人生を決めた「出演の条件」

「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一が死去した。享年71。
東京都出身。東京芸大卒。大学院在学中にスタジオミュージシャンとして活動を始め、1978年、細野晴臣、高橋幸宏と3人組バンド「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)を結成。シンセサイザーとコンピューターを駆使した「テクノポップ」で世界的に大成功を収めた。
映画音楽でも知られ、「戦場のメリークリスマス」で英国アカデミー賞作曲賞を受賞。87年の映画「ラストエンペラー」では日本人初の米国アカデミー賞作曲賞を受賞している。
1992年にバルセロナ五輪開会式の作曲者でもある。
俳優としては、「ラストエンペラー」に、満州国皇帝・溥儀を操る日本軍の黒幕アマカス役を演じ、その異様な存在感は印象的だった。
個人的には、関東大震災の折、我が地元・福岡県糸島出身の伊藤野枝と大杉栄夫妻の殺害に関わった甘粕大尉と、「ラストエンペラー」のアマカスが同一人物であることを知って、俄然歴史に興味が湧いたことが、我が「坂本龍一体験」である。
それにしても、ミュージシャンの坂本龍一はどうして「ラストエンペラー」に出演したのであろうか。
1993年、坂本龍一がデビットボウイと共演した「戦場のクリスマス」で、大島渚監督からは俳優としてのオファーを受けたが、「音楽を任せてもらえるなら出演します」と条件を付け、快諾を得たという。
坂本は、映画音楽を初めて手掛けたのが「戦場のメリークリスマス」となった。
この映画でサカモトは、サカモトはボウイよりも美しいなどとヴィジュアルでも高い評価を受けたことが記憶に残っている。
フランスカンヌで“戦場のメリークリスマス”がお披露目されイタリアの巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督に請われ出演したのが、「ラストエンペラー」である。
撮影半年後に音楽の依頼を受け、2週間ほどで45曲を書き上げたという。
映画音楽でアカデミー賞を受賞したにも関わらず、「本来向いていない。大げさな仕掛けで聴き手の感情を高揚させる音楽は苦手」と発言したことがあったが、今も色あせることなく人々の記憶に残り続ける。

三浦半島西部に位置する神奈川県葉山町は、人口3万人程の小さな町。
皇室の「葉山御用邸」で知られるこの町は、夏は海水浴客で賑わい、海岸道路は常に渋滞する。
国内指折りのセーリング・スポットで、石原裕次郎・北原三枝の主演の映画「狂った果実」(1956年)の舞台としてもよく知られている。
数年前、海岸近くの森戸神社に「石原裕次郎記念碑」があると聞いて行ってみた。
そしてこの「記念碑」から海岸を見渡した時、「狂った果実」のモノクロームの映像がカラーで眼前に拡がるのを見て、少々感動を覚えた。
磯辺より沖合に浮かぶ小さな島があり、そこに映画のハイライト場面となった「灯台」が建っていた。
その兄弟こそは、あの映画「狂った果実」の若者達に描かれたように、10代の頃には石原裕次郎と遊んでいた地元のお金持ちの子供であった。
さて、三浦半島の西岸の葉山の料亭「日蔭茶屋」は、サザンオールスターズの「鎌倉物語」(1985年)の歌詞に登場する。
大正時代、憲兵甘粕大尉に殺害された大杉栄がこの「日蔭茶屋」で、三角関係のもつれで新聞記者の神部市子に刺されたれた事件が新聞を賑わせたこともあった、そんな古い歴史をもつ料亭である。
さて、「狂った果実」に描かれたような若者群像の一人が湘南の老舗スーパーマーケットを営む家に生まれた鈴木陸三である。
若い時に俳優の石原裕次郎とヨットレースなどに興じる仲であった。
鈴木が高校生1年生の16歳の頃、石原裕次郎が25歳、石原慎太郎が27歳ということになる。
鈴木家は、創業100年のスーパー「スズキヤ」を営む地元の名士で、陸三はその鈴木家の三男である。
その兄(次男)の雄二は、前述の「日蔭茶屋」に養子に入った角田雄二である。
学生時代は湘南ボーイとして地元では知られた存在だったが、前述の日蔭茶屋のオーナーの娘と結婚し、婿養子に入った。
角田がアメリカ西海岸のベニスビーチでレストランを経営していた頃、1ブロック先にオープンしたコーヒーショップに興味を持ち、立ち寄ってみたのである。
その洗練された店舗デザインや、バリスタたちのフレンドリーな接客である。
角田が、このコーヒーショップ「スターバックス」と、自分たちサザビーが組めば、最高のチームになると直感した。
そして、すぐに弟の鈴木隆三に連絡を取り、ロスに呼び寄せた。
そして、米スターバックス会長のハワード・シュルツに「日本で経営したい」と手紙で訴え、1996年、日本1号店をオープンさせたのである。
角田雄二CEOの下、1996年8月2日東京・銀座の松屋通りに「スターバックス」の日本1号店がオープンした。
さて2023年2月1日、激動の時代に縦横無尽の活躍を見せた石原慎太郎が死去した。享年89。
