地域密着の書店

2025年のNHK大河ドラマは「べらぼう~蔦谷栄華乃夢話~」と発表された。
喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵を出版したことで知られる蔦谷重三郎(つたやしげさぶろう/1780~97年)が主人公。
主人公役をつとめるのは、横浜流生(よこはまりゅうせい)というキャスティングも面白い。
「蔦谷重三郎」の名は、巷間にあまり知られてはいないようだが、江戸時代の写楽などの「浮世絵」に興味をもつ人ならば、その出版元たる「蔦谷」の名は必ず登場するといってよい。
東洲斎写楽は1794年突然新しい役者絵を発表し1年たらずのうちに140種ほどの役者絵・相撲絵を残して忽然と消え去った謎の絵師である。
「大首絵」によって俳優の個性を印象的に表現した絵は海外も含め多くの人々を魅了している。
しかしパーツによっては稚劣とも思える表現もあり、「写楽は本当は誰だったのか」という謎について今も興味深く論じられている。
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は百数十点にものぼる。一体一人の絵師にそんな大量生産が可能であろうか。
浮世絵(錦絵)の製作は、版元の依頼によってまず絵師が原付大の版下絵をつくる。
これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がうけて版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。
彫師はこれをうけて色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。紙をのせて馬連でこすって摺る。こうして大体、一つの板で200枚ぐらいを刷るというのである。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の「共同作業」であるのだ。
東洲斎写楽という人物がそれだけの人々を動かすことができれば何の問題もないのだが、この人物は後にも先にも極めて短期間しか活動の形跡がない、つまり彗星のように現われ彗星のように消え去っている。
そうした人物にこれだけ多数の人々を動かすだけの人脈をつくりうるだろうか、という疑問が残る。
そこで別の人物または複数の人々が何らかの事情で「東洲斎写楽」の名を借りて制作を行った可能性も考えられる。
その候補の一人が、「蔦谷重三郎」で、いわば「蔦谷プロダクション」のようなものが出来ていたのではなかろうか。現代でいえば「手塚プロダクション」のようなものだ。
ひとつの可能性は写楽の浮世絵が複数によって描かれたもので、描いた人々はけして皆がみな優れた絵師とはいえないということだ。
蔦谷重三郎は1750年に吉原に生まれた。
1780年から蔦谷は山東京伝、太田南畝などの黄表紙をはじめとして大量の出版活動に入る。
そして書店も江戸吉原から日本橋の通り油町に進出している。
そして通り油町から処罰までのわずか8年たらず、33歳から42歳の厄年までの8年間が彼の黄金時代といってよい。
しかし1791年山東京伝が「仕掛文庫」ほか洒落本三冊の版行によって手鎖50日の刑をうけ、蔦屋重三郎は身代半減の重い刑に処される。
それにもめげず、滝沢馬琴に著作の機会を与え十返舎一九の将来に可能性をさぐるなど、次の時代を担う黄表紙作家群の養成に精力を注いでいった。
そうした蔦屋の新たな挑戦が「写楽絵」制作だった。身代半減の刑からの「起死回生」策といってよい。
ところで蔦屋重三郎の大河ドラマ化の話を聞いて、「今なぜ蔦谷か」という疑問がわく。
思いつくのは「全国」で書店が次々と閉鎖されている中で、アマゾンの猛攻に対抗するリアル店舗の雄「TUTAYA」の存在がある。
レンタルショップ「TUTAYA」の名前は、TUTAYA創業者が「蔦谷重三郎」にあやかってつけたものだそうだ。
