の子女」によるショーのイメージが強い。
一方、宝塚を模倣して22年に設立された松竹楽劇部には庶民層出身の団員も多く、観客に娯楽を提供するというコンセプトだった。
日舞からスタートした笠置は、下積み時代を送りながら「ほとんど独学」で歌を身に付け、歌が得意なコミカルな娘役として頭角を現していく。
笠置に楽曲を提供した服部良一は、1907年、大阪の下町で生まれた。
父親は浪花節、母親は河内音頭が得意で、決して豊かではなかったが、家には蓄音機があり、浪曲や小唄を見よう見まねで歌ったという。
15歳で道頓堀のうなぎ屋が結成した少年音楽隊のサクソフォン奏者とし1923年にてキャリアをスタートした。
その2年後にラジオ放送が開始されると、大阪放送局設立の楽団(後の大阪フィルハーモニック・オーケストラ)に入団する。
常任指揮者に迎えられた亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテルの神戸の自宅に通い、和声学、管弦楽法、指揮法を学んだ。
大正末期、道頓堀周辺の歓楽街では、「カフェー」やダンスホールにジャズが満ちあふれ、道頓堀川には屋形船で演奏するジャズバンドの姿があった。
中でも、芸者がサックスやクラリネットを演奏し、タップを踏む『河合ダンス』という団体が絶大な人気を誇った。
服部が「道頓堀ジャズ」と呼ぶ街角のジャズにも、多大な影響を受けた。
戦況の悪化で、1927年末までには、取り締まり強化で大阪市内のダンスホールが全て営業停止となる。
服部は、フィリピン人プレーヤーを集めてバンドを結成し、尼崎のホールでの実演を通じて、ジャズの腕を磨いた。
1923年の関東大震災は、ふたりにとっても大衆音楽史にとっても転換点となる。
震災後の復興の過程で、松竹、東宝、吉本興業が東京に進出したことで、大阪の和洋折衷の娯楽的上演文化が東京でも受容され、さらに映画を通じて全国に波及していった。
1932年、町村合併による「大東京」が生まれ、翌年、服部は東京移住を決意する。
その6年後、笠置は、男女混成の「大人のレヴュー」を掲げる松竹楽劇団(SGD)の旗揚げメンバーとして上京する。
日本コロムビア専属の作曲家だった服部は、SGDの指揮者を兼務し、笠置と出会う。
やがて笠置は、“タフな” 声量や声質、大阪的な “天性の飄逸(ひょういつさ)さ” が絶賛されて、「スウィングの女王」と称される。
1941年末の日米開戦後、「敵性音楽」は排除され、米国的なレパートリーは制限される。
一方、レコード流行歌やダンス音楽は、戦地や工場の慰問や劇場で実演されていた。笠置は「敵性歌手」として目をつけられてはいたが、舞台出演の機会が途切れることはなかった。
敗戦後、笠置・服部コンビの「東京ブギウギ」(1947年)が大ブレイクする。その後数年にわたり、2人は「ジャングル・ブギー」などの連続ヒットを生み、笠置は「ブギの女王」として時代のアイコンになっていく。
それ以上に、コンビ最後のヒット作「買い物ブギー」(1950年)だ。
上方落語の「無いもん買い」がモチーフで、忙しいのにたくさん買い物を頼まれ、魚屋、八百屋に飛び込んだが、買いたいものが全部無いと畳み掛けるように大阪弁で歌う。
各部分を「わてホンマによう言わんわ!」(「あきれてものが言えない」)という決めゼリフで結び、「オッサン、オッサン」の連呼でバンドとのコール・アンド・レスポンスを駆使、「ああしんど」で終わる。
上方演芸の芸人たちが自分の個性を自由に発揮してお客を楽しませる、その面白みを米国ジャズ由来のポピュラー音楽のスタイルで、唯一無二の表現とリズムで実現した。
笠置・服部はともに大阪の庶民層の出身で、専門的な音楽教育は受けずに、規範にとらわれず、観客を楽しませるための実演を重視したのである。
そんな姿勢が、コンビの成功を生んだ。

