宗像の先駆的制度

10年以上前に見たNHK「世界遺産~沖ノ島」という番組で、古代海人族「宗像(胸形)氏」が、大海人皇子(天武天皇)と深い関わりがあることを知った。
「宗像三社」のひとつに掲げられその文字とは、「瀛」(おき)という一文字。意味は、大きくて広いうみ、つまり「大海」である。
実は、天武天皇の皇子当時の名は「大海人皇子」(おおあまのみこ)だが、「天武天皇」という漢風諡号も、また「天渟中原”瀛”真人(あまのぬなはらおきのまひと)」という和風諡号も、正しくその「出自」を示しているという。
まずは、「武」は九州を出自とする天皇につけられ、大海人と「大」がつくのは、古来からの「海人族」を意味している。
2017年世界遺産に指定された「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群のひとつ福津市にある新原・奴山(あらはらぬやま)古墳群は、海を越えた交流の担い手として沖ノ島祭祀を行い、信仰の伝統を育んだ古代豪族宗像氏の墳墓群である。
「日本書紀」によれば、スサノオが、姉のアマテラスに別れの挨拶に来ることを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると思って、天の安川でスサノオに「誓約(うけい)」を強いた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、まずアマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から「三柱の女神」が生まれた。
この美しい女神をみてアマテラスは、スサノオに悪しき心がないことを知る。
この時にスサノオから生まれた神々こそ、宗像大社に祀られた「三女神」である。
宗像大社は、それぞれに三女神が祀られた宗像田島の「辺津宮」、筑前大島の「中津宮」、沖ノ島の「沖津宮」三社の総称で、日本書紀には、天孫を助け奉るために「海北道中」に降ろしたと記されている。
ちなみに、筑前大島は、遠藤周作の「沈黙」でロドリゴのモデルとなったキャラ神父が漂着した場所である。
その中でも、沖ノ島は、宗像市の沖合約60Kmの玄界灘に浮かぶ絶海の孤島で、4世紀後半から10世紀初頭の「祭祀遺跡」が見つかっている。
この周囲4Kmほどの無人島には、「沖津宮」が島の南部、標高80mに置かれ、宗像三女神のひとつ「田心姫神」(たごりひめのかみ)を奉り、神官一人が交替で詰めている。
1954年から学術調査が行われ、その結果、中国製の青銅鏡や、朝鮮半島は新羅製の金製指輪・金銅製馬具など、約十二万点の遺物が出土し、すべてが国宝と重要文化財に指定され、沖ノ島は「海の正倉院」とよばれるようになった。
というわけで沖ノ島の「沖津宮」には滅多なことではいけないのだが、それが許された人ならば、そこに「瀛津宮」(おきつみや)との名が記されていることが目に留まるであろう。
この中の「瀛」の文字こそ、大海人皇子の和号「天渟中原”瀛”真人」に見出される一文字なのだ。
その文字こそは、宗像氏と大海人皇子との深い関わり暗示しているようだ。
さて「日本国」の名が登場したのは、7世紀天武天皇の時代といわれる。しかし「日本書紀」では、後に「天武天皇」として即位する「大海人皇子」の正体をほとんど明かしていない。
蘇我氏は、「乙巳(いっし)の変」で645年に滅びた。その後7世紀後半の歴史の主人公は、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子、後の天智天皇に移った。
その中大兄が「白村江の戦い」で大敗北し、日本を「国家存亡」の危機に陥れながらも、天皇に即位できたのは、大海人皇子のバックアップが大きかったからだといわれる。
正史(日本書紀)によれば、天智天皇死後、子の大友皇子(近江方)と弟の大海人皇子(吉野方)の勢力争いがおき、672年の「壬申の乱」へと発展する。
この戦いにおいて大友皇子の勢力基盤がせいぜい畿内「大和国」とその周辺でしかないのに対し、大海人皇子の勢力地盤が広範囲にわたっている。
