歴史散策(JR久大線より)

福岡県南部を走るJR久大線は、筑後川に沿うように、久留米~大分間を結ぶ。
筑後地方のうきは駅や吉井駅を通過すると、大分県との県境を超えるとすぐ「夜明駅」につく。
「夜明駅」は、日田と小倉を結ぶJR日田彦山線の分岐駅となって英彦山の山容がはっきりと見える。
駅名にロマンを感じてここで降車する人も少なくない。
「夜明」という地名の由来には諸説あるが、もともとは焼畑開墾地であったことから「夜焼(よやけ)」と名付けられたものが、夜明(よあけ)に変わった、というのが有力な説だ。
「夜明駅」は、やはり夜明に訪れるのが一番だという。
駅の脇には三隅川(福岡では筑後川)が流れていて、「夜明ダム」によって堰き止められているため、風のない日には水鏡ができる。
三隈川の川面に映った真っ赤な「夜明大橋」が次第に明るくなっていく様子が旅情を誘う。
この駅近くには、昭和恐慌に繋がる「金解禁」で知られる大蔵大臣・井上準之助の実家がある。
「夜明ダム」に近い「井上酒造」という作り酒屋こそが、井上準之助の生地であり、現在も当地で酒造りを行っている。
井上は東京帝国大学卒業とともに日本銀行に入行し、38歳という若さで営業局長を経験、49歳で本行初の生え抜きの日銀総裁となった。
1929年に就任した浜口雄幸首相は、経済の行き詰まりの打開、軍部の暴走、財政再建などの難題に取り組む切り札として、大蔵大臣の地位を与えて入閣を乞うたのが、井上準之助であった。
朴訥だが揺るぎない首相雄幸と、ナイフのように怜悧な蔵相井上準之助という対蹠的な二人は、名コンビといわれた。
政党政治が光を失いつつあるなか、二人は、軍部や野党立憲政友会の猛反対を押し切り、金解禁、緊縮財政、軍縮を次々に断行していった。
ただ井上が行った緊縮財政は、1929年10月のニューヨーク株式暴落という出来事に重なり、「旧平価」での金解禁は世界恐慌という嵐に向かって、窓を開くような経過を辿る。
軍縮を願った井上の緊縮財政が結果的に不況をさらに加速化させ、満州事変など軍部の独走に繋がっていくのは、歴史の皮肉である。
そうした中、浜口は右翼の青年により、東京駅で銃撃されて亡くなるが、死に際して語った言葉「男子の本懐」はあまりにも有名だ。
一方、井上準之助もその2年後の1932年、「一人一殺」をかかげる血盟団の凶弾に斃れている。
また「血盟団」のターゲットのとなったもう一人が、”筑後川”と縁がある團琢磨(だんたくま)である。
1868年、筑前国福岡荒戸町で、福岡藩士馬廻役・神尾宅之丞の四男として生まれた。
金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学する。
1878年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国する。
東京大学理学部助教授となり、工学・天文学などを教えるが、工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。
三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任した。
三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、三井財閥形成の原動力となった。
1914年三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。
しかし昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つ。
1932年3月5日、東京日本橋の三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺されている。
こうしたテロリズムとはあまりにも対照的な筑後川の悠久の流れ。
この「筑後川」を題材に壮大な「合唱組曲"筑後川"」を作曲したのが、孫の團伊玖磨(だんいくま)である。