アメリカで本場の「ブギウギ」どのように生み出されたのだろうか。
1920年に施行された禁酒法により、表立って流通しなくなったアルコールは裏に流れ、ギャングたちの収入源となった。
しかし、そのおかげでジャズミュージシャンたちは、ギャングが集うナイトクラブや酒場での演奏という職を見つけることができた。
とくにカンザスシティではギャングたちの庇護の下、1930年からの大恐慌をものともせず、ジャズミュージシャン達は失業知らずであった。
ギャングの横行は街の発展にも貢献し、南部の黒人たちは仕事を求めて移住してきた。
しかし住めるのは、やはり黒人地区。
限りあるアパートメントに人が殺到したため家賃は高騰し、昼の稼ぎだけでは賄いきれなくなった。
そこで彼らは自宅を使い、料理持ち込みの「ハウスレント(家賃)パーティー」を頻繁に開いた。
入場料の50セントをかき集め、家賃をひねり出そうとしたのだ。
ジミー・ヤンシーは、行く先々のハウスレントパーティーで歓迎された。
彼の弾くピアノは、左手で同じフレーズを繰り返す不思議なブルースを奏でた。
ジミー・ヤンシーは芸で食べていく一家に生まれ、自身も子供の頃から歌や楽器の演奏で稼いで、ピアノは独学だった。
自宅には練習用のピアノさえなかったという逸話も残っている。ハウスレントパーティーでの演奏も副業として行っていたので、生涯一度もコンサートステージに上がることはなかった。
ヤンシーはいち労働者として、1951年に59歳でその生涯に幕を下ろすまで「シカゴ ホワイト・ソックス」の球場のグランドキーパーとして勤めあげた。
しかし彼の演奏スタイルは、世界中で様々な楽器によって演奏されるほど、愛されるようになった。
25歳の若きミュージシャン、パイン・トップ・スミスが1929年のレコードに録音した歌の題名、「ブギウギ」に由来している。
不幸なことに、パイン・トップ・スミスはレコードを録音して間もなく、事故により亡くなる。
このレコードが日の目を浴びるのは、彼の死後8年近くも経ったあとのことであった。
世界的に見ると、ブギウギはジャズとして認知されていなかった。
演奏者の多くが、専業ではなく副業としてピアノを弾いていたからである。
そんな“マイナーメジャー”と言えるブギウギが、一夜にして世界の脚光を浴びるようになる。
1938年のクリスマスイブ、カーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スイング」というコンサートが開催された。
当時、ジャズの表舞台は、白人にも受け入れられていたスイングが全盛であった。
そこで、黒人の持つ音楽性に深く傾倒していた白人の敏腕音楽プロデューサー、ジョン・ハモンドは、スイングを通して黒人の他の音楽ジャンルも社会的に認知させようと一大イベントを企画した。
イベントは大成功に終わり、とくにブギウギはアンコールの拍手が鳴りやまないほどの反響だった。
翌日の新聞はこぞって「アメリカの隠れた民族芸術」としてブギウギを取り上げた。
この日を境に、ブギウギは黒人地区だけの音楽ではなく、世界のメジャー音楽となった。

笠置シヅ子の「ブギウギ」と並んで、敗戦の日本人を元気づけた曲といえば、いちばんに「リンゴの唄」があげられる。
ところがこの曲は、意外にも一度「お蔵入り」した「蔵出し」曲であった。
「リンゴの唄」は上野の闇市辺りから広がっていった。
歌手は、当時24歳の並木路子(なみきみちこ)。
彼女は浅草に生まれ、本名・小林庸子(つねこ)、4人の子供の末っ子だった庸子は、長唄の師匠であった母から歌の楽しさを教わった。
庸子は小学校卒業後、松竹少女歌劇団に入団する。80人の同期生のうち、舞台に立てるのはごくわずか。
庸子は、高く澄み切った歌声で注目されて、3年後には、当時「東洋一」といわれた浅草国際劇場でバックコーラスとして舞台に上がる。
