戦争と祭儀と毒物

ペルーの人気観光地「マチュピチュ」の玄関口となる街「クスコ」は標高3399メートルに位置する。
富士山山頂近くにに都市があるということだ。
標高が高いところで発症するが高山病。高山病によくきく「コカ茶」は、紅茶のように美味しいらしい。
「コカ」は、アンデス高地で栽培される植物で麻酔作用があり、インカ帝国では祭祀などで用いられた。
インディオは、コカの葉を固めたものを噛むことによって、疲労を回復させたり、気力を持ち直すために用いていた。
帝国内の道路網でチャスキ(飛脚)も途中、コカの葉を噛んで走力を回復したという。
しかし、コカの葉の使用はチャスキが使用する以外は、宗教的儀式と医療目的以外で一般に使用することは禁止されていた。
しかしスペイン人が進出し、1533年にインカ帝国が滅亡すると、スペイン人支配者はコカの特性に着目。入植者はインディオに対する強制労働を過酷な条件のもとで実施した。
その際、彼らがコカに救いを求めることを知り、コカを栽培してインディオに売りつけ、暴利を貪るようになったのである。
1920年代にはポトシ銀山など銀の生産は50%に伸びたが、その一方で先住民の鉱夫が推定で50万人が死亡している。
1855年にはコカからアルカロイドが分離され、3年後には「コカイン」と名付けられ、麻酔薬や鎮痛剤として用いられるようになった。
1886年、アトランタの薬剤師ジョン=ペンバートンはコカの葉を赤ワインに6ヶ月浸して売り出し、爆発的に売れた。
アトランタはアルコール禁止州だったのでノンアルコール飲料を模索していた頃、アフリカ原産の「コーラナッツ」が知られるようになり、ペンバートンはコカの木の葉のエキスと「コーラナッツ」から抽出したカフェインを含むノンアルコール飲料を作り、「コカ・コーラ」を売り出した。
しかしペンバートンには商才はなかったらしく、そのレシピはまもなくエイサ=チャンドラーという実業家に売却され、チャンドラーの手で世界で最も有名なブランドとなり、世界最大の飲料メーカーに成長したのである。

千葉県房総半島の東京湾寄りの市・館山(たてやま)は、戦国期の「里見八犬伝」の舞台である。
記紀によれば、縄文時代の終わりごろ天皇家の親戚「忌部」(いんべ)氏が現在の徳島県(阿波)から海を渡って館山に辿り着いたと記されている。
そういうわけで、「阿波」(徳島)と「安房」(南房総)の地名のよみ「あわ」が共通しているのだ。
そして館山周辺の多くの神社には、安房神社、洲崎神社、下立松原神社など忌部氏の神々が祀られている。
NHK「ファミリーストーリー」によれば、テリー伊藤の母方の祖先は、こうした神社の禰宜(ねぎ)に連なるという。
この忌部氏が流れ着いた地点が館山市の「布良(めら)海岸」で、この風景こそ青木繁が「海の幸」という名画を描いた場所なのだ。
当時の青木繁が作品のテーマとしたのが「神話」であり、作品「海の幸」は古事記の物語「海幸彦、山幸彦」をモチーフとして描こうとしたものであった。
この「忌部族」は、古代朝廷にて祀りごとを司った渡来系集団といわれている。
忌部の「忌」は仏教などの影響で不吉な言葉のように言われているが、森羅万象に対して畏敬の念を表わす、むしろ「敬意」の込められた言葉であったという。
そして忌部氏の最も注目すべき点は、独自の「麻(あさ)」文化を持っていたことである。
神事の占いや祭祀から、衣服や紐などの日常生活に至るまで、「大麻」(おおあさ)は彼らの生活には欠かせないものであった。
記紀によれば、忌部氏はまず麻がよく育つ阿波(徳島)に住み着くようになり、さらに「麻」が良く育つ土地を求め、黒潮に乗って旅を続け、その際に、上陸したのが房総の布良海岸だった。