つまり、大海人皇子への援軍が多方面からあったため、勝敗の行方は最初からわかっていたともいえる。
そして、壬申の乱の帰趨を決定的にしたのが、宗像氏からの援軍だった。
では、これだけの勢力基盤をもつ大海人皇子は一体何者なのだろうか。それは「天智天皇の弟」というだけで片付けられる存在とは思えない。
「歴史は勝者によって書かれる」というが、天武天皇の子「舎人親王」が「日本書紀」編纂の総裁を務めていたという事実を忘れてはならない。
さて、ここで時代を弥生時代に逆回しよう。弥生時代も後期になると、稲作技術の発達と、大陸からの渡来人の流入もあって、北部九州の人口が増えると、水田耕作地の不足が生じるようになる。そうしたとき、波穏やかな瀬戸内海がハイウェイとなって、多くの人民を近畿地方に送り込んでいった。
この史実を元に「神武東征説」が生まれ、九州出身の天皇には「武」という文字がつくといったとうり、ヤマト政権は3世紀の後半に九州から移住した集団の長によって誕生したものと考えることができる。
しかし全部がゼンブ近畿に移住したわけではなく、九州王朝(筑紫王朝)は依然として存在しており、本貫を離れて勢力を伸ばすヤマト政権に対して「対抗意識」を持つようになったと推測できる。
それがもっとも端的に表れるのが527年の磐井の乱である。
527年、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅を再興して任那を合併しようとした。
これに対して、筑紫君磐井が反逆の実行の時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。
そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断したため、ついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
528年、磐井は筑紫御井郡において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。
磐井の子の筑紫君「葛子」は死罪を免れるため糟屋屯倉(現在の「福岡県糟屋郡」を朝廷に献じたという。
663年「白村江の戦い」に参加した安曇氏だが、その長・安曇 比羅夫(あずみのひらふ)は、この戦いで戦死している。
その後、安曇氏は全国に散らばる。その代表が長野県の小美術館の宝庫・安曇野だが、ナントこの穂高神社に安曇連比羅夫が祀られているのである。
そしてこの信州安曇野が、全国に散らばった安曇氏の本拠地とされている。
海の民を内陸に追いやったのは、その力の源を断ち切ろうという 意図が感じられる。
そして「磐井の乱」以降九州王朝内で格段に向上し、海人族・胸形(宗像)王の地位は、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結びようになり、640年頃には、胸形(宗像)系の「筑紫王」を輩出するに至る。
「大海人」という存在も、こうした筑紫王との関係ので、九州で生まれたのではなかろうか。
その証左となりうるのが、宮地嶽神社すぐ近くに存在する「宮地嶽古墳」である。
天武天皇(大海人皇子)の第一皇子、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)であるが、「日本書紀」ではその母こそ「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」と記されている。
つまり大海人皇子の后のひとりが尼子郎娘であり、それにより宗像氏は瀬戸内海経由で援軍にかけつけたのである。
この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されており、日本一の大きさを誇る巨石古墳と副葬品の豪華さは、明らかに「天皇陵」を示唆している。
近年、「嵐」が登場するコマーシャルで、夕暮れ時に現われる「光の道」がとても美しいと全国的に評判になったのが宮地嶽神社である。
宗像族と大海人皇子の関連を示す宮地嶽神社境内から「光の道」が玄海灘に一直線に照らし出す様は、海人族「宗像族」の通った道筋をそのまま映したかのように思えた。