トップスター水の江瀧子の華やかで堂々とした姿に、ついつい見とれていた。
ところが、戦況の悪化で、歌が自由に歌えなくなっていく。
政府は満州事変を機に流行歌も思想や風俗取締りの対象にした。1934年、出版法が改正され。レコードも「検閲」の対象となる。
おびただしい数の歌が検閲されるなか、ある一つの歌が内務省で検討された。それが、「リンゴの唄」である。
作詞は当時の人気作詞家サトウハチローで、サトウは生前、明るい歌が書きたいと語っていた。
涙があったり、悲しみがあったり、それを一つもないやつを書きたいと思っていた。
しかし、「リンゴの唄」は検閲を通らなかった。
♪リンゴ恋しや、恋しやリンゴ♪では、戦時下の歌としては、あまりにも軟弱だったという理由であった。
こうして、「リンゴの歌」は、「お蔵入り」となった。
1937年7月7日、中国の盧溝橋では日本と中国の軍隊が衝突、そして歌も変わっていった。
日中戦争勃発から2ヵ月後、19379月、政府は国民から歌を募集する。
「愛国行進曲懸賞募集」すべての国民が歌える歌を募集したのである。
「音楽は軍需品である 乱れんとする。国民の気持ちをわき立てて 動揺する気持ちを不動のかまえにもちなおす。そこに音楽の力がある」というわけだ。
「愛国行進曲」は政府の後押しもあって100万枚が売れた。
ロマンチックな歌は消え、「軍国調一色」となった。
当時、唱歌の”たき火”さえも禁止された。「垣根の垣根の曲がり角」ではじまるアノ曲である。
並木の所属する歌劇団でも、恋や青春を謳歌するものは禁止されていった。
1941年12月8日、真珠湾奇襲により、太平洋戦争が勃発する。
並木路子の実家では兄・陸男(りくお)が出征する。妹思いの兄は「すぐ帰ってくるから」と言って戦地に向かった。
並木は出征した兄や恋人を応援するつもりで舞台に立った。
1944年3月、浅草国際劇場閉鎖。翌年3月10日、アメリカ軍のB29が東京を空襲する。
自宅に居た並木は、母と共に燃え上がる街中を逃げ回る。あまりの熱さに隅田川に飛び込む。
並木は高齢の母の手を必死につかんでいた。しかし、流れに負けて母の手を離してしまい、母は水の中に消えていってしまった。
数日後、母の遺体は見つかった。身元がわかったのは、母の懐(ふところ)に並木の松竹歌劇団の給料袋が入っていたためであった。
誰よりも並木が歌手になることを楽しみにしていた母は 給料袋を肌身離さず持っていたのである。
1945年4月、心の傷も癒えぬまま、慰問団に召集され、中国上海近くの戦地に向かった。
ある慰問地での夜、一人の兵士が「うさぎ追いし」のふるさとを、並木に歌ってくれと頼んできた。
並木は、人を慰める歌を表立って歌ってはいけない戦争とは一体何なのか、と悲しくなったという。
1945年6月、並木は東京に帰るものの、見渡す限りの焼け野原、ごみ山のような無惨さであった。
結局、 出征した兄も、初恋の人も もう帰ってはこず、仕事とはいえ戦争賛美の歌をうたったった自分を責めるようになっていた。
もう歌など歌えないと思うようになっていた。
1945年8月15日 終戦。いちじるしい物価高騰と、食糧難が人々を襲い、多くの人が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められていた。
8月末 並木は突然 松竹から呼び出された。松竹では映画「そよかぜ」制作の話が持ち上がっていた。
舞台の裏方だった少女が歌手になるという物語で、失意の底にいる人々を勇気づける映画を作ろうという企画である。
企画を聞いたハチローは、並木を主役に推し 新たに作詞する代わりに一編の詩を差し出した。それは、戦時中に"お蔵入り"になっていた「リンゴの唄」を映画の主題歌として出した。その主役に並木が抜擢されたのである。