ある日、TUTAYAの文字の下に蔦屋書店という文字をみつけ、江戸時代にあった「蔦重」こと蔦屋重三郎との関連を予想した。
東京の山手線・恵比寿駅前のビルの中にある「TUTAYA」本社に屋号の由来をファックスで訊ねたことがある。
それによるとTUTAYAの現社長・増田宗昭の祖父である「TUTAYA」創業者が江戸時代から庶民に愛された蔦屋書店の名前にあやかって名前をつけたという返事を頂いた。
周到な返事が書いてあるそのファックスの紙面を見た時、どうやらこういう質問をするのは私だけではないらしいということがわかった。
我が地元でも、TUTAYAの進撃は目覚ましい。
2017年9月25日、福岡市中央区の九州大学六本松キャンパス跡地に開業した複合商業施設「六本松421」。高質スーパーのボンラパスやスターッバクスが入店している。
JR九州が開発したこの施設の目玉として開業したのが、「蔦屋書店六本松店」である。
本松店では、“GOOD LOCAL”をスローガンとし、文化の地産地消を目指しているという。
店内には、旅、食、子育て、音楽、ファッション、アートの6ジャンルに関する本や音楽、映画を取りそろえ、地元出身者を中心に構成する各分野に精通したコンシェルジュによるサポートが特徴だ。
そのほか、トークイベント、ワークショップ、アート展示なども行われ、文化に興味をもつ層の掘り起こしを行う。
六本松店では午前7時のオープン時に、野菜ソムリエが提案するスープやスムージーを味わえるほか、店内スペースで朝ヨガを実施する。書店で朝ヨガを行うのは珍しい試みという。
物の購入はネット通販でも可能だが、店の雰囲気や空間を楽しむことはできない。ネット通販には真似できないことを実践した結果が、このような業態につながったといえる。

「文庫(ぶんこ)」とは、書庫を意味する和語の「ふみくら」に対し、漢字のふみ(文)、くら(庫)の二字をあてた「文庫(ふみくら)」に由来する和製漢語である。
書庫としての意味から転じ、後にはある邸宅や施設の中の書庫に収められた書籍のコレクションそのものとして用いられるようになった。
中世では金沢北条氏の金沢文庫、足利学校の足利文庫などが有名な例である。近世には徳川将軍家の紅葉山文庫が名高いが、日本で最初の町人による文庫というのが博多に存在した。
江戸後期に博多の町人たちが資金を出し合い、蔵書を寄付して櫛田(くしだ)神社に設立された。
それは、貴族や武士階級向けの文庫は古くからあるが、町民なら誰でも利用できる近代的な図書館といってもよい。
「櫛田文庫」は1818年に開館。古事記など神道関係の本をはじめ徒然草や古今和歌集などの教養本、日本の風土を解説した日本水土考、中国の二十一史といった歴史書など計1300冊以上がそろえられた。
なぜ庶民向けの図書館が設立できたのか。
そこには、国学を通じて福岡藩の重臣に人脈のあった同神社神職・天野恒久らの設立への奮闘があったという。
福岡藩は、藩主の意向で藩校として東学問所修猷館、西学問所甘棠(かんとう)館が相次いで開校するなど、藩内の学問熱が高まった時期だった。
さらに藩有数の国学者・青柳種信に天野は師事し、櫛田神社を配下に置いた寺社町奉行の井手勘七も水戸国学を学び、10代藩主の教育係でもあった有力者だった。
ただ、最大の謎はわずか4年で閉鎖したとされること。閉鎖後も蔵書が増え、閉鎖についても、重臣の覚書に残るだけで、後に文庫について書いた天野の文書には全く触れられていない。
が 「櫛田文庫」は、地域密着型の図書館の原型のようなものだが、多くの書店が閉店を余儀なくされえいる反面、そのの存在感を発揮している書店は現代にもある。
現代では本の売り上げにつき、POSデータ(販売記録)というのがあって、前日までの売上が一目瞭然となり、売れ筋の本がよりはっきりとなり、1990年代から本屋が金太郎アメ化してきた。
マーケティングや宣伝が研究され、売れる本はより売れるようになった。
