「香り」はレジスタンス

最近、専制国家が規制を強め、様々なカタチで「表現の自由」を奪っている。そういう国では人々が顏の前に白紙を掲げ「抗議」の意志を表現している。
このまま統制が続けば、最後に残る表現の形式はカタチが残らないもの~例えば香りのようなもの。
実際、世界有数の香りの産地は、歴史的にレジスタンスとの関わりが深い。
南フランスのコートダジュール海岸に近いグラースあたりは香料の「ふるさと」といわれている。
パリより5度ほど温暖で果物が豊かに実り、花も咲き乱れ、ラベンダー、ジャスミン、ローズ・センティフォリアなどの香りただよう。
実はグラースが「香り」の地になったのは意外な歴史が秘められている。
フランスのグラースで生産される革製品は質が大変良く、特に 革手袋が裕福な上流階級の婦人達に人気であった。
しかし革手袋の欠点は、その におい。手袋を外した後もしつこく手に残るので困るという意見が婦人達から聞かれた。
そこで、あるなめし職人が香水つきの革手袋を考えつき、早速商品化したところ大人気商品となった。
こうしてしばらく「香り付き革手袋のグラース」として名が売れたが、革製品の税があがったことや、ニースの台頭によって競争力を奪われたことなどが原因で革なめし産業は衰退し、香水産業だけが後に残ることとなったのである。
コートダジュールを南に下ると長靴の形状をしたイタリア半島、その爪先に位置するシチリア島が浮かぶ。
シチリア島は、映画「シシリアン」や「ゴッドファーザー」の舞台として有名な地である。
つまり、アメリカン・マフィアの祖先の地である。
歴史上シチリアといえば、ローマ帝国と死闘を繰り返したカルタゴのハンニバルを思い起こす。
北アフリカに拠点をおくカルタゴは、地中海の制海権をめぐってローマと闘う。
カルタゴはフェニキア人の国だが、フェニキア人の世界貢献は「アルファベット」の創造と、もうひとつレバノン杉の供給がある。
シドン・ティルスを拠点としたフェニキア人は聖書には「シドン人」として登場する。
ダビデおよびソロモン王は,杉材を求めてレバノンに人を遣わし、神殿建設などに使われた。
またレバノン杉からは、薫りの高い,赤味を帯びた木材が得られ「 レバノンの香柏(こうはく)」は最高級品として尊ばれた。
さて、2020年に瑛人(えいと)が歌った「香水」が大ヒットした。この曲の歌詞に登場するのが「ドルチェ&カッパーナ」である。
♪別に君を求めてないけど横にいられると思い出す。君のドルチェ&カッパーナのその香水のせいだよ♪
80年代後半こら90年代、「ドルチェ&カッパーナ」の服は、社会で男性と同様に活躍し始めた世界中の多くの女性達の憧れの的になった。
デザイナーのドメニコ・ドルチェは58年、イタリアのシチリア生まれ、家族でテーラーを営み、若い頃からその手伝いをしていた。一方のステファノ・ガッパーナは1962年生まれて、ミラノでつつましく暮らす家で育った。
ドルチェもカッパーナも、それぞれの学校でデザインを学び、その後に勤めた服飾デザイン事務所で出会った。
1982年にガッパーナの徴兵期間終了後、共同で事務所を設立した。
シチリア出身のドルチェはシンプルさを愛し、カッパーナは色とプリントが好きだった。このミックスから全く異なるコントラストと要素で構成する美学が生まれたという。
二人は、「当時の女性達は自らが自信をもてるような服を求めていたのだと思う」と語っている。
彼らは、今も続く穴の開いたダメージ・デニムの先駆者とよばれている。

イタリア半島の西に位置するのはフランス領の島コルシカ島である。
ナポレオンの生誕地で有名なこの島には、木が密生した植生「マキ」とよばれる灌木地帯がある。
この灌木地帯から、香水の原料となる精油がとれる。
精油とは、植物の花、葉、果皮、種などから抽出した香りのあるオイルで、ただ香りを楽しむだけでなく、香水や香料はもちろん、化粧品や入浴剤など生活に幅広く使われている。
ローズマリー、ゼラニウム、コルシカミント、ベルガモッなどの植物は、葉をこすると力強い香りを漂わせている。