福岡県宗像の芦屋町には、中世の時宗信徒の念仏踊りが始まりとされる「役者集団」がいた。
大衆演劇はサービス精神が旺盛で、役者の体温が伝わってくるような親近感が魅力であった。
その一方で、社会的偏見と経済的事情から明治中期に解散したが、役者魂は着実に受け継がれた。
石炭景気を背景に、昭和初期、筑豊地方には劇場が数々生まれ、芝居好きの炭鉱労働者たちがヤンヤの喝采を送ったという。
我が地元・福岡の芦屋役者の始まりは、中世の「踊り念仏」だという。
「踊り念仏」の祖・空也は、903年の生まれで、21歳のころ尾張国分寺で出家して空也と称し、国内をまわって道路修理・架橋・廃寺再興など慈善救済事業につとめた。
京都で「市聖(いちひじり)」 と呼ばれながら念仏教化をつづけ、六波羅密寺(西光寺)を建て。927年に没している。
空也は天慶年間(938~946)供88名をつれて芦屋に来たと言い伝えられている。
「芦屋歌舞伎の役者町跡」の石碑には次のような説明文が刻まれている。
「平安時代諸国遍歴の空也上人に従って当地に来た供人達を祖先とする念仏衆の人々は、1605年藩主の御茶屋跡であったこの附近の地を賜り寺中町を形成し、いつしか歌舞伎を手がけ各地を巡業し、芦屋役者の名声を博したが、明治の末期に廃絶した。当安長寺は、初め空也堂として役者町の人達が建立したものである」。
芦屋において空也上人は、念仏踊りをやっては、善男善女を集めて仏教のおしえをといていた。
ところが或る日のこと、空也上人は突然18名の供人を置きざりにしたまゝ、薄情にも京都に帰えってしまった。
たちどころに困ったのは18名の者で、明日からの生活もどうしてよいか判らなかった。
思案に暮れた結果、見馴れ聞き覚えた空也上人の念仏踊りを真似ながら、辛くもその日その日の生活を凌ぐことになった。
この附人(つきびと)たちの子孫が江戸時代になって歌舞伎を手がけ、有名な「芦屋役者」になったのである。
明治中期ごろまでは盛んで津々浦々を巡業し、かたわら若者たちに歌舞伎や踊りの手ほどきなどをして、村芝居の興隆にも大いに貢献した。
現在の「安長寺」は初め空也堂として、役者町の人達が建立したものである。
安長寺の東側一帯の町を以前は寺中(じちゅう) 町と言われていて、芦屋歌舞伎の役者たちが住む役者町であった。
さて芦屋役者は全国を旅したが、芦屋周辺には「大衆演劇」以外にも全国的に広がった文化が存在する。
NHKの番組「あまちゃん」は、海女(あま)という存在に光をあてたが、そのルーツは芦屋に近い宗像の鐘崎(かねさき)である。
鐘崎には、海女の装束を纏った女性像があり、その足元には「海女発祥」の地を示す石板がある。
鐘崎は、魏志倭人伝でも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになった。
五島列島・対馬・壱岐・朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。
そして各地で漁を教え、住みついていった。
江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
実は、「あまちゃん」の舞台となった伊勢志摩の海女は北九州を拠点としていた海人族安曇(あずみ)氏の女であり、安曇氏が山東半島から朝鮮半島西岸経由で北九州に到達しており、潜水技術も済州島辺りに滞在していた安曇氏の海女から鐘崎の宗像氏の海女に技術が伝承されたと考えられる。
鐘崎は日本の海女(海士)の発祥の地と言われていて、700年ほど前は対馬の守護代宗氏の領地、鐘崎の海人はそのつながりから対馬で漁業権を得て潜水漁を行っていた。

福岡市と北九州の間の福津市には、JR東福間駅近くに「定礼(じょうさつ)公園」がある。
その公園には「記念碑」がたっており、現代の「国民皆保険制度」の手本となった相互扶助仕組みを、地域の先人たちが江戸時代に作っていたことを示すものである。
江戸時代には、宗像地区(福津市や宗像市)の農民は、凶作が続くと医者にお金が払えなくなり、医者もそのような農民からお金をもらうのに困っていた。