「布良」という言葉にも麻との関連が推測されるが、房総の「総」は「麻」の古語なので、房総とは「麻の房(ふさ)」とかいう意味になる。
神道では「清浄」を重視しており、大麻は穢れを拭い去る力を持つ繊維とされ、拝する者の頭上や特定の場所などにかけられる。
また穢れを祓う大麻(おおぬさ)や御幣(ごへい)であったり、聖域を囲む結界のための麻紐であったり、注連縄や神殿に吊るしてある「鈴の縄」として、現在も使用されている。
1948年にアメリカの占領政策によって「大麻取締法」が制定されるまでは、日本では大麻の成分を抽出した薬が漢方薬として市販されていた。
それにしても忌部氏は、大麻を求めてわざわざ黒潮に乗って東国にいく必要があったのだろうか。
なにしろ麻の取れる処は、もっと近くにあったはずだからだ。
この謎に挑んだ山口博聖徳大学教授によると、房総地域の麻の成分が徳島産よりも高い「幻覚成分」を含んでいるからではないかという。
つまり、忌部氏の仕事は弦楽器を奏で、夢幻の中に神の声を聞き、「託宣」として語った「シャーマン的」な神がかり的なものであった。
そのために、様々な儀式を行う際に、より効果の高いものを求めたのではないかという説をだしている。

インドで釈迦が8年間、菩提樹の下で冥想し「悟り」を開いたといわれる。その直前、釈迦にひとりの女性が乳がゆを提供してくれて体力が回復したという。
その女性の名は、「スジャータ」。今日、日本の栄養食のブランド名となっている。
この話を幾分思い起こさせるのが、「カルピス」誕生のものがたりである。
「カルピス」という誰もが知るカルピスをつくった人物こそが三島海雲(みしま かいうん)である。
三島海雲(みうらかいうん)は、明治維新から10年め、大阪の貧しい寺に生まれた。
西本願寺教団が新時代に即して積極的に国内の教育と大陸への布教を推進し、布教を名目とする北京の日本語教師となる。
日清戦争直後から清朝崩壊までの激動の時代であり、人間の経済活動は国策の影響下にあった。
三島は、雑貨商に転じ、軍馬購入の途を開くため、1908年に北京から内モンゴルまで旅をする。
そして三島は、モンゴルの草原で偶然、遊牧民の常食である「乳製品」に遭遇したことで、運命が変わる。
三島は、医師からは長くは生きられないと宣告されるほど、病弱な少年だった。
大人になっても不眠や頭痛に悩まされた。そんな三島は、元朝時代、ユーラシア全土を支配下に治めたモンゴル遊牧民のたくましさに憧れていたのである。
三島が訪れたモンゴルの食卓には、遊牧民のソウルフードと言える乳製品が並んでいた。
牛乳が発酵すると表面に厚い膜がはる。その膜を掬い取って作る乳製品である。その1つが絞りたての牛乳から作った「ジョウヒ」と呼ばれる乳製品であった。
その「ジョウヒ」を口に入れた瞬間、三島はこれが、モンゴル人の活力の源だったと直感した。
乳製品を食べ続けた三島は、不眠と頭痛が治り、体調がよくなったと実感する。
そして、この未知なる味をいつか日本人にも味わってもらいたいと考えるようになる。
さて、清朝崩壊の影響で事業継続が困難になった三島が帰国したのは1915年、無一文になった三島は、モンゴル乳製品の商品化に取りかかる。
三島がカルピスに託したのが、国民の健康と幸せであるが、もともと僧侶である三島の強い思いは、ほとんど「祈り」といってもよい。
その原点は、自身の闘病経験だけではない。帰国後、三島は2人の娘を若くして亡くしている。その無念の体験が、健康と幸せへの思いをより強くした。
そうした三島の思いとは裏腹に、「カルピス」には暗い記憶がある。