この辺りは、第二次世界大戦時のドイツ占領下フランスで活動したレジスタンス組織が結成された。
ここから転じて、コルシカ島では「マキをやる」という表現が、警察の追及や他の一族からの復讐を逃れるため森に逃げ込むことを意味するようになった。
「マキ」をやった人のことを「マキザール」と言うが、この語はその後レジスタンス運動員の意味で使われるようになった。
広く信じられているところによれば、「マキ」は、ヴィシー政府が行った徴用を拒否して野に潜伏した若者たちによって造られたと言われている。
「マキ」はレジスタンス活動をおこなっており、次第に全国的に組織されるようになった。
また、ノルマンディ上陸作戦の期間にはマキその他のレジスタンス・グループは、ドイツ軍増援部隊の到着を遅らせる上で無視できない役割を果たしたという。
ナポレオンにゆかりの島といえば、コルシカ島よりさらにイタリア半島に近いエルバ島。
ナポレオンは一時この島に追放されるが、ここでおとなしく年金生活とはいかず、ここを脱出し「ワーテルローの戦い」に望む。
この島でも香水ブランドが誕生するが、そのきっかけは島出身のファビオ&キアラ兄妹と彼らの友人マルコが、ヨット遊びをした日に遡る。
なんと2世紀頃の難破船が発見され、船倉からは象牙の栓が見つかって話題となった。
香水などの瓶に用いられたと思われる精緻な細工が施されたもので、「これは何かのメッセージに違いない」と感じた3人は、エルバ島の花や果物、地中海の潮風を思い起こさせる「香り」をボトルに詰めて届けたいと願った。
そして2000年、「アクア・デル・エルバ」というブランドが誕生している。
さて、この島に晩年居住したのが「グラン・ブルー」で知られる、ジャック・マイヨールで、ダイバーたちの憧れの存在である。
マイヨールはフランス人建築家の二男として1927年に上海租界で生まれ、当時上海と長崎に定期航路が運行されており、ジャックの一家は毎夏唐津の「虹の松原」で休暇を過ごした。
そしてジャックが最初に浅い海で潜ることを覚えたのは、6歳の時であった。
そして、七つ釜で初めてイルカに出会い、このことが彼の一生を左右する「心の風景」となる。
また唐津の海に繰り広げらえる海中の四季の変化に魅了された。
1920年代、虹の松原の中には外国人専用の木造のホテルがいくつかあり、リゾート地として賑わってた。ジャックの一家が逗留したのは、「あずまやホテル」(東屋ホテル)であった。
けれども1930年代後半は戦雲がたちこめ、日本の軍国主義はすべての西欧的なものを排除した。
そのために、ジャックの一家はその後日本にくることはなくなった。
12歳で一家でフランスのマルセイユに移住。17歳で父の設計事務所で働きながらバカロレア(高卒資格)を取得。
高校を出ると北極圏でイヌイットと暮らすなど、以後コペンハーゲンを起点に旅を繰り返した。
その後水夫としてカナダのアルバータ州、アメリカのマイアミに移住。
その間、レポーター、ジャーナリストとして働き、25歳の時に結婚し、一男一女をもうけいている。
1976年11月、エルバ島にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。
この時マイヨールは、49歳であった。
ダイビングの第一線から引退した後は、イルカと人間との共存を訴えた。晩年はうつ病を患っていた。
2001年12月22日、エルバ島の自宅の部屋で首吊り自殺をしているのが発見され、遺骨はトスカーナ湾に散骨された。

「香り」の産地ばかりか、「香り」を演出する人にもレジスタンスと関わりが深い人がいる。
映画「ティファニーで朝食を」は、オードリー・ヘップバーンに小悪魔的な魅力を付加し、「ムーンリバー」の音楽とともに「ジバンンシー」を着こなしたファッションは、イブサンローランのカトリーヌドヌーブと共に世界的な話題となった。
ヘプバーンはベルギーで生まれたが、母方の一族は「反ナチス」のレジスタンス運動に関わっており、両親は若くして離婚している。
1939年オランダに実家のある母エラは中立国オランダのアーネムへの帰郷を決めた。