書店現場は、そうした本をさらに売れと発破をかけられる。売れ筋の本がデータだけ頼っていたら、今ある社会の欲望や格差の増幅器にしかならない。
結局、過去のデータを追うだけでは最大公約数的な本しか見えてこず、社会の閉塞に風穴を空けるような新しい本を発見することはできない。
ネットで本が買う人が多い中、ネット上でピンポイントで本を買う人が多い中、本屋の立ち位置はこれからどうあるべきか。
お目当ての本を探すと同時に、思ってもいなかった新しい本に出会いたい人は多いと思う。
ネット上でピンポイントで検索していると世界が狭くなるが、リアルな書棚では、知らなかったことが、いやが応でも入ってくる。そんな迷い込む体験ができるのが本屋なのである。
しかし現代では書店の閉鎖が相次ぎ、八重洲ブックセンターも消えた。
本屋(または図書館)はどのように自らの役割を果たしていくのか、「TUTAYA」とはまったく異なるやり方で、小規模ながら地域密着で人気店となっている書店を探してみた。
神奈川県の真鶴(まなづる)に「道草書店」がある。
店主の中村さんご夫婦は、もともと書店の多い文京区に住んでいた。
真鶴町に移住してから町に新刊を扱う本屋がないことを知り、自分達で本屋を始めることにした。
移動本屋から始めて、店舗をもつようになり、今は新刊だけでなく古本までも扱い、カフェスペースも用意して、地域の方の集まる場所になっている。
カフェスペースの机には、昔の学校の図工室で使われていたものもある。というのも、「道草書店」には、「こども図書館」から引き継いだ蔵書も置いているためでもある。
真鶴町の隣の湯河原町には、長年運営されていたこども図書館「こみち文庫」があった。
こみち文庫の代表の方が引退されることになり、その役割を道草書店が引き継ぐことになった。
「こみち文庫」の蔵書を引き継いだ「こども図書館」の部屋は、天井近くまである本棚に絵本や児童書がぎっしり。
道草書店は地域の人みんなの手で育てられている感じである。
小さい頃に『こみち文庫』に通った高校生や大学生が読み聞かせボランティアをしたり、地域の高齢者が子どもたちの相手をしたりした。
子どもがただ本を読むだけじゃなく、遊んだり話したり、本を読んでくれる人がいる環境で、まさに“育っていく”場所。
店主夫妻は、学校でも家庭でもない第三の場所となることを願っている。
第二に、人と人が出会う場所というコンセプトは正反対の「コンセプト」で運営されている地域密着型の書店がある。
東京のJR三鷹駅の三谷(さんや)通り商店街に、小さなスペースの古本屋がある。従業員はいない。
ガラス張りの出入り口に、天井まである作り付けの本棚に多種多様な本が並び、支払いにはガチャマシンを使う。
本の裏に300円・500円のシールがそれぞれ貼られているので、その金額に応じたカプセルをマシンで購入する。カプセルの中にビニール袋が入っているので、その袋の中に購入した本を入れ、持って帰るというシステムである。
店に入るとセンサーで電気が点く仕組みがあり、出入り口を全てガラス張りにするなどの工夫もされている。
本はどうやって揃えているのかというと、近所の方や周囲の方々が本を寄贈してくれ、店内にも寄贈できる木箱もある。
一つは店員がいない方が地域の人がお店に入りやすいから、もう一つはお店を運営する側にもストレスがないからだ。
古本屋は新刊を取り扱う本屋と違い売れ残った本を返品することができない。
また、お客さんから買い取った本を売ることが多いことから、すべての商品を自分で選ぶことは難しい。
そんな理由もあるからか、古本屋を開業しようと思った時に話を聞いた本屋の店主から 「何も買わずに帰るお客さんがいるとそれがストレスになることもある」と聞いたという。
地域の人の本棚として運営していくには気軽に立ち寄ってもらえる無人の方がストレスもかからず、お客も入りやすく、お互いに良き結果となる。
これは日本に昔からある野菜の無人販売もヒントになっている。