昭和前期には軍需物資あるいは統制物資となり、1939年には「満洲カルピス製造株式会社」が設立される。
満洲カルピスの代表となったのは、三島の長男・克謄で、大陸において終戦をむかえる。
満州国の影の実力者である甘粕正彦は、青酸カリを飲んで自決する。
その死をまじかで見届けたのが、甘粕の側近の赤川孝一で、作家・赤川次郎の父親。満洲映画協会から、戦後東映プロデューサーとなった人物である。
この頃、奉天の三島家にはカルピスを求める人が次々とやってきた。せめてもの懐かしい味に青酸カリを投じ、自決するためだった。
時代は下り日本が高度経済成長を迎えた1963年、日露戦争勝利の海軍記念日にカルピスの広告を出そうとする三島の計画を息子はつぶしている。
三島にとって日露戦は感激の記憶だったが、満洲カルピスの社長として奉天で終戦を迎えた克騰は、青酸カリと一緒に飲むから、と求める人びとにカルピスを渡した苦い記憶があった。
共にカルピスを愛しながらも、父子が見てきた「景色の違い」が父子の距離を生んだのである。
ちなみに、三島は当初カルピスではなく「カルピル」という名で売りだそうと考えていた。
「カルピル」のカルはカルシウムの「カル」、「ピル」は仏教の言葉で最高の教えを意味するサルピルマンダ。しかしカルピルではどうにも歯切れが悪い。そこで、カルピスはどうかと思い立つ。
意見を求めたのが、「あかとんぼ」の作曲家の山田耕筰だった。「カルピスは響きがいい。音声学的に見てもいいですよ」とのお墨付きを与えている。

北九州出身の推理作家・松本清張は 家が貧しく尋常小学校をでた後、印刷所などを転々としながら生きてきた。その後佐賀の女性と結婚して地元・小倉に移転してきた大手新聞社の支社に就職する。
清張は そこの広告部の意匠係となったものの、大学卒のエリート記者たちに厳しい学歴差別を受ける。
4人の子どもが生まれ更に 両親を養わなければならない苦しい生活の中、なんとかそこから脱しようと懸賞小説を書き、1953年に「或る小倉日記伝」で芥川賞を受賞し、作家生活にはいる。
1960年の51歳の時に「日本の黒い霧」を発表し、戦後日本の闇とされていた事件にせまり、55歳の時には 「昭和史発掘」の執筆を開始し、戦前に起こった事件の新事実を次々と発掘していく。
さらには古墳時代の遺跡を回り、57歳で連載を始めた のが「古代史疑」である。69歳で飛鳥文化の起源をペルシアに求めイランにまで調査の足を延ばすが、こんな経歴の清張だからこそ生まれた小説が「微笑の儀式」である。
中国や日本の仏像に、口元だけ微笑んでいるような「アルカイック・スマイル」がみられる。
日本史の教科書では「古拙(こせつ)の笑み」と訳されているが、特に中宮寺の菩薩半跏像や、広隆寺の弥勒菩薩半跏像の表情は人々を魅了する。
なぜか、それは口元の微笑ばかりではなく、その目元にも秘密がある。その目元を教科書では「杏仁形(きょうにんぎょう)の目」と説明されている。
つまり、アーモンドのカタチをした目(アーモンドアイ)のことである。
さて、テレビドラマでみた「微笑の儀式」のストーリーは次のとうりである。
大学で法医学を研究していた鳥沢良一郎は、夏の初め、奈良・法隆寺内の飛鳥仏を鑑賞中、ひとりの男に声をかけられる。
その男は、自分は止利様式の仏像が持つ「古拙の笑い」にとり憑かれている彫刻家だと云い、その大きな眼は情熱的な光を宿していた。
秋になったある日、新聞掲載の展覧会評で、「微笑」という題の彫刻作品が取り上げられているのを目にした鳥沢は、ある予感を抱いて展覧会場へとおもむく。
その彫刻の顔つきには飛鳥仏の特徴がよく出ていたが、作者は予感どうり「あの時」の彫刻家で、新井大助といった。