JR久大線「夜明駅」から大分方面へ向い、各駅停車で約15分で「日田駅」に着く。
NHK「ブラタモリ」(2020年2月13日放送)では、「日田市」が紹介しており、大山(おおやま)の「響(ひびき)渓谷」からスタートした。
「進撃の巨人」の作者、諌山創(いさやま はじめ)は日田出身で高校まで過ごしていていたため、2020年秋に、大山ダムに登場人物の銅像が設置された。
また、旅館「うめひびき」のギャラリーおおやまでは、2021年1月末まで「進撃の巨人展示コーナー」を実施するなどしていた。
「ブラタモリ」では、諌山創が幼い頃よく遊んでいた、日田市大山公民館を訪問していた。
ここは地名どおり、山が壁のように切り立ったところで、諌山自身も、新聞社のインタビューに日田の風景が作品に影響したと答えている。
「進撃の巨人」の主人公が壁の外を目指していたように、諌山も日田から出ることを夢見ていた。
実はタモリも、20代の頃、日田市内のボーリング場の支配人を勤めたことがある。
朝から深夜まで働き、日田の街を歩いたことはほとんどなかったという。
「進撃の巨人」は、巨人の襲撃を恐れ、高さ50mの壁に囲まれて生きる少年たちの物語。
ある新聞記者が中東イスラエルのガザ地区の子供が「進撃の巨人」を読んでいるのをみて驚いたという。
ガザの人々もいわば「壁」に囲まれている人々である。
何しろガザには、反イスラエルの過激派組織ハマスがあって何度もテロを起こし、イスラエルはその報復に、ガザを”封鎖”したままロケット弾を撃ち込み、国際的非難を浴びたこともあった(2009年)。
また番組「ブラタモリ」ので印象に残ったことは、江戸時代の日田について九州北部を「車輪」に例えて説明していたことだ。
九州北部の中心にあり、玄界灘にも瀬戸内海、北九州や筑後、大宰府にも街道や河川が通じる日田は、いわば車輪の中心部分。
大名の監視に最適な立地のため全国に4つしかない「郡代」という幕府の重要な役所が置かれた。
山に囲まれた日田は他の藩と隔離され、郡代の独立した立場を100年以上も守り続けることができたともいえる。
またであったがため日田は江戸幕府の「直轄領」なっていて、日田産の米は幕府に納められたことから、、日田では「天領水」という名でペットボトル入りの水が販売されている。
TVの「車輪」を使った説明で、あまり目立ない日田がなぜ「幕府直轄領」になったのかがよく納得できたうえに、俄然この地に興味が湧いた。
そしてこの日田が直轄領になったもう一つの理由は、ひょっとしたら「金山」の存在があったからではなかろうか、と推測した。
明治時代に発見され、一時は東洋一と詠われた「鯛生(たいお)金山」で、1972年に閉山している。
鯛生金山は現在「地底博物館」となって保護されているが、その出口近くにいくと、松本清張が日田を舞台に「西海道談綺」(さいかいどうだんき)という小説を書いた際の資料が展示してあった。
金山が閉山となった頃から1976年まで連載されたこの小説は、日田の金山を「隠し金山」と想定して物語が展開している。
さらに、鯛生金山を出て車で日田市街に向かうとその途中、「下筌(しもうけ)ダム」に出くわす。
下筌ダムは、山林地主・室原知幸のダム建設反対の戦いは、黒澤明の映画のタイトルにちなんで「蜂の巣城の戦い」とよばれた。
六法全書を片手に、地元住民を巻き込んでの攻防は、政府側の国土省(当時は国土交通省)の勝利におわり、室原は自嘲気味に「ダム反対」を逆さまによみ「タイハンムダ」と表現した。
しかし室原が掲げた原則(法にかない、理にかない、情にかなう)は、公共事業のあるべき姿として定着していく。

JR「日田駅」から大分方面へ30分ほどで「豊後森(ぶんごもり)」という駅に着く。
駅前にかつて蒸気機関車の6つの車庫が扇城に並んでいて転車台と繋がる大掛かりな「転車台」が保存されている。「転車台」とは、車両の前後を回転させて方向転換する設備である。
サンフランシスコ名物の市街電車は、終点において転車台を”人力”で押して回転させる姿が観光スポットとなっているが、ここ豊後森の「転車台」は、機械で動かす仕組みになっている。
老朽化しているとはいえ、これだけの設備が保存されているのは感動ものである。
大分(豊後)の森中を走る蒸気機関車のイメージは、かつてNHKスペシャルで見たイギリスのウエールズを舞台に走る「機関車トーマス」の映像が思い浮かぶ。
ロンドンから西へ1時間ロッドバラの小さな町の教会のステンドグラスに「機関車トーマス」の画がある。
この画は、この教会の牧師がステンドグラスに嵌めこんだもので、実は、この牧師・ウイルバートこそ、トーマスの「生みの親」なのだ。
ウイルバートは、説教を通じて子供に道徳を教えることより、子供を喜ばせることを無上の喜びとする牧師だった。
彼は、新しい話を次々につくったが、ウイルバートの初期の作品に「3台の機関車」という本があり、そのなかに「エドワードの楽しい1日」という物語が収められている。
エドワードは5台の他の機関車と一緒の機関庫にいたが一番小さかったので、いつも皆からからかわれた。
エドワードが落ち込んでいると、機関手と助手がやってきて一緒に出かけないかと声をかける。
そして、エドワードは機関庫から外の世界に出て予想だにしなかった楽しい1日を過ごすことになる。
実はこの話、牧師ウイルバートが、はしかで長いこと外に出られなくなっていたひとり息子クリストファー君をを元気にするために作られた物語である。
この年のクリスマス、父は12歳になった息子は機関車に興味を持ち始めた子に「プレゼント」を贈ることにした。
そして父が箒の柄や木切れで手作りした機関車に、クルストファー君自身が「トーマス」と名をつけたのだ。
ウイルバート自身、ボックスという山の麓の古い町で9歳から17歳までを過ごしている。
その家は今は小さなホテルとなっているが、部屋からわずか100メートルのところにイギリス最大の会社グレート・ウエスタン鉄道が通っていた。
彼はいつも機関車が通るのを見ていたが、近くに全長3キロにもおよぶ上り坂が続くボックス・トンネルがあった。
ここに貨物列車が夜中にやてきて重い貨車をひいてボックス駅で停車する。
三回汽笛がなると「タンク機関車」の登場するのだが、ウイルバート少年の想像の中で、貨車を引いてきた機関車とタンク機関車が、「無理だよ 無理だよ。できるさ できるさ」といった会話をしながらしたように聞こえたのだ。
そうしてウイルバート少年が羽ばたかせた空想が、やがて息子を励ます物語となっていった。
時を隔てて、一度は廃止された路線で機関車をボランティアの力で動かす動きが始まった。
実は、「機関車トーマス」を生んだウイルバートもボランティアとして働き、息子とともに、車両や線路の点検などしたことがあるという。
そのためか、この鉄道にも「機関車トーマス」を模した機関車が走っている。