ヘプバーンは「アーネム音楽院」でバレエを学んだ。
そしてヘプバーンは、1944年ごろにはひとかどの「バレリーナ」となっており、オランダの「反ドイツ・レジスタンス」のために、秘密裏に公演を行って「資金稼ぎ」に協力していた。
ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。
飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちは「チューリップの球根」の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐありさまだった。
ヘプバーンらにこの時救援物資を送った「連合国救済復興機関」こそ、ユニセフの前身であった。
つまり、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの「戦争体験」が、後年のユニセフへの献身につながったといえよう。
さて、映画の世界で貢献した人物にマックスファクターがいる。
マックスファクター(Max Factor)は、ポーランド系ユダヤ人の実業家、マックス・ファクターが、1909年に設立した化粧品メーカーである。
ロシアのボリショイ・バレエのビューティーアドバイザーであったマックスファクター(1世)がハリウッド(アメリカ・ロサンゼルス)に、化粧品・演劇用品店「マックスファクター」を開店したのが始まりである。
ファクターはアメリカに渡った後、ハリウッド映画の黎明期に美容アドバイザーとして活躍し、生み出した数々のメークアップ製品は映画スターに愛用され、広く知られるようになった。
マスカラやリップブラシなど今では馴染み深い化粧品の多くは、マックスファクター1世によって生み出されたものである。
また、「メークアップ」という言葉は、常に現状に満足できなかった彼の「Make Up(もっと美しい表情を)」の台詞が、後に「化粧する」という意味で使われるようになったものである。
1970年代、化粧品マンダム「男の世界」で一世を風靡したのがチャールズ・ブロンソン。
その容貌から、メキシコ人やインディアンの混血役をしばしば演じていた。
意外にも、ブロンソンは西ヨーロッパのバルト三国のひとつリトアニア移民の家族に生まれた。
リトアニアという国は日本人には馴染みが薄いが、第二次世界大戦中ナチズに追われ、行き場を失ったユダヤ人がリトアニアに押し寄せた際に、首都カウナスの日本大使館に勤めていたのが杉原千畝(すぎはらちうね)である。
杉原は政府の命令を無視して出国ビザを発行して6000人ものユダヤ人の命を救ったことが知られている。
リトアニア人はタキトゥスの「ゲルマニア」に記録が残るほど古い民族であるが、13世紀ドイツ騎士団がこの地を開拓することによって、ようやくその名が歴史上に現れてきた。
リトアニアは帝政ロシアやナチスドイツの支配や占領を受け、敵を同じくするポーランドと同盟を組んだり、レジスタンス戦士として戦った。
リトアニアのレジスタンス戦士は愛称として、「森の兄弟(ミシュキニアイ)」と呼ばれていた。
それにしてもチャールズ・ブロンソンの風貌がどこかアジア風であることが気になった。
、本名「チャールズ・デニス・ブチンスキー」は、リトアニアのドルスキニンカイからの移民家庭に15人兄弟の5男としてペンシルベニア州エーレンフェルドで生まれた。
ブロンソンの母語はリトアニア語で、ポーランド・リトアニア共和国内に定住したテュルク系の「リプカ・タタール人」の血筋を引いている。
15世紀前半、リトアニア大公国・ヴィタウタス大公の時代にクリミア・タタールがリトアニア領に移住して「リプカ・タタール」とよばれた。
テュルク系民族の原郷についての定説がないが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力である。人種的にはモンゴロイドであったらしい。