そこで、農民たちは話し合いをして、医者にかかってもかからなくても、収入に応じた米を医者に渡し、きがねなく治療を受けられるようした。
このことを、宗像では「定礼」(常礼)(じょうれい)といっていた。
そのような中、1899年に無医村であった神興(じんごう)村の手光(てびか)地区と津丸地区の人々は、お金を出し合って両地区の中間である通り堂に「神興(じんこう)共立医院」を建てたのである。
そして、その跡地が現在の「定礼公園」である。
1935年頃、内務省社会局(現厚生労働省)は、当時の悲惨な農村の状況を見て、健康保険制度の検討を開始した。
そして、「常礼」の発達している宗像の情報を得て調査することを思い立ち、神興共立医院に調査官を派遣した。
貧富の差に応じて玄米を納めることにより、1年間無料で治療を受けられるという命を守る制度がつくられ、村人はこれにより救われた。
この「定礼の医師」となった安永喜四郎・安永桂の父子は、献身的に地域医療につくされた。
「定礼」の意味は、医者にかかってもかからなくても、経済力に応じて医者に定まった額の謝礼をすると言う意味。「常礼」は、常々、お世話になっている医者に礼を欠かしてはならないという意味である。
各戸が米を出し合い、年2回、地域のかかりつけ医への謝礼に充てる。その代わり、病気やけがの際は無料で診てもらえるという仕組みだ。
単に医療保障だけでなく、各戸が出す米の多寡は資力に応じていたこと。
定礼は村人どうしの相互扶助というだけではなく、医師の生活保障という面もあったと考えられる。
調査官は、農村医療が理想的に運営されている実態を見てこれを手本として、1938年の世界にも前例のない「国民健康保険制度」が誕生したのである。
この制度は、江戸時代から綿々と続き、第二次世界大戦末期までに、宗像の約60の大字の内の38の大字と大島村で運営されていて、神興共立医院もそのひとつであった。
社会の高齢化が進み、国民健康保険の存続が危ぶまれている現代、貧しい時代に生まれた助け合いの精神の原点を伝えているようだ。
ところで赤間宿で藍染屋を営んでいた出光佐三の遠祖は、大分県宇佐であるが、実は宇佐は宗像氏と深い関わりがある。
宇佐神宮の宮司の宇佐氏は筑紫国の「宗像三女神」の子である菟狭津彦(うさつひこのみこと)の後裔とされているからだ。
「海賊とよばれた男」出光のタンカーには「宗像神社」が祭られており、出光氏がなした地域貢献は莫大なものがある。
戦前の荒廃した宗像大社の姿に心を痛めて復興を誓い、私財を投じて「昭和の御造営」を成し遂げ、福岡教育大学は土地が寄付されたことで、各校舎の集約が可能となり、現在の宗像市内に移転した。
宗像に、様々な相互扶助や連帯の精神が息づいているのは、いにしへからの「宗像族」の幻のゆえなのかもしれない。 

「定札公園」にいいて、おおよそ30年ほど前に岐阜に行ったときに「楽市楽座発祥」の地、円徳寺を訪問した時のことを思い出した。
円徳寺は織田信長が寄進したとされる釣り鐘や「楽市楽座」の制札が残るなど、信長ゆかりの寺として知られる。
国民健康保険制度と市場原理重視の制度は、相容れない制度にも見えるが、両者とも特権を排して多くの人に医療を受けることをや商業活動の範囲を広げた点で共通している。
一方で、ケインズ政策をおこなった江戸時代の藩主もいる。
江戸時代中期に尾張藩主だった徳川宗春は民の心を読み、景気対策に力を入れた。宗春は江戸で吉宗が勤倹節約の「享保の改革」を推進している最中に「ゆきすぎた倹約はかえって庶民を苦しめる。
人々の欲望を開放し、発散するために消費購買力を高めなければ経済は活性化しない」と考えて、地元名古屋に芝居小屋や遊郭を置いた。宗春の取り組みは現名古屋経済の礎になっているという説もある。
宗春は政府がどんどん富を放出し、人工的なインフレを起こして物価を上げ、景気を盛り上げるべきだと、ケインズの経済学理論にも通じる説を実践した。しかし宗春の政策はよい部分もあった半面、増税を行わなかったため、藩政府の財源の確保で行き詰まってしまった。
再建の基本は一時的な雇用の確保や金のばら撒きではなく、手持ちの資源の再活用や異能の開発以外にはないのである。