「豊後森」は実際に「童話の里」とよばれ、デンマークの童話作家「アンデルセン」と関わりがある。
それは「日本のアンデルセン」と呼ばれた人物の生まれ故郷であったからだ。
アンデルセンは、1805年のデンマーク=ノルウェーの都市、オーデンセに生まれた。
父は最下層の靴職人、母は洗濯婦という非常に貧しい家庭であったが、貧しさゆえの物資の欠乏や、虚言癖のある祖母からの影響を受けて、想像力の豊かな天才少年として育った。
アンデルセンは、父の死と母の再婚に伴ってコペンハーゲンに上京し、オペラ歌手や劇作家を目指すも挫折し、冷遇される時代を過ごした。
夢破れた彼は、わずかな理解者の一人の援助で大学に通うものの、学ぶものの学長に冷遇されて大学を辞めて旅に出ることに。
そして旅の経験をもとにした紀行文学や多くの詩作を行い、1835年の『即興詩人』がようやく話題になった。
アンデルセンは、童話昨夏として生きる道を見出し、『人魚姫』や『マッチ売りの少女』、あるいは『アナと雪の女王』の原作となった『雪の女王』など、多くの作品が読み継がれている。
アンデルセンは1875年にコペンハーゲンにて肝臓がんのために、この世を去った。
豊後森を「童話の里」としたのは、意外にも瀬戸内海を拠点とする村上水軍の末裔である久留島武彦(くるしまたけひこ)である。
村上水軍は大きく三つに分かれ、広島の因島(いんのしま)を根拠とする「因島村上氏」、能島(のしま)を根拠とする「能島村上氏」、四国本島近くの来島(くるしま)を根拠とする「来島村上氏」である。
ちなみに、日露戦争でロシア(バルチック)艦隊を撃破した日本海海戦に村上水軍の「丁字戦法」を取り入れ世界の海戦史上例の無い大勝利、「東郷ターン」と呼ばれた。
この「来島村上」氏が関ヶ原の戦いで西軍につき、敗軍となった後に、改易(取り潰し)は逃れたものの今後一切水の上で暴れられないようにとの徳川家康の思惑があったのか、大分県の山奥である「豊後森藩」に転封させられたのである。
そして、二代目藩主が、「来島」を「久留島」と改めて現在に至っている。
童謡「夕やけ小やけ」の作詞者の久留島武彦は、村上水軍「因島来島氏」の末裔である。
大分県玖珠郡森町出身の児童文学者で、森藩9代の藩主・久留島通容(くるしまみちかた)の孫にあたる。
1887年、大分中学(現・大分県立大分上野丘高等学校)に入学する。
久留島はそこで英語教師をしていたアメリカ人宣教師のS・H・ウェンライトと出会い、ウェンライト夫妻の影響もあり日曜学校で子供たちにお話を語る楽しさを知り、キリスト教の洗礼を受けた。
ウェンライトの転勤と共にウェンライトのいる関西学院に転校し、同校を卒業する。
1924年、久留島は日本童話連盟が創立され厳谷小波らと共に顧問に就任した。
同年にデンマークで行われたボーイスカウトの世界大会「ジャンボリー」に、日本の派遣団副団長として参加している。
このときアンデルセンの生地であるオーデンセを訪れ、アンデルセンの生家が物置同然に扱われていることや、アンデルセンの墓が手入れもされず荒れ放題だったことに心を痛め、地元新聞をはじめ、行く先々でアンデルセンの復権を訴えた。
これに心動かされたデンマークの人々は久留島のことを「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。
アンデルセンの「業績」を示すために最もわかりやすいのは、「国際アンデルセン賞」の存在である。
二年に一度、「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として開催されるこの賞は、「小さなノーベル賞」と評されるほど絶大な影響力を誇ってる。
日本からは『ぞうさん』で知られるまど・みちおや、『守り人シリーズ』の上橋菜穂子、『魔女の宅急便』の角野栄子が作家賞を受賞している他、赤羽末吉と安野光雅が画家賞を受賞している。
JR豊後森駅から徒歩30分で「久留島武彦記念館」に着く。また大分県中津市にいくと村上は久留島の口演童話活動を記念して「村上記念童心会館」がある。
久留嶋の中津市時代の幼馴染に、西鉄社長でライオンズを創設し井筒屋の社長もつとめた村上功児がいた。
この会館は、村上が久留島の業績を記念して建てたものである。また、青少年の育成に尽くした人に「久留嶋武彦文化賞」が贈られている。