スペースは小さいが、その代わり置いてある本を全て見渡すことができ、普段自分が手に取らない本や、未知の分野の本、こんな本があるのか、と驚くような本を発見することができるという。
お金を払わずに本だけを持ち去る人はおらず、きちんとお金を払って購入してくれている。
ともかく、地域の人の秩序で成り立っているのが素晴らしい。
2018年3月、国際アンデルセン賞の授賞式がアテネであり、「魔女の宅急便」などの作者として知られる角野栄子に、作家賞の賞状とメダルが授与された。
角野は授賞式でのあいさつで、第2次世界大戦中に10歳だったと振り返り、「あの過酷な時期を本によって、どれほど慰められ、生きる勇気を与えられたか」と述べた。
また、5歳で母を亡くし、泣いてばかりいたとき、父がひざの上で昔話を聞かせてくれた体験を基に、「物語は読んだ瞬間から読んだ人一人ひとりの物語になり、その人の言葉の辞書になっていく。その辞書から想像力が生まれ、人の世界を広げ、くらいときも助けてくれる」と語った。
IBBY(国際児童図書評議会)は「角野の描く女性はどんな困難に出会っても、忍び寄る自己不信にとらわれることなく対処法を見つけていく。人々が本の中に求める、今の時代にふさわしい作品」と評した。
独軍包囲下のレニングラード、飢餓に苛さいなまれながら市民はトルストイ「戦争と平和」を読み続け、米軍は戦地の兵士たちに大量の本を供給した。
阪神・淡路大震災下の神戸でも東日本大震災下の東北でも、人々は営業を再開した本屋さんに詰めかけた。
強制収容所でも刑務所でも人は本を読む。
極限状態で人はなぜ本を求めるのか。
おそらく本には著者だけではない作り手や送り手のさまざまな思いが籠もっている。
その意味で、極限状態にあればあるほど、誰かの魂に触れたがるのかもしれない。
それを示す一例が、戦火によって生まれた「秘密図書館」。
内戦が激化するシリアに存在するアサドに政府軍に包囲された町ダラヤで、図書館をゼロから作り上げた若者たちがいる。
打ち続くテロと戦乱のなか図書館の本や貴重な古文書を守り通した人たちの記録はいくつかあるにちがいないが、戦火の町の図書館を包囲下の人々がこぞって利用するというそんな風景を描いた本が「シリアの秘密図書館」(デルフィーユ・ミヌーイ著)である。
政府軍の攻撃によって破壊された町、残骸に埋もれた本を若者たちが回収する。
やがて1万5千冊の本が「レーダーも砲弾も届かない地下の空間」に集められ、ここが包囲された町の公共図書館となる。戦火の「秘密の図書館」は、人間の魂の燈が消えないようにという願いによって存在しているかのようだ。

角野は授賞式でのあいさつで、第2次世界大戦中に10歳だったと振り返り、「あの過酷な時期を本によって、どれほど慰められ、生きる勇気を与えられたか」と述べた。
また、5歳で母を亡くし、泣いてばかりいたとき、父がひざの上で昔話を聞かせてくれた体験を基に、「物語は読んだ瞬間から読んだ人一人ひとりの物語になり、その人の言葉の辞書になっていく。その辞書から想像力が生まれ、人の世界を広げ、くらいときも助けてくれる」と語った。
IBBY(国際児童図書評議会)は「角野の描く女性はどんな困難に出会っても、忍び寄る自己不信にとらわれることなく対処法を見つけていく。人々が本の中に求める、今の時代にふさわしい作品」と評した。
3000冊を超える絵本が、湯河原から運び込まれた。
初出店の1ヶ月後、竹夫さんの元に一本の電話が入った。隣町の湯河原で、こども図書館「こみち文庫」を運営している神保和子さんからだった。
「『こども図書館を引き継いでくれないか』って言われました。とても必死な声でね……」
こみち文庫」を運営してきた神保さんは、元小学校教員。退職後、1995年から27年ものあいだ、毎週土曜日に自宅を図書館として子どもたちに開放してきた。高齢になり後継者を探していたが、3000冊を超える本を引き継げる人がなかなか現れなかったそうだ。
