「シティポップ」ブーム

近年、海外で日本の「シティポップ」がブームになっているという。
日本で1980年代に流行った「ニューミュージック」は、フォークやロックのように何らかのメッセージ、例えば反戦平和、管理社会への反発などはない。
そのなかでも、洋楽の傾向をもった「都会的」で洗練されたムードをもつ音楽を「シティポップ」とよぶようだ。
ジャンルというより雰囲気を指し、フォークソングや歌謡曲と違い、歌よりもサウンド、つまり楽器音が前面に出てくるという特徴がある。
例えば、JR東海の「クリスマスエクスプレス」のCMは、ホームでの恋人の別れのシーンで山下達郎作曲の「クリスマスイブ」のバックミュージックが使われたが、もっとも印象的だったのは楽器による効果音だった。
海外における「シティーポップ」ブームには、二方面の火つけ役がいる。
まずは、韓国インターネット発の音楽ジャンル「フューチャー・ファンク」の代表的なアーティストのNight Tempoである。
「昭和グルーヴ」と銘打ち、Wink、杏里、オメガトライブ、BaBe、斉藤由貴、工藤静香などの名曲の数々を公式リエディットしてきた。
DJ・プロデューサーでもあるNight Tempoがクラブでシティ・ポップをプレイし、アップロードしたことが大きい。
なかでも竹内まりやの「Plastic Love」が紹介されたことが大きく、TikTokによってそのムーブメントが増幅した感がある。
こうした「シティポップ」以前にも、韓国において日本の歌謡曲がブームになったことがある。
1960年代、韓国で石田あゆみの「ブルーライトヨコハマ」が、幾重にも設けられた大衆文化流入禁止の高い壁を越えて、ソウルの新村大学街に大流行していたことがある。
「ブルーライト・ヨコハマ」は歌詞からすればシティ・ポップといってもよさそうだ。
またアメリカ発であるが、2011年には「由紀さおり」の歌声が海外でムーブメントをおこしたことも記憶に新しい。
いずれも昭和歌謡のヒットであるが、日本の昭和歌謡を愛し、多数カバーしたのが台湾出身の「一青窈(ひととよう)」である。
その「昭和歌謡カバーアルバム」には、「喝采」「 他人の関係」「 終着駅」「 逢いたくて」「 天使の誘惑」など懐かしの曲が収められている。
2017年に竹内まりや「Plastic Love」のブームが巻き起こった時には楽曲がサブスク配信されておらず非公式の音源が海外ユーザーに多く聴かれていた。
この「Plastic Love」がそれほどのブームになったのは、レッド・ツェッペリンの楽曲「移民の歌」(1970年)とのドラムパートにおける相似点が指摘されている。
「移民の歌」と「シティ・ポップ」とはおよそかけ離れた歌詞であるが。
1970年代半ばFM放送で実によくかかっていたのが山下達郎であり、山下達郎の夫人となる当時慶応の学生であった竹内まりやの曲も流れていた。
竹内まりやは、島根県の元大社町長で出雲大社近くの老舗温泉旅館「竹野屋」主人・竹内繁蔵の娘であるが、世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられた。
島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州の高校に1年間留学が、「日米の音楽が融合した」ニューミュージックへと導かれる契機となった。
竹内は、長く専業主として山下の陰にあったが、活動を再会するや山下流のアレンジをうけ水を得た魚のごとく活動している。
ところで山下達郎は、東京都豊島区生まれで、割烹料理店を経営していた両親の下に生まれ一人っ子として育った。
一家は、達郎が生まれたので水商売はやめようとの母の希望で菓子屋に転業し、練馬区平和台に転居した。
当時は浴びるようにラジオで洋楽を聞き、音楽に目覚めた。
高校時代には後に松井証券社長となる松井道夫や、現在ラジオでアーティストとして活躍している金子辰也らと交友を持ったという。
ところで「Plastic Love」と並んで「シティ・ポップ」ブームの発端となったのが、松原みきの「真夜中のドア〜Stay With Me」である。
この時はすでにサブスクで配信中のことで、レコード会社側もリバイバルヒットを後押した。
松原みきは1959年大坂岸和田生まれの堺市育ちのシンガーソングライター。1979年発売のデビュー曲「真夜中のドア〜Stay With Me」はオリコン最高28位ながらも、レコード30万枚のセールスを記録するヒットとなった。
1975年に大坂の高校へ進学し、京都市のライブハウス磔磔で活動していた。
歌手デビューのため単身で上京して東京の高校に転入し、米軍キャンプなど各地で演奏し、六本木のジャズスポット「バードランド」で飛び入り演奏してプロをうならせた。
1979年最初のシングル盤「真夜中のドア〜Stay With Me」でデビューする。
その後、作曲を中心に様々な音楽活動を続けるが、2001年にがんを告知され、2004年10月子宮がんのため44歳の若さで亡くなっている。