夢にまで見たレコードデビューではあった。
しかし、悲しみから立ち直れない並木は断った。
映画の撮影も終り、封切りまであと1ヶ月。いよいよ主題歌の録音に入った。
並木は、明るく歌えといわれても、母のことなどが思い出され、明るくなれる状況ではなかった。
途方にくれる並木に、作曲家の万城目正(まんじょうめただし)は、「上野に行ってごらん」と言った。
並木が上野に行って見ると、そこには闇市が広がっていて、大人だけでなく子供までもが生きるために必死であった。
並木は靴磨くつみがきをしていた一人の少年に声をかけた。少年はお母さんがいなかったからわからないと答えた。
少年は日本中に10万人近くいた戦災孤児の一人であった。自分だけが不幸なわけではない。並木の胸にこみ上げてくるものがあった。
スタジオに戻った並木は、万城目は「その思いを大切にして」といわれ、再びマイクに向かった。
映画は完成し「リンゴの唄」は1945年10月9日、封切り2日前に検閲合格となり、10月11日映画「そよかぜ」が封切られた。
「リンゴの唄」のレコードは10万枚を突破。戦後第1号の流行歌となった。
1995年、阪神淡路大震災が神戸と淡路島を襲う。この時73歳であった並木路子は、被害の大きかった神戸市東灘区を訪れていた。
神戸といえば、野坂昭如原作で映画化もされた「ほたるの墓」の舞台でもあった。
並木は避難場所であった東灘小学校校庭で、あの「リンゴの唄」を歌って被災者を励ました。
日が暮れて皆からステージが見えない。そうしたら車のヘッドライトを当ててくれたという。
並木はヘッドライトの照明に、戦後の何にもない時代を思い出したという。
2001年4月7日 並木路子 死去 享年79。

「ブギウギ」は、「東京ブギウギ」や「買物ブギー」などの名曲を歌った戦後の大スター・笠置シヅ子(1914~85年)が主人公のモデルとなる。
茨田りつ子のモデルは、青森出身の歌手で“ブルースの女王”と呼ばれた淡谷のり子さん。りつ子が歌う「別れのブルース」をラジオで聞いた鈴子(趣里さん)は、感銘を受け憧れる。やがて2人は生涯の良きライバルとして、時に競い合い、時に支え合いながら芸能の世界を生きていく。
ブルースの女王と言えば、淡谷のり子(または青江三奈)。 ラテンの女王と言えば、坂本スミ子(または宝とも子)。 タンゴの女王と言えば、藤沢嵐子。 歌謡界の女王と言えば、お嬢。 ブギの女王と言えば、笠置シヅ子。 さて、スウィングの女王は誰でしょう? その方が今回取り上げる池真理子さんです。 バッテンボー 池真理子(1917~2000) 大正6年1月2日、京都生まれ。ミッション女学校卒業。 昭和9年宝塚入団、三日月美夜子の芸名で声楽専科に在籍するも、昭和12年退団。 東山ダンスホールで、歌うコンダクター(指揮者)として、人気を博するも昭和15年ダンスホール閉鎖。その後、三島一声・一色皓一郎の推薦で佐々木俊一の内弟子に。 そして、ビクターから「君と別れて」(一色との共唱)でレコードデビュー。 第2弾「青いリボンのお嬢さん」も吹き込まれたものの、リボンが検閲にひっかかり、発売中止に。 そのことなどもあり、ニッチク(戦時中の日本コロムビア)へ移籍。慰問隊員として全国を回る。 終戦を迎え、早速アメリカ調の曲を発売することになり、池に白羽の矢が立ち、コロムビアから改めて「愛のスウィング」でデビュー。大ヒットし、スウィングの女王と呼ばれるように。 その後も「センチメンタル・ジャーニー」「愛の散歩」「ボタンとリボン」など、洋楽または洋楽調のヒットを連発した。 私生活では、鈴木大拙氏長男で作詞家の鈴木勝と結婚し、一女を儲けるも離婚。 昭和35年、渡米。娘を知人の夫婦に預け、全米各地を回る。 8ヵ月後、ラテン系の新リズム「パチャンガ」を土産に帰国。 