中野忠八や久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。
、平安時代末期から戦国時代まで、今の広島県尾道市から愛媛県今治市を繋ぐ、「しまなみ海道」一帯を牛耳った海賊である。
織田信長の石山本願寺(現在の大阪城の場所)攻めの時、毛利配下の水軍として、織田水軍と戦い大勝利を治めたが、第二次では鳥羽の九鬼水軍の鉄船と戦い敗北している。
山陰の小大名に過ぎなかった毛利元就が村上水軍を味方にして奇跡の大勝利、その後中国地方三カ国の大大名に成る。


冷たいものと熱いものを混ぜるとなまぬるくなり、熱くも冷たくもありません。主は黙示録第3章で、ラオデキアの教会の天使になまぬるさについて話しかけられました。そこにはこうあります。 ヨハネの黙示録第3章15-19節 「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。 だから、熱心になって悔い改めなさい。」 上記の文節に明らかなように、主はなまぬるさを受け入れがたいこととされています。 なまぬるさを主は、熱心さの足りなさだと見ておられます。そのひとの心は神への愛に燃えていないのです。自らが自分自身を見る目は、主がご覧になるところとは完全に異なるのです。ですから主がそのひとを「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」とご覧になるそのいっぽうで、そのひとは自分は豊かだ、必要なものなど何もないと思っているのです。そのひとの興味の中心は、主にも主のご意見のうえにもなく、ただ自分のことしか頭にありません。「私は富んでいる、[私] は金持ちになった」彼はいいます。そのなまぬるいひとにとって、イエスキリストはたぶん主であり、過去のいつかにはそのように告白したこともあったでしょう。ですがイエスは今日はもう、そのひとの主でもそのボスでもないのです。今日の彼のボスはむしろ、彼自身なのです。ですがマタイの福音書にはつぎのようにあります。 マタイによる福音書第16章24-25章 「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」 つぎに示されている行為は静的なものではありません。イエスキリストに従うためには、ひとは自分を捨てなければなりません、そしてこれはなにかの静的なものではないのです。私たちが昨日したことがらは、だからといって今日も確実にするというものではありません。たとえそのひとはイエスが自らの主だと告白したことがあったとしても、主が真に私たちの主、ボスであるかどうかは、私たちが毎日、いや毎分にも決めねばならないことがらなのです。 イエスキリストは、過去のいつかに自分を主だと告白しただけというひとではなく、引き続きその告白に生きるひとをお望みなのです。パウロはコリント人への第二の手紙でつぎのように言っています。 コリント人への第二の手紙第13章5節 「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。 それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。」 私たちが過去に信じたという事実は、こんにちもまだ信仰を持っていることにはなりません。ですから緊張を欠かすことなく、自身を吟味しましょう。今日私は信仰を持っているか、と。 この質問は非難や恐れ(神への恐れを除き)をかきたてることを目的とするものではなく、聖書がいっているとおり、自身を吟味するところにあります。主はなまるいひとびとを嫌悪なさるとはいえ、そのようなひとびとをも愛しておられ、変わってほしいと望んでおられるのです。主はそのひとびとが悔い改め、熱心になってくれるよう望まれます。黙示録の同じ章のなかで主がこのように言っておられるのはその理由からなのです。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。主がなまぬるいひとびとに対して示すものは拒否ではなくて懲らしめであり、ヘブル人への手紙第12章11にあるように「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。」のです。 ですがこの「神のみこころに添うた悲しみ」が「悔改めに導」く(コリント人への第二の手紙第7-10)ことになるのです。