名優・石原裕次郎の兄にして芥川賞作家、戦後を代表するタカ派政治家で東京都知事も務めた。
石原は1955年に「太陽の季節」を発表して文壇の寵児となり、翌年芥川賞を受賞した。
この1956年は、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた年であり、戦後の混乱と屈辱の日々が終わりを告げて、転換期が訪れようとしていた。
「太陽の季節」は、古い世代の人間から顰蹙を買う一方、多くの人々が共感をえた。
つまり「太陽の季節」に描かれた若者の姿は、戦争世代とは切り離された新たな世代の登場をシンボライズしたものであった。
「太陽の季節」が映画化されるときに、日活のスタッフが湘南海岸にロケーションにやってきた。
多摩川の上流に日活村からヨット発祥の地を訪れたところで、かなり勝手が違った。
そこでプロデューサーの水の江滝子が私を質問攻めにしてきた。
さすがに面倒臭くなった慎太郎は、若者風俗の専門家である弟を紹介した。
そういうわけで、裕次郎はもともと原作に登場する風俗やヨットシーンの指導のためにバイト代3万円で雇われ、兄に代わってアドバイスするスタッフとして関わり、役者の数が足りなくなったため急遽出演することになったという。
そんな偶然によって弟は、銀幕の世界へと足を踏み入れた。
次の作品の「狂った果実」の脚本と原作は石原慎太郎原で、執筆は葉山町にある旅館の離れで行い、原稿用紙100枚の小説を「たったの8時間」ほどで仕上げた即席短編小説である。
慎太郎の描いた「狂った果実」の若者群像には、湘南で無軌道で虚無的な生活をおくる弟・裕次郎のイメージがあった。
この小説は執筆の段階で、「映画化」の話があり、兄慎太郎は弟・裕次郎を「主役」にする条件で、映画化を受け入れた。
兄がスポーツマンで女性にもてて、弟が内向的で女性にもてない文学青年というのは、実際の石原兄弟を「逆転」させた設定である。
当初、日活側は裕次郎を弟の春次役に起用し、兄の夏久には三國連太郎を起用しようとしたが、「役回りが年齢的に自分に合わない」という理由で三國が辞退したため、慎太郎はある結婚式でたまたま見かけた1人の少年のことを思い出した。
それが津川雅彦であり、最後には「彼でなければ駄目だ」という慎太郎の強力な推薦により春次役での出演が決定、裕次郎は夏久役(主役)にまわった。

漫画「あしたのジョー」に登場する矢吹丈(やぶき)には「斎藤清作」という実在のボクサーにインスピレーションを得たことはあまり知られていない。
仙台市内の農家に八人兄弟の次男として生まれた斉藤は、少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失った。
すぐに病院に行き治療すれば失明はしなかったが、少年時代は裕福な家庭ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っている。
仙台育英学園高等学校在学中ボクシング部に入部、2年生時には宮城県大会で優勝している。
その後上京し、様々な職を転々とした後、ボクサーを目指し多くのチャンピオンを育てた「笹崎ボクシングジム」に入門する。
左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格しなんとかプロボクサーとしてデビューした。
同期には後の世界チャンピオンのファイティング原田がいた。
1962年、第13代日本フライ級チャンピオンとなった。ノーガードで相手に打たせて相手が疲れたところでラッシュをかける戦術が、漫画「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈のモデルになったともいわれている。
そんな斉藤も、受けた頭部へのダメージにより、「パンチドランカー」となって引退する。
斉藤は、引退後に同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。
芸名を「たこ八郎」とした。
パンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪くおねしょも度々あったため、本人がそれを気にし家を出て友人宅を泊まり歩いた。
受け入れた友人たちは、かえって斉藤の素朴で温厚な人柄に触れ、「迷惑かけてありがとう」と、邪険に扱うことはなかった。
また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったというほど、誰からも好かれる芸人であった。
人気絶頂期の1985年7月24日、神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒにより死亡した。
個人的には、スポーツ紙に「たこ、海で溺死」と掲載されたのが記憶に残っている。
さて、シルベスタースタローン主演の映画「ロッキー」も、「明日のジョー」と同じように、一人のボクサーの姿にインスピレーションを得て出来た。