新井に祝意を述べた鳥沢だったが、そのあと鳥沢を呼び止めた生命保険会社の調査員の男がいた。
調査員によれば、この彫刻の大きさが人間の実物大であり、本当の人間の顔からそっくり取ったものではないかと指摘した。
さらに、この彫刻とよく似た顔の宅間添子という女性が、最近死んだ事実を告げる。
しかもその遺体はなぜか「微笑んでいた」というのだった。まるでアルカイック・スマイルのように。
もし殺されたのであったら、なぜ彫刻の顔は、なぜ微笑んでいるのか。鳥沢が調査するうちに、いわゆる「笑気ガス」(亜酸化窒素と医療用酸素を混合した気体)の存在を知ることとなる。
さて清張は50歳をすぎてノンフィクションに挑戦するが、資料が充分に集まらず、小説として発表したのが「小説帝銀事件」(1959年)である。
1948年1月26日、午後3時過ぎ東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に「東京都防疫班」の腕章をした男が現れた。
「近くの家で集団赤痢が発生した。この予防薬を飲んでもらいたい」と語る。
だが、男が差し出した「予防薬」は劇薬の青酸化合物だった。疑いを持たず薬を飲んでしまった行員ら11人はただちに死亡。搬送された病院でも 1人が死亡した。男は現金約16万円と、約1万7000円の小切手を盗み現場から逃走した。
事件から約7カ月後の8月21日、警視庁はテンペラ画家・平沢貞通(56歳)を北海道・小樽市で逮捕した。取り調べに対し、平沢は一時「犯行」を自白したものの、一審の公判以降は否認に転じ「無罪」を主張している。
7年後の1955年に平沢の死刑が確定。もっとも、事件をめぐる不可解な謎は残り、平沢の死刑は執行されぬまま1987年5月95歳で獄死した。
しかし多くの人々が「平沢犯行説」に冤罪の疑いを抱いている。
そもそも平沢は毒物に何の知識も持っておらず、帝国銀行の衆人の目の前でスポイトで湯のみの中に青酸化合物を適切迅速に混入させるといった犯行を行うのは無理であった。
帝銀事件で生き残った4人の行員の面通しでも平沢ではないという証言があった。
驚いたことに、満州で細菌兵器を開発していた731部隊の隊長石井四郎が、犯人はうちの部隊の中にいるような気がすると語っていて、それらしき人物の特定されてさえいるのだ。
松本清張は「日本の黒い霧」の中で真犯人はGHQと731部隊か登戸(のぼりと)研究所(陸軍科学研究所)所員であることを書いている。
松本清張は帝銀事件が水を飲んでから数分後に死んでいることから即効性の青酸カリではなく遅効性の「青酸ニトリール」であるとした。
その存在を知り使用できたのは元陸軍の731部隊か登戸研究所第2課の所員のみであったからだ。
検死の結果は先に出した慶応大学は液体不明としていたが、後に出した東京大学は「青酸カリ」とした。
誰もが手に入る青酸カリにしたのには、背後の圧力を感じさせる。
実際、「登戸研究所」から青酸ニトリール2瓶がなくなっていた。731部隊の隊員がやってきて、GHQによって裁かれる可能性があるので、自殺用に薬をくれとって持ち去った。
警察は当初は731部隊の線で捜査を進めていくが、GHQより捜査を中止するように命令が下る。
その後捜査を180℃転換させて、目撃証言で犯人の顔とよく似た画家の平沢貞通の逮捕に至った。
731部隊も登戸研究所も戦後はGHQに接収されて捜査が不可能となり、彼らは731部隊のデータと引き換えに戦争犯罪の追及を免れた。
「小説帝銀事件」の清張の結論は、実際の青酸ニトリールの効果をGHQの側に見たかったのではないかということである。
この事件は「終戦の混乱」という時代背景をヌキに起きようのない事件だった。