久大本線の豊後森駅の東側にある鉄道公園。 今では綺麗に芝生が張られ、広々した風景に。 かつてここには機関区がありました。 昭和9年。ココに豊後森機関区がデビューしました。 当時は久大本線を走るSLでごった返していて、それはそれは賑やかだったそう。

今は芝生広場の中央に静態保存のSLが一台のみ。 当時は久大本線を走るSLでごった返していて、それはそれは賑やかだったそう。 今は芝生広場の中央に静態保存のSLが一台のみ。 残念ながら、この機関区に在籍していた車両ではなく。
福岡県の志免町にて屋外展示されていたものを、新たに譲り受けたもの。 残念ながら、この機関区に在籍していた車両ではなく。 福岡県の志免町にて屋外展示されていたものを、新たに譲り受けたもの。 現役時代は主に長崎や佐賀方面で活躍していたそうで。 現役時代は主に長崎や佐賀方面で活躍していたそうで。 志免町では中の坪公園に静態保存。とは建前でね。

実際は40年近く雨ざらしになっていたようで。 志免町では中の坪公園に静態保存。とは建前でね。 実際は40年近く雨ざらしになっていたようで。 そんな中、公園拡張工事の話が持ち上がり、SLの置いてある場所が邪魔になり。新たな保管場所を探すものの、その費用はざっと1300万円。町議会が出した答えと言えば・・・

『お金かかりすぎ。このSL、ウチじゃもぅ無理ぽ』\(^o^)/ そんな中、公園拡張工事の話が持ち上がり、SLの置いてある場所が邪魔になり。新たな保管場所を探すものの、その費用はざっと1300万円。町議会が出した答えと言えば・・・ 『お金かかりすぎ。このSL、ウチじゃもぅ無理ぽ』\(^o^)/ かくして解体・廃棄は時間の問題。

SLくんの進退、ここに極まれり~!・゚゚(⊃ω⊂)゚゚・ かくして解体・廃棄は時間の問題。 SLくんの進退、ここに極まれり~!・゚゚(⊃ω⊂)゚゚・ ココで救世主現る。玖珠町の有志たちの登場です。

『捨てるぐらいなら、ウチにちょーだいな♪』(*'∀'人 ココで救世主現る。玖珠町の有志たちの登場です。 『捨てるぐらいなら、ウチにちょーだいな♪』(*'∀'人 かくして『9600形29612号』は玖珠町に引き取られて来たのです。

よかったね♪(*´ω`*)ちゃんちゃん。 かくして『9600形29612号』は玖珠町に引き取られて来たのです。 よかったね♪(*´ω`*)ちゃんちゃん。 お話は機関庫に戻りまして。

この公園にはSL時代から使われていた転車台が今もしっかり残ります。 お話は機関庫に戻りまして。 この公園にはSL時代から使われていた転車台が今もしっかり残ります。 ちょこんとトロッコが乗っけられていました。

心憎い演出です(*´ω`*) ちょこんとトロッコが乗っけられていました。 心憎い演出です(*´ω`*) リペイントしたのかな?
橋桁(土木工学っぽくゆーと鈑桁?)が妙にキレイ。 リペイントしたのかな? 橋桁(土木工学っぽくゆーと鈑桁?)が妙にキレイ。 サビサビタンク。経年を感じさせますねー。

てゆっか、何のために水タンクとかあるのかしら?
詳しい方、なにとぞご教示を(≧人≦) サビサビタンク。経年を感じさせますねー。 てゆっか、何のために水タンクとかあるのかしら? 詳しい方、なにとぞご教示を(≧人≦) 転車台もいい雰囲気だけど、やっぱり機関庫の威容が素晴らしい。