これらを実践するためには、まず経営者やリーダーの意識改革をしなければならない。意識改革の方法としては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人三様の手法がこれまで紹介されてきた。
信長は室町時代までの旧社会の破壊者であり、新価値社会を生み出した。土地至上主義をやめて衣食住の中に文化という付加価値を加え、民の欲望を開放しながら消費能力を高めて、安土文化を花開かせた。これは「人間にとって何が大事か」という価値観の大転換だった。土地以上に精神や文化を重視し、制度の壁や心の壁を壊していった。
信長が破壊型(壊す)で、秀吉がそれを引き継ぐ建設型(つくる)だとすると家康は長期維持管理型(守る)だった。
3人のリーダーの手法が異なっているので、このうちのひとつの手法を真似る経営者が多かったのだが、現代の経営者はひとつの手法だけではもはや通用しなくなった。現在では、再建を妨げるものを壊し、新しいパワーを生むような部門を創設し、古いものでもよいものは残して選別し、維持管理していくという、3つの型を同時進行していく能力が求められている。
これを実践した人物のひとりが、明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、高橋是清である。是清は嘉永7(1854)年に生まれ、生後数日で里子に出され、その後寺に小姓としてあずけられた。14歳のときアメリカに渡って肉体労働に従事した経験もある「無学歴、ノンキャリア」だった。だが、功績が認められて日銀総裁にまで上り詰め、のちには蔵相や首相を務め、「窮地に強い男」と呼ばれた。

大坂道頓堀にかかる「淀屋橋」の名は、大阪の豪商「淀屋辰五郎」からついた名前だが、それが「米の入札」に深く関わる橋であったことはあまり知られていない。
淀屋は、豊臣氏が天下を取った際に大阪に出てきて木材の商いを始め、自治体を形成する総年寄の初代メンバーともなった。
諸侯の回米を引き受け、米市場を自宅近くに開き、二代目个庵の時代には土佐堀川に自前で橋をかけて、門前の「淀屋米市」に訪れる人の便宜をはかった。これが現在の「淀屋橋」である。
「淀屋米市」は、蔵米を買い付けた米商人が蔵元から「米手形」を受け取る仕組みで、その「米手形」を売買する取引が発展したところ、米の「仮需要」を誘発して米価高騰を招いたため禁止された。
しかし、享保時代の超デフレ政策による米価格の大暴落を受け、第8代将軍徳川吉宗は、1730年に大阪堂島にて日本で最初の「公許米相場会所」を設置した。
堂島米相場会所では、淀屋米市とは違い、「帳合取引」という現米の受け渡しのない帳簿上の差引き計算による「差金決済取引」だった。これは、現在の商品取引所法の「現金決済取引」と同じである。
江戸、京都、大津、下関の米市は、堂島米市場での相場で取引がなされ、堂島の相場が全国の米相場の基準とされた。
1876年には「堂島米穀取引所」と改称され1939年に廃止されたものの、これこそ世界に先駆けた「先物取引市場」であった。
江戸時代、諸藩が年貢として集めた米の多くは、大坂をはじめとする大都市へと運ばれた。諸藩は、中之島周辺の蔵屋敷に納めた年貢米を入札制によって米仲買人に売却し、落札者には米切手という1枚当たり10石の米との交換を約束した証券を発行した。
この米切手には、未着米や将来の収穫米も含まれ、これらが盛んに売買されるようになった。
享保15年(1730)、江戸幕府は堂島で行われる正米商い(しょうまいあきない・米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(ちょうあいまいあきない・米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場と呼ばれる公的市場が成立する。
近代取引所に通じる会員制度、清算機能などが整えられた堂島米市場は、わが国における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている。