松原の死から10数年後、海外において日本のシティ・ポップ人気が高まる中で、2020年10月末にインドネシアの人気ユーチューバーのRainychがカバー曲を発表する。
Rainychの甘くキュートな歌声が大きな反響を巻き起こし、再生回数は220万回を超える人気動画に。
インドネシア、タイ、マレーシアなど東南アジアから英語圏に話題が広がり、これを追い風に松原みきのオリジナル版が世界的ヒットになった。
イスラム教の装いをした彼女の歌声は、竹内まりやが歌う「Plastic Love」とは、一味ちがう魅力を醸し出している。
2020年12月にサブスク配信開始となったタイミングもあり、「真夜中のドア~Stay With Me」がデジタル音楽配信サービスSpotifyのグローバルバイラルチャート18日連続世界1位を記録した。
またApple MusicのJ-POPランキングでは12か国で1位を獲得するヒットとなり、同作のレコード盤がポニーキャニオンから復刻されることとなった。
竹内まりや「Plastic Love」、松原みき「真夜中のドア」は、発売当時日本で大ヒットした曲というわけではなく、それだけに海外で見出された感じがある。

世界的にみて若い芸術家が多く住む街といえば、パリのモンマルトルがあげられる。
モンマルトルの坂には、「洗濯船」とよばれるピカソやモジリアーニが共同生活を営んだアパートがある。
またニューヨークの五番街の南端に位置する「グリニッジ・ビレッジ」は、ワシントン・スクエア公園、ジャズで有名なヴィレッジ・ヴァンガードなどがあり、若者の夢をはぐくんだ町である。
日本でこれらに匹敵する町として思い浮かぶのは東京都福生(ふっさ)ある。
米軍横田基地周辺には米軍払い下げのハウスがあり、画家、小説家、音楽家など若きアーティストが夢をハグして住んでいた。
大滝詠一、桑田圭介、忌野清志郎、フィンガーファイブ、福山雅治、そして村上龍や山田詠美ら。
村上龍が小説「限りなく透明に近いブルー」で描かれた街は、この福生であった。
そこは、安く住める払い下げ住宅街があったばかりではなく、フェンス越しにアメリカがあったのがポイントであるように思う。
多くのミュージシャンが成功するとこの街をでたが、2015年亡くなったミュージシャン・大滝詠一は終生・福生の住人であった。
さて、シティ・ポップの源流と一般に挙げられるのは、軽快なロックサウンドに日本語歌詞を乗せた先駆的バンドの「はっぴいえんど」である。
メンバーは、大滝詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆で、各自解散後の活動も目覚ましいものがある。
アルバム「風街ろまん」は、洗練された日本語が織りなす世界観と卓越した曲構成と演奏は正にこの時、この4人”でしか生み出せなかったであろう奇跡の録音とも評価されている。
シティ・ポップが成立した背景には、日本人の生活水準の向上と、円高による海外の文物の流入、いわば東京の国際都市化という社会的変化を抜きに語ることはできない。
バブル期の消費礼賛の時代、CMとのタイアップから多くのシティ・ポップのヒット曲が生まれた。都会的で洗練されたシティ・ポップは企業CMとの相性が非常に良かったからだ。
また、テレビの歌番組出演に積極的でなかったシティ・ポップ・アーティストにとってもCMタイアップは貴重なプロモーションの機会となった。
個人的には、ラッツ&スターの「め組の人」や南佳孝の「スローなブギにしてくれ」などが記憶に残る。
当時、ウォークマンやラジカセ、カーオーディオで外へ持ち出して聴くというリスニング・スタイルが若者の間にも普及していった。
そうした「外で聴くBGM」として、聞き心地のよいシティ・ポップはうってつけであった。
特に大瀧詠一の『A LONG VACATION』(1981年)と山下達郎の『FOR YOU』(1982年)はカーオーディオ占拠率で双璧を成したという。
「A LONG VACATION」のアルバムジャケットを飾ったのは、イラストレーターの永井博による「夏のプールサイド」をイメージしたもの。
永井を代表に一握りのアーチスト達によって真夏のビーチや海沿いのハイウェイ、スイミングプールなどのイメージを通して、1980年代初頭と支配的となった独自のスタイルを生み出している。
彼らのイラストは、山下達郎、大瀧詠一といったシティ・ポップミュージシャンのアルバム・ジャケットに用いられた。
そうした視覚表現と相俟って「A LONG VACATION」は、シティ・ポップの金字塔という位置づけがなされている。
「アーバン(都会的)」で「メロウ(落ち着いた)」なサウンドとともに、ドライブや、きらめく夜のビル街、真夏の海なんて風景を想起させる。
特にユーミンこと松任谷由実のの曲は、車と共にある町の風景描写が具体的で「場所探し」をするのが面白い。
例えば、「中央フリーウエイ」(1976)の中に、「右に競馬場、左にビール工場」という歌詞があった。