もっとじっくり見たい。間近で見たい。 転車台もいい雰囲気だけど、やっぱり機関庫の威容が素晴らしい。 もっとじっくり見たい。間近で見たい。 ロープのつなぎ目に微妙な空間を発見した!
わざわざ『乗り越える』なんてゆー暴挙を冒さなくても普通に入れるぞ(;・ω・)

付近を確認したところ、立入禁止の札も看板もございません。
これは入っていいのか!悪いのかー!(*´Д`*) ロープのつなぎ目に微妙な空間を発見した! わざわざ『乗り越える』なんてゆー暴挙を冒さなくても普通に入れるぞ(;・ω・) 付近を確認したところ、立入禁止の札も看板もございません。 これは入っていいのか!悪いのかー!(*´Д`*) 入っちゃった・・・(〃▽〃) 入っちゃった・・・(〃▽〃) とりあえず、関係者の方に注意されたら、素直に撤収する心構え。

立入禁止の札が無かったので、入っちゃいました。ゴメンなさい的な。 とりあえず、関係者の方に注意されたら、素直に撤収する心構え。 立入禁止の札が無かったので、入っちゃいました。ゴメンなさい的な。 ある意味、確信犯的ではある(≧m≦) ある意味、確信犯的ではある(≧m≦) 何やら、意味深い・・・

安全第一の遠い遠い言い回しなのでせうか。 何やら、意味深い・・・ 安全第一の遠い遠い言い回しなのでせうか。 ワタクシ、鉄子であって廃墟ファンではないのですがー。

彼らの好むノスタルジーさがちょびっとわかった気が致します。 ワタクシ、鉄子であって廃墟ファンではないのですがー。 彼らの好むノスタルジーさがちょびっとわかった気が致します。 放置されたジェネレーター。わりかし新しめ。
なぜだ。なぜ国鉄と書いてないんだ(≧m≦)

JR化されてからは物置として使われてた?
てかDQN!落書きするな!ヽ(*`Д´)ノ 放置されたジェネレーター。わりかし新しめ。 なぜだ。なぜ国鉄と書いてないんだ(≧m≦) JR化されてからは物置として使われてた? てかDQN!落書きするな!ヽ(*`Д´)ノ 旧機関庫の右端は後付けっぽい小屋が見えます。
修繕小屋として使われていたらしい・・・

って、修繕小屋って何?工房みたいなカンジ? 旧機関庫の右端は後付けっぽい小屋が見えます。 修繕小屋として使われていたらしい・・・ って、修繕小屋って何?工房みたいなカンジ? 室内はこれまた見事に天井が落ちていて。

落ち葉がどっさり。 室内はこれまた見事に天井が落ちていて。 落ち葉がどっさり。 往年のヤマハのメイトが置き去りに!(;・ω・)

※カブじゃないよ(笑 往年のヤマハのメイトが置き去りに!(;・ω・) ※カブじゃないよ(笑 機関庫の壁もダイナミックに壊れていて。

(経年劣化か意図的に開削したものかは不明) 機関庫の壁もダイナミックに壊れていて。 (経年劣化か意図的に開削したものかは不明) 天井は一見、シーリング剤で雨漏り補修したのかなとも。

黒いのはコールタールによる防水処理で、隙間はシーリング剤でひび割れた目地を埋めたんだとも思ったのですが・・・ 天井は一見、シーリング剤で雨漏り補修したのかなとも。 黒いのはコールタールによる防水処理で、隙間はシーリング剤でひび割れた目地を埋めたんだとも思ったのですが・・・ 2009年に行われた現地調査の写真を見る限り。
天井は昔のまま。手を入れられた様子はありません。

天井が黒いのはSL時代の煤煙によるもので、目地補修に見えたものはクラックからの雨水によるモルタル成分の染み出しと思われます。
2009年に行われた現地調査の写真を見る限り。 天井は昔のまま。手を入れられた様子はありません。 天井が黒いのはSL時代の煤煙によるもので、目地補修に見えたものはクラックからの雨水によるモルタル成分の染み出しと思われます。 これはレールではなく、庫内メンテナンス用の部材?