堂島米市場で形成された米価は、飛脚や旗振り通信などによって江戸や地方の主要都市まで伝えられ、各地の米相場の基準となった。
ここで培われた取引制度や慣行の多くは、明治以降の商品・証券・金融先物取引所に受け継がれた。
豪商、淀屋が17世紀前半に大坂で始めた米市。現物取引だけでなく、世界にほとんど例のないコメの先物取引も行った。
幕府や諸大名などが米市の周辺に蔵屋敷を造り、大坂は「天下の台所」として繁栄する。現在大阪で試験上場中のコメの先物は今夏、本上場か廃止かが決まる。
淀屋が米市に込めた市場安定化への思いは、果たして受け継がれるのだろうか。
井原西鶴が著した「日本永代蔵」巻一に江戸期の米市の記述がある。「惣じて北浜の米市は、日本第一の津なればこそ(中略)売る人有り、買ふ人有り。一分二分をあらそひ、人の山をなし、互ひに面を見知りたる人には、千石・万石の米をも売買せし」。大阪は日本一の港なので全国からコメが集まり、大勢の人が相場の高低を争って大量に売買しているという内容だ。
江戸初期の大坂経済は冬の陣、夏の陣で大きな打撃を受け京、堺、伏見の後じんを拝した。そこに現れたのが淀屋だ。2代目言当の時代になると、各地のコメや特産品を集荷。特に加賀藩のコメは豪商の北風彦太郎と協力し、西廻(まわ)り航路の先駆けとなる海上ルートで輸送した。
野菜・果物の青物市場と魚の雑喉場(ざこば)魚市場の立ち上げに携わり、店先で米市を活発に行った。
民間グループの淀屋研究会が淀屋の功績で第一に挙げるのが「品質・価格安定のための米市設立と運営」だ。「米市や1697年に米市を継いだ堂島米市場では、帳合米(ちょうあいまい)商いと呼ばれる組織的な先物取引が世界に先駆けて行われた」というのは同会の大江昭夫会長だ。
「大坂の相場は全国の基準となり、旗振り通信等で短時間で全国に伝えられた。コメの価格と流通に安定をもたらした」と話す。
米市や堂島米市場が価格の安定に寄与したことは江戸時代の相場から見て取れる。例えば1780年代の天明の大飢饉(ききん)。
一時的に一石160匁(もんめ)近くまで上昇するが、やがて40~80匁の価格帯に収まる。他の飢饉も同様に一時的な高騰後に収斂(しゅうれん)が起きている。
こうした価格推移は現在でもよく見られる。米国の原油や小麦等の先物価格が中東情勢や天候で一時的に高騰、急落しても、その後は一定範囲に収まりやすい。これは先物の機能の一つで、需給を映した売買注文が約定(売買の成立)し適正価格を見つける「価格発見機能」が発揮されているためだ。米市や堂島米市場では既に「価格発見機能」が働いていたことになる。
諸大名がコメの在庫量以上に(証券化した)米切手を発行し、藩財政の資金を調達したことで金融市場の発展にも貢献した」と指摘するのは神戸大学経済経営研究所の高槻泰郎准教授。金融市場で力を蓄えたのが米切手を扱う米仲買人だ。「米仲買人として財を成した豪商、加島屋久右衛門が大名貸しに専従し、メインバンクのような役割を果たしたケースもあった」(高槻准教授)という。
阪府が国際金融都市構想に名乗りをあげたが、金融市場の発展には現代版米市ともいえる取引所ビジネスの拡充が欠かせない。
コメ先物を試験上場する大阪堂島商品取引所の岡本安明理事長は「コメの輸出が増えれば堂島の相場は国際指標になり得る。関連ビジネスが広がり国際金融都市に貢献できる」と力を込める。
堂島商取の月間売買高がここに来て上向いてきた。取引システムを刷新して「新潟コシ(新潟県産コシヒカリ)」などの産地特定銘柄を上場。4月からの株式会社化など一連の改革が功を奏している。2月の月間売買高は前年同月の2.9倍の6万1052枚(枚は最低取引単位)と7カ月連続のプラスになった。
「デリバティブの原点を作った淀屋と大坂商人の心意気を守りたい」と岡本理事長。農林水産省は本上場か廃止かを8月に決める見通し。大阪の未来を占う試金石になる。
17世紀前半淀屋の店先(現在の淀屋橋南詰)で米市始まる17世紀後半堀川や堂島、中之島の開発が進み、諸藩は蔵屋敷を建設・整備し、米切手発行による年貢米の販売体制を整える。