ラテン歌手としても歌い始める。 昭和45~46年頃、フォルクローレに興味を持ち始め、昭和48年には本場ペルーの首都リオで単独コンサートを催した。 その後も、音楽の道への追及は続き、ロシア音楽なども学ぶ。 歌手生活40周年コンサートでは都都逸(これは祖父母の影響)まで歌った。 昭和57年からは、二葉あき子、並木路子、安藤まり子らと「コロムビア五人会」を立ち上げ、老人ホーム慰問からハワイ公演、演劇まで幅広く活動した。 平成12年5月28日、ショーで「センチメンタル・ジャーニー」を歌い終わった直後にクモ膜下出血で倒れ、同30日死去。83歳。 愛称はアイク(名字(IKE)、及びアイゼンハワー米大統領のニックネームから) 二葉あき子曰く「珍しい音楽があるって聞いたら、南極だって行く人」 そのぐらい音楽には貪欲だった方らしく、フォルクローレやロシア民謡を正確に歌うために、ロシア語や中南米圏言語を基礎から勉強し、美声を護るためにヨガ修行をしていたそうです。 良い歌を歌いたい・聴かせたい…そういう姿勢だったことも関係あるのか、あまりレコードの類は出されて無いようです。 現在ではオムニバス盤に収録されている「ボタンとリボン」「愛のスウィング」程度しか入手は難しいと思われます。 興味のある方は中古市場/図書館で探して、10数年前に出たCDを探してみて下さい。特に専属50周年記念で出た方のCD(ヒット曲はステレオ再録音)は、池さんの幅広く歌ってきた歌が詰まっていてオススメです。 その中から、数曲ですがご紹介致します。 愛のスウィング 戦後すぐの大ヒット曲。 吹き込み前夜、緊張のあまり一睡も出来なかったそうです。 そのため、巷から流れる寝不足の歌声を聴くと、何ともきまりが悪かったとか。 インカ王女の子守唄 国際的に高名なギタリスト・中林淳真の手による、池真理子オリジナル・フォルクローレ。 この曲を聴いたとき、ココで池真理子を取り上げてみよう…と思いました。 そのくらい、非常に画期的な素晴らしい曲です。 百万本のバラ 加藤登紀子の歌でもおなじみのロシアの大ヒット曲です。 ♪ミリオン ミリオン 真っ赤なバラで     あなたを あなたを 包みたい      命の 命の 命の バラを        あなたの 窓辺に 咲かせたい 70過ぎてから、持ち歌にして、ロシア語と日本語のチャンポンで披露。 そのチャレンジ精神には頭が下がる思いです。 ボタンとリボン 「バッテンボー」が流行語になった、そのぐらいのヒット曲。 ボブ・ホープ主演「腰抜け二挺拳銃」主題歌。 ♪都が恋し 早く行きましょう     帰りたいわ あなた      にぎやかな バッヅンヴォーズ         指輪と 飾りと バッツンヴォーズ  後に、宝塚の後輩でもある久慈あさみも歌っています。 いとし吾が子 何と「長崎の鐘」は池真理子吹き込みの予定だったのです。 永井隆の親友・式場隆三郎が、池真理子の後援会長だった関係から、池にお鉢が回ってきたのですが、「長崎の鐘」は永井博士の心境を歌ったものですから・・・ということで、池は、尊敬する藤山一郎を推し、池はこの曲を取ったのでした。 「長崎の鐘」に隠れがちですが、こちらも素晴らしい古関メロディです。 この曲を歌ったことから、池さん、永井博士の遺児二人とも交友があったそうです。 祇園ブギ 大映映画「偽れる盛装」(主演:京マチ子)主題歌。 原六朗曰く「助監督がいきなり歌詞を持ってきて、これに曲つけてくれ。映画主題歌にするから」と、一週間で作らされた内の1曲。 映画と全然合ってない、ともっぱらの評判ですが、なかなか面白い曲。 榎本美佐江の「舞妓はんブギ」と酷似。 追記 プロフィールは加筆/修正の上でWikipediaに投稿致しました。これで少しでも興味のある方のお役に立てれば幸いです。 コメント