恐らくローリングタワー的なものだと思われ。 これはレールではなく、庫内メンテナンス用の部材? 恐らくローリングタワー的なものだと思われ。 こっちはちゃんとしたレール。

この機関庫は玖珠町が歴史的文化遺産として引き取ったといわれていますが、このレールの所有者が今でもJRなのかどうかは不明。 こっちはちゃんとしたレール。 この機関庫は玖珠町が歴史的文化遺産として引き取ったといわれていますが、このレールの所有者が今でもJRなのかどうかは不明。 どう見ても補修してるようにしか見えないんだよなぁ・・・

気になってしょうがない(-ω-;)ウーン どう見ても補修してるようにしか見えないんだよなぁ・・・ 気になってしょうがない(-ω-;)ウーン 電気系統も今は生きてないと思いますがー。

なんだろ、この重厚感。 電気系統も今は生きてないと思いますがー。 なんだろ、この重厚感。 外は明るくて、のんびりした春の雰囲気なのに。
なぜか、ココだけは『つわもの共が』的なノスタルジーさ。 外は明るくて、のんびりした春の雰囲気なのに。 なぜか、ココだけは『つわもの共が』的なノスタルジーさ。 やっぱりお日様の下が気持ちいい。
外から見るのが一番楽しいな♪ やっぱりお日様の下が気持ちいい。 外から見るのが一番楽しいな♪ 転車台を運転室アングルから。 転車台を運転室アングルから。 さびさび。スクラップ状態。 さびさび。スクラップ状態。 配線系統も断ち切られたまんま。 配線系統も断ち切られたまんま。 動いていたものが動かなくなっても。
それはそれで浪漫を感じるのであります(*´ω`*) 動いていたものが動かなくなっても。 それはそれで浪漫を感じるのであります(*´ω`*) あ、ちなみに。機関庫の左側の2レーン。

改築で後から継ぎ足したものだそうですよ。 あ、ちなみに。機関庫の左側の2レーン。 改築で後から継ぎ足したものだそうですよ。 窓ガラス。いつ落ちてくるともわからない・・・ 窓ガラス。いつ落ちてくるともわからない・・・ 機関庫廃止直前。しきり壁の左側3レーンは旧国鉄宮原線を走る気動車、キハ07形が保管されておりました。 機関庫廃止直前。しきり壁の左側3レーンは旧国鉄宮原線を走る気動車、キハ07形が保管されておりました。 もともとはSL用に造られた機関庫だったのですが・・・

時代の流れですね。 もともとはSL用に造られた機関庫だったのですが・・・ 時代の流れですね。 床下にスペースが開いてるのは、車体下部のメンテナンスを行うため。

いろいろ考えられて造られていたのです(〃'▽'〃) 床下にスペースが開いてるのは、車体下部のメンテナンスを行うため。 いろいろ考えられて造られていたのです(〃'▽'〃) 今は北九州の鉄道博物館に展示されているキハ07形。

かつてはこの機関庫所属だったのですよ。 今は北九州の鉄道博物館に展示されているキハ07形。 かつてはこの機関庫所属だったのですよ。 そういえばサボにもこんなカンジで、豊後森ってしっかり書いてあった!(*´ω`*) そういえばサボにもこんなカンジで、豊後森ってしっかり書いてあった!(*´ω`*) この辺りだけがマトモにレールが残っています。 この辺りだけがマトモにレールが残っています。 鉄道に興味ない人、歴史に興味ない人。

そんな人が見れば何とも感じないかも知れない。 鉄道に興味ない人、歴史に興味ない人。 そんな人が見れば何とも感じないかも知れない。 でも、古いものが好きな人には美味しすぎる空間。 でも、古いものが好きな人には美味しすぎる空間。 けど、この窓の直下は普通に危険だ( *´艸`) けど、この窓の直下は普通に危険だ( *´艸`) ところで、気になったコトがあるのです。

この機関庫の脇道。ココも昔の構内線の跡なのですが。 ところで、気になったコトがあるのです。 この機関庫の脇道。ココも昔の構内線の跡なのですが。 グーグルマップには載っていないけれど。
国土地理院の地図を見ると、側線の跡が今でも残っています。 グーグルマップには載っていないけれど。 国土地理院の地図を見ると、側線の跡が今でも残っています。 この取り払われた側線跡の小脇に残る何かの土台。 この取り払われた側線跡の小脇に残る何かの土台。 奥はホームらしきもの。その手前のモノは・・・?