13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。
しかし、モスクワ大公のイヴァン4世により、「タタールのくびき」は解かれ、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。
バルト海に面したリトアニアでは肥沃な土地は地主が所有し、農民の土地は狭小で農奴解放はロシアより遅れた。
アメリカは南北戦争が終わり国内の発展は目覚ましく、工業の発展、炭鉱の開発、鉄道の敷設に応じて労働力の需要がにわかに増加した。
リトアニア人の移民はその頃増加するが、ヨーロッパからアメリカへの移民はアイルランドとともに最大集団であった。
リトアニア人はペンシルバニア州に移住するものが多く、ブロンソンの父は炭鉱夫として働いた。
ブロンソンが10歳の時に死去し、ブロンソンは兄たちと共に炭坑に入るなどして、家庭は大変貧しかったため、学校へは妹の服を借りて通ったという。
アメリカの第二次世界大戦への参戦後にアメリカ陸軍航空隊に入り、ボーイングB29に搭乗したという。
世界大戦終了後に美術学校に入学し、ここで舞台の裏方となり、エキストラも経験し芝居に目覚めていく。
1948年に友人と共にニューヨークに行き、本格的に演技を学んだが、レンガ職人やウェイターをしながら舞台に端役として出演するようになる。
その後、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のパサディナ・プレイハウスで本格的に演技を勉強する。
1951年に本名で映画デビューを果たすも、冷戦が激化してハリウッドに「赤狩り旋風」が巻き起こったことから、当時共産主義圏であった東欧風の響きを持つ名前を避けて、映画「太鼓の響き」から「チャールズ・ブロンソン」を名乗るようになった。
1958年の「機関銃(マシンガン)ケリー」ではじめて主役に抜擢され、さらに「荒野の七人」や、 「大脱走」などのヒット作に出演し、共に男臭い風貌と巧みな演技が人気を呼んで俳優としての地位を確立。
日本では1970年、ブロンソンは男性用化粧品メーカー丹頂の化粧品「マンダム」のテレビCM(大林宣彦演出)に出演した。
バックミュージックはジェリー・ウォレスの「男の世界」が使用され、日本独自のヒットとなった。
撮影は、アリゾナ州の砂丘とユタ州のモニュメント・バレー、ならびにハリウッドのスタジオで行われた。
ブロンソンが顎をなでながら放った「U~~m、マンダム」のセリフは日本で大流行し、我が個人史と香水の関わりといえば、顎を撫でながらブロンソンの真似事をしたぐらいだ。
1990年に、「夜の訪問者」など数多くの共演したブロンソン夫人のジル・アイランドが乳癌で亡くなり、ブロンソンも俳優業からの引退を宣言した。
いったん復帰しテレビドラマを中心に活動したものの、闘病の末、2003年8月に肺炎で81歳で死去した。

「香り」というものは、「カタチ」や「色彩」と違って、スグサマ消え行くものだけに奥深く、それ故にこそそれを生み出す人間性そのものの「表現」であるということだ。
そして、服から帽子、香水から皮製品に至るまで総合的にその名前が「冠せ」られるていることに気がつく。
そうしたブランドは商品名として「一人歩き」するので、それが「人名」であることさえすっかり忘れてしまう。
香りの奥深さを示す言葉に「ノート」というものがある。
最初に飛び出すつけてから匂いだす揮発性の高いトップノート、次に30分くらいかかってもっとっもバランスのよいカオリが出るハートノート。
最後に、約3時間以降に持続するように残るラストノートで、「残り香」といわれるものである。
つまり、一つの香水に「いくつも表情」が隠されているということである。
オードリーヘップバーンならばジバンシー、カトリーヌドヌーブならばイブサンローランといった具合に女優が特定のブランドに固執するケースが結構あるそうだが、自分のアイデンテチィと一体化しているからであろう。
情熱的な赤や黒、華やかな花柄やヒョウ柄。フェニミンで、ユーモアもちらりとにじむ。