20年ほど前に松本に旅した時に、中央高速道をバスに揺られながら、近くにさしかかった時、背伸びして確認するとまぎれもなく「右手の東京競馬場」「左手にはサントリー武蔵野ビール工場」でひとり感激したことがある。
1980年代前半においてシティ・ポップは、山本達彦、稲垣潤一、杉山清貴といった男性シンガーによる都会派楽曲というイメージで隆盛期をむかえた。
2000年代に入ってインターネット環境が普及し、ストリーミングや動画配信サイト (YouTube) で音楽を聴くという新しいリスニング・スタイルが生まれ、誰もがどこからでも手軽に様々な音楽へアクセスできる環境が整った。
海外では「AOR」という言葉があった。アダルト・オリエンテッド・ロックの略称で、「大人向けのロック」を意味する。
ジャズやボサノバ、ソウルから、ウエストコースト・ロックやレゲエまでが含まれる。
日本国内の閉じたムーブメントに過ぎなかった日本のシティ・ポップを、AORを再評価していた米国の音楽マニアたちがネットで「発見」するに至った。
海外では日本語を理解するものは少なく、海外の音楽マニアではない一般人は依然としてシティ・ポップの存在に気付くことはなかった。
彼らにとってシティ・ポップは「AORの秘境」であり、日本に閉じた流通や言語の壁もあり、それまで存在が知られていなかった分インパクトも大きかった。
その点で、突然におこった由紀さおりブームは特異な現象であった。
それは「アルバム・ジャケット」の偶然の発見がきっかけとなったのである。
アメリカのジャズ・オーケストラ「ピンク・マルティーニ」のリーダーであるトーマス・ローダーデイルが地元の中古レコード店で、1969年に日本でリリースされたLP「1969」を見つけ、その「透明感」ある歌声にひかれたことだった。
何しろ1971年生まれのローダーデイルが1969年リリースの日本の歌謡曲を手に取ったこと自体がほとんどありえないことである。
ローダーデイルによると、見つけた理由はただジャケットの「ヴィジュアル」に魅了されたからだという。
だからといって、そのレコードを聴いてみようなどどとは思わないのだが、そこが「神様のいたずら」という外はない。
そし2009年の6月ローダーディールがユーチューブで“Taya Tan”を発見し、自身3枚目のアルバムで由紀の「タ・ヤ・タン」をカヴァーする。
こうして1969年にリリースされてから一度もCD化されることのなかった山上路夫作詞・いずみたく作曲の「タ・ヤ・タン」が、アメリカのジャズ・シーンに登場することとなった。
ちなみに「ピンク・マルティーニ」は、1940年代から60年代にかけて世界中で流行したジャズ、映画音楽、ミュージカルのナンバーなどを主なレパートリーとする、ヴォーカリストを加えた「12人編成」のオーケストラ・グループである。
アメリカ、ヨーロッパ、アジアとツアーを展開しながら、ゴージャスな音楽体験を人々に提供し、“まるで映画を見ているような”エンタテーンメントを体感させてくれるたぐい稀なグループである。
2011年9月17日に英ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行われた「ピンク・マルティーニ」のコンサートに由紀さおりが招かれ、そこで披露した歌声が、スタンデイング・オベーションで絶賛された。
「1969」は世界22カ国でリリースされ、2011年11月2日付の全米iTunesジャズ・チャートNo.1に輝いたほか、カナダをはじめ世界各国で、チャートインを果たした。
このアルバムは、ピンク・マルティーニと組んでレコーディングしたものである。
由紀が「夜明けのスキャット」でデビューした1969年にヒットした国内外の楽曲を集めた内容で、しかもフランス語で歌われた1曲をのぞき、すべてが日本語の歌詞で歌われての、この快挙である。
今までに幾人かのシンガーが英語で挑戦した世界進出を、由紀が日本語で成し遂げたのだから、日本の音楽業界が大騒ぎになったのも無理はなかった。
「由紀さおり」が海外で発見された2011年には、「シティポップ」は欧米圏のみならずアジア圏でも評価されるようになって音楽マニアの間で多数のファンを獲得するようになっていた。
由紀さおりのアルバムのタイトル「1969」は、そのまま年代を表すので、日本でシティポップが登場する前夜にあたる。
実際、「夜明けのスキャット」は、シティポップに入れてもいいくらいの雰囲気である。
、 2010年代以降、高解像度の音源(ハイレゾ)が普及した。音がぼやけずくっきり聴こえるハイレゾは、音質のクリアさにおいては最高かもしれない。
しかし、一方であまりにもクリアな音は情報量が多く、脳に「聴こえすぎるストレス」を与え、いわゆる「デジタル疲れ」である。
とくに新型コロナによるパンデミックが拡大してからは、聴こえすぎる音より、適度にノイズのある音を求める動きがあらわれた。
音を加工したり、高温多湿な環境で録音された日本のシティ・ポップは、当時の欧米のポップスよりローファイ度が高い。
そうした時代のニーズが「シティポップ」ブームの後押しとなった。