てか、境界標がホームのなぜ真ん中に!? 奥はホームらしきもの。その手前のモノは・・・? てか、境界標がホームのなぜ真ん中に!? JRだから割と新しい時期に立てたとは思うんだけど・・・

なぜこんな中途半端なトコロに?
普通は敷地のはじっこに立てたりしない? JRだから割と新しい時期に立てたとは思うんだけど・・・ なぜこんな中途半端なトコロに? 普通は敷地のはじっこに立てたりしない? 真四角の基礎コン。
恐らくフタとして使っていたであろう朽ち果てた鉄板。

ココには給水塔か井戸、ポンプがあったのではと推察。 真四角の基礎コン。 恐らくフタとして使っていたであろう朽ち果てた鉄板。 ココには給水塔か井戸、ポンプがあったのではと推察。 40年以上前の空撮写真にもこの辺りになんらかの構造物があったことは確認できますが、それがなんであるかは写真からは判別不能。 40年以上前の空撮写真にもこの辺りになんらかの構造物があったことは確認できますが、それがなんであるかは写真からは判別不能。 ホームらしき跡のさらに後ろにも謎のコンクリート建造物。

ここら辺りは謎の構造物の山。 ホームらしき跡のさらに後ろにも謎のコンクリート建造物。 ここら辺りは謎の構造物の山。 高さは2mぐらい?ホームにしては高すぎ。 高さは2mぐらい?ホームにしては高すぎ。 先ほどの場所に給水塔があったとすれば、こちらは恐らくSL時代に使われた給炭台かなーとも思ったのですが。 先ほどの場所に給水塔があったとすれば、こちらは恐らくSL時代に使われた給炭台かなーとも思ったのですが。 昭和40年に撮影された同機関区の構内写真を見ると、給炭台の構造といい、配置といい全然違ってる!>< 昭和40年に撮影された同機関区の構内写真を見ると、給炭台の構造といい、配置といい全然違ってる!>< すると、この構造物は一体何・・・?

だれか知ってる人いますかー!謎、多すぎやん!>< すると、この構造物は一体何・・・? だれか知ってる人いますかー!謎、多すぎやん!>< 深まる疑問は胸にたたみ、再び機関庫ヤードへ。 深まる疑問は胸にたたみ、再び機関庫ヤードへ。 昔、機関庫の母屋だった建物跡はキレイに取り払われ、今ではミニSLの周回コースとなっています。 昔、機関庫の母屋だった建物跡はキレイに取り払われ、今ではミニSLの周回コースとなっています。 ミニSL用の車庫です。 ミニSL用の車庫です。 たぶんビジュアル的な何かを期待して造ったのでしょう。 たぶんビジュアル的な何かを期待して造ったのでしょう。 ある意味、無駄に機関庫ちっくで(笑) ある意味、無駄に機関庫ちっくで(笑) この辺りなんかもそうです(*´ω`*)

や、模型ファンなら喜ぶかな? この辺りなんかもそうです(*´ω`*) や、模型ファンなら喜ぶかな? プチミュージアムも新たに設営されました。

ミュージアムあるある。お約束の月曜休み( *´艸`) プチミュージアムも新たに設営されました。 ミュージアムあるある。お約束の月曜休み( *´艸`) とと!なんだアレ!普通にトラクターが公園内を走ってる!?

※公園は玖珠町の所有なので、近所の畑からひょっこり現れるそう。
一般道へのアクセス道としても使われてるってことね。 とと!なんだアレ!普通にトラクターが公園内を走ってる!? ※公園は玖珠町の所有なので、近所の畑からひょっこり現れるそう。 一般道へのアクセス道としても使われてるってことね。 ココにも昔の遺構を発見!保線小屋?作業員詰所?
はたまた休憩所が作業小屋かー(-ω-;)ウーン ココにも昔の遺構を発見!保線小屋?作業員詰所? はたまた休憩所が作業小屋かー(-ω-;)ウーン 今では物置状態。でもわりとキレイなほう。 今では物置状態。でもわりとキレイなほう。 この外観を残しつつ、何かに使えないかなぁと。
このまま朽ち果てさせるには惜しい。 この外観を残しつつ、何かに使えないかなぁと。 このまま朽ち果てさせるには惜しい。 結構、雰囲気はいいのよねー♪ 結構、雰囲気はいいのよねー♪ ココ先は駅の構内。フェンスで遮られてるけど、無駄に広い(笑)
とゆーわけで、旧豊後森機関区の探索でした。

※後に玖珠町のHPで確認したところ、機関庫構内は立入遠慮願うとのこと。よって内部の見学はお勧め致しかねます。(ガラスの落下の危険もございます) ココ先は駅の構内。フェンスで遮られてるけど、無駄に広い(笑) とゆーわけで、旧豊後森機関区の探索でした。 ※後に玖珠町のHPで確認したところ、機関庫構内は立入遠慮願うとのこと。よって内部の見学はお勧め致しかねます。(ガラスの落下の危険もございます)