そんなときに真鶴のローカルメディアで道草書店のことを知り、「この人たちなら!」と電話をかけてきたのだった。
「まずは一度見に行ってみようとご自宅に伺いました。実際に集まった本を見て、お話を聞いて、すぐに『やります』ってお伝えしたんです。神保さんにお会いして、これまでの歴史を聞いたら、ここまで続いてきた子どものための営みを途絶えさせるわけにはいかないな、と」
小学校教員だった神保さんだからこその選書のセンスと、27年前から保管されている貴重な本の数々。それらはもちろんのこと、ふたりが残さなければと思ったのはこども図書館の存在そのものだった。
3000冊を超える絵本が、湯河原から運び込まれた。
初出店の1ヶ月後、竹夫さんの元に一本の電話が入った。隣町の湯河原で、こども図書館「こみち文庫」を運営している神保和子さんからだった。
「『こども図書館を引き継いでくれないか』って言われました。とても必死な声でね……」
こみち文庫」を運営してきた神保さんは、元小学校教員。退職後、1995年から27年ものあいだ、毎週土曜日に自宅を図書館として子どもたちに開放してきた。高齢になり後継者を探していたが、3000冊を超える本を引き継げる人がなかなか現れなかったそうだ。
そんなときに真鶴のローカルメディアで道草書店のことを知り、「この人たちなら!」と電話をかけてきたのだった。
「まずは一度見に行ってみようとご自宅に伺いました。実際に集まった本を見て、お話を聞いて、すぐに『やります』ってお伝えしたんです。神保さんにお会いして、これまでの歴史を聞いたら、ここまで続いてきた子どものための営みを途絶えさせるわけにはいかないな、と」
小学校教員だった神保さんだからこその選書のセンスと、27年前から保管されている貴重な本の数々。それらはもちろんのこと、ふたりが残さなければと思ったのはこども図書館の存在そのものだった。
「小さい頃に『こみち文庫』に通った高校生や大学生が読み聞かせボランティアをしたり、地域の高齢者が子どもたちの相手をしたりしていたんです。子どもがただ本を読むだけじゃなく、遊んだり話したり、本を読んでくれる人がいる環境で、まさに“育っていく”場所。学校でも家庭でもない第三の場所として、この循環は続けていきたいって思いましたね」
ところで、櫛田神社のある冷泉町だが、2017年1月の新聞に、「和歌の家」として藤原俊成・定家以来の歌道を守り続けてきた京都・冷泉家(れいぜいけ)に伝わる古文書の写真版複製本「冷泉家時雨亭叢書(しぐれていそうしょ)」全100巻が完結したとあった。
実は、この冷泉家の名前こそがこの地名の由来である。
ではなぜ高貴な家の名が博多町人の集まる地域の地名になったのか、そこには「人魚」にまつわるミステリアスな出来事が起きていた。
1222年、博多の漁師の網に人魚がかかった。それがなんと150メートルもある巨大な人魚だった。
人魚が上がったという報告は京都の朝廷に伝えられ、朝廷は「冷泉中納言」という人物を博多に派遣する。
一方、博多の町は人魚が上がったということで大騒ぎになった。
好奇心旺盛な博多っ子のことだから、早速 食べようとしていた時、冷泉中納言と安倍大富という博士が到着した。
安倍大富がこの人魚について占うと「国家長久の瑞兆なり」つまり、国が末永く続く前兆であると出たため、食べるのはやめて手厚く葬ることに決定した。
古地図には冷泉中納言が宿泊した場所も記されており、しばらくの間ここに滞在したことから、現在の「冷泉町」の名前はこの出来事に由来する。

物ではなく雰囲気を売る。物の購入はネット通販で も可能だが、店の雰囲気や空間を楽しむことはできな い。ネット通販には真似できないことを実践した結果 が、このような業態につながったといえる。 本を買うという行為は、著者を支えることでもあり、書き手や小さな出版社を支えるのも、本屋の役割である。
斬新で深い内容を書く無名な書き手の本に出あった時、売り場の目立つ場所におくことは、とても刺激的なことである。