それは、世界チャンピオンのムハマド・アリと世界ヘビー級タイトルマッチで戦ったウェップナーというボクサーの姿であった。 チャック・ウェプナーは試合前は酷評されていた。というのも、当時、ムハメド・アリが世界最強と言われるボクサーだったのに対し、チャック・ウェプナー、35歳の無名の全く勝ち目のない格下のボクサーであった。
、 ウェプナーは、ニューヨークのスラム街で育ち、少年院・刑務所と服役して、服役中にボクシングを覚え、27歳で出所後にプロデビューする。
ただ、ボクサーだけでは生活していけなかったため、昼は酒屋の配達、夜は警備員の仕事をされていた。
世間では、試合前から、「ファイトマネーの10万ドルにつられた人間サンドバッグ」とか「モハメド・アリがどれほど手を抜いても3ラウンド持たない」 などと言われ、試合でも、案の定、ウェプナーは、ムハメド・アリにボコボコにされてしまう。
しかし第9ラウンドでは、ウェプナーの繰り出したパンチがアリの脇腹を直撃してアリからダウンを奪うなどして、アリも本気ならざるをえなくなった。
ウェブナーが予想外の善戦に試合は最終の第15ラウンドにもちこまれ、ウエブナーは残り19秒でダウンするも、カウント9でギリギリ起き上がるファイティングスピリッツを見せると、レフリーストップ(ドクターストップ)のため、アリの判定勝ちとなった。
その時、観客全員が総立ちとなり、敗者であるウェプナーにいつまでも拍手を送り続けた。
対戦後、アリはウエブナーについて「二度と対戦したくない」と言わしめた。
そんなウエブナーの姿に心を動かされたシルヴェスター・スタローンは、1946年7月6日、ニューヨークで生まれた。
出産の際、医師による鉗子の操作ミスにより、彼の顔面の神経が切断されてしまい、口びるや舌、あごに部分的なマヒが残った。
そのため下唇が垂れ下がって、言葉に不明瞭なところがある。
こうしたことが原因で、シルヴェスター・スタローンは子どもの頃いじめを受け、内向的な子供になる。
また、両親は不仲で離婚し、スタローンにとて10代の青春は、重苦しいつらいものであった。
15歳の時、スタローンはフィラデルフィアに引っ越し、高校でフェンシングやフットボール、陸上競技の円盤投げに打ち込んでスポーツに才能を見出す。
高校卒業後、スイスにあるアメリカン・カレッジの奨学金を受けることになり、そこで、陸上のコーチを引き受けて指導する日々を送っていた。
その間に演劇も勉強し、大学で製作されている演劇、「セールスマン、アーサー・ミラーの死」で主役を演じたりしたことから俳優への道を進んでいく。
スタローンはアメリカに帰国して、マイアミ大学で演劇の勉強を始め途中中退し、1969彼の俳優になるという夢をかなえるべく、ニューヨークへと旅立った。
ニューヨークでスタローンはあらゆるオーディションを受けてまわるが、時たま舞台の仕事がもらえるだけであった。
そこで生きていくために、動物園のライオン小屋の掃除をしたり、映画館の案内役をしたりアダルト映画に出演したこともあった。
1971年、スターロンは「ゴッド・ファーザー」の出演を断られてしまいひどく落胆するが、映画の脚本を書くことに光明を見出し、その中のいくつが製作されたという。
1974年には結婚し、彼が脚本を手がけた映画「ブルックリンの青春」に出演する。
この時の演技が、数人の評論家に認められ、わずかばかりの成功を勝ち取り、今度はハリウッドへ向った。
そして29歳の時に、世界タイトルマッチ「ムハマドアリとチャック・ウエブナー」の対戦を観戦して、そこからヒントを得、自宅に戻り、ものすごい勢いで映画の脚本を書いた。
わずか3日で完成した脚本、それが「ロッキー」の脚本である。
スタローンは、この脚本を持ちんで、様々なスタジオで売り込んだ。
この脚本に興味を持ったプロデューサーは、高額の脚本料(買取額は今の日本円で7500万円)普通なら簡単にオーケーしてしまいそうな高額提示したが、スタローンは「自分を主役にしないならこの脚本は売れない」と、この契約を断った。
映画会社は、この作品を「ロバートレッドフォード」を主役にして製作しようと考えていたようだ。
結局、制作会社側が低予算で制作することでおれ、スタローンが主役の映画として制作された。
この時、スタローンの妻はこの時妊娠しており、「ロッキー」のワンシーンでも観客がいないスケートリンクで、二人手を携えて滑るシーンがあった。
また、トレーニングに出る前にロッキーがオレンジを受け取るシーンがあったが、これはアドリブ。
店員がたまたま放り投げたオレンジをうまくスタローンが受け止めることができてそれを採用したとのこと。
試合のシーンの観客も高齢者が多く、3列目以降が暗がりになってよくみえない。
つまり3列目以降は人が座っていないのだ。
エキストラを多くは雇えず、プロデューサーが老人ホームに招待状を出して面白いアトラクションがあるから見に来ないかと、ホットドックなどにつられて集まった人々なのだという。
1976年映画「ロッキー」が公開されるや、世界的な大ヒットを飛ばし同年のアカデミー賞で、主演男優賞や脚本賞を含むたくさんの部門でノミネートされ、「ロッキー」は、作品賞や監督賞を受賞した。