元禄10年(1697)頃淀屋米市、ここ堂島に移転享保15年(1730)米将軍と呼ばれる江戸幕府第8代将軍徳川吉宗、米価引き立てのため、堂島米市場を公認文化8年(1811)堂島米市場、最盛期を迎える。
明治2年(1869)明治政府、米価騰貴の原因として堂島米市場における取引を禁止明治4年(1871)米取引の活性化のため、堂島米会所として再興、その後、堂島米油相庭会所、大阪堂島米商会所、大阪堂島米穀取引所と改組昭和14年(1939)米穀配給統制法により大阪堂島米穀取引所廃止。
最近、「嵐」が登場するコマーシャルで、夕暮れ時に現われる「光の道」がとても美しいと全国的に評判になったのが宮地嶽神社である。
この宮地岳神社の裏側にある宮地岳古墳は、天武天皇のお妃の一族が埋葬されており、日本史の大きな「謎」を秘めた場所なのだ。
「光の道」が伸びた海上に浮かぶ沖ノ島に見出されたひとつの「文字」が、まるで網にかかった深海魚ののように感じられる。
その文字とは、宗像三神のひとつ沖津宮にかかげられた「瀛」という文字。
実は、天武天皇の皇子当時の名は「大海人皇子」(おおあまのみこ)だが、「天武天皇」という漢風諡号も、また「天渟中原”瀛”真人(あまのぬなはらおきのまひと)」という和風諡号も、正しくその「出自」を示しているという。
まずは、「武」は九州を出自とする天皇につけられ、大海人と「大」がつくのは、古来からの「海人族」を意味している。
「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島(しかのしま)がある博多湾は、古代海人族の拠点であった。
海人族の先駆けであるが故に「大海人」と呼ばれるようになり、「大海人皇子」が九州の海人族に関わる出自であったことが推測できる。
さて、宗像地方に人が住み始めたのは約3万年前の旧石器時代と言われ、弥生時代には釣川沿いに広がる肥沃な平野では、多くの人々が定住していた。
古代から海上ルートの拠点であった宗像地域は、「海のシルクロード」と言われていた。
古代より「道の神様」として信仰された「宗像大社」の名は、日本書紀にも記され、遠く大陸に渡った遣唐使なども航海安全のために必ず参拝をしていた。
「日本書紀」によれば、スサノオが、姉のアマテラスに別れの挨拶に来ることを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると思って、天の安川でスサノオに「誓約(うけい)」を強いた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、まずアマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から「三柱の女神」が生まれ、宗像大社に祀られた「三女神」である。
宗像大社は、それぞれに三女神が祀られた宗像田島の「辺津宮」、筑前大島の「中津宮」、沖ノ島の「沖津宮」三社の総称で、日本書紀には、天孫を助け奉るために「海北道中」に降ろしたと記されいる。
その中でも、沖ノ島は、宗像市の沖合約60Kmの玄界灘に浮かぶ絶海の孤島で、4世紀後半から10世紀初頭の「祭祀遺跡」が見つかっている。
この周囲4Kmほどの無人島には、宗像大社の沖津宮が置かれ、宗像三女神のひとつ「田心姫神」(たごりひめのかみ)を奉り、神官一人が交替で詰めている。
今でも女人禁制の島で、この島で見聞きしたことは、一切他言してはいけないとされる。
また、一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできないことになっている。
島の南部、標高80mに位置する「沖津宮」では、毎年5月27日の大祭に200名程が、素裸になって海水で禊(みそぎ)の後に上陸できるが、その時以外は原則上陸できない。
沖ノ島の「沖津宮」にはメッタなことではいけないのだが、それが許された人ならば、そこに「瀛津宮」(おきつみや)との名が記されていることが目に留まるであろう。
この中の「瀛」の文字こそ、大海人皇子の和号「天渟中原”瀛”真人」に見出される一文字なのだ。
滅多に見ない文字だけに、宗像氏と大海人皇子との深い関わり暗示しているように思える。
さて「日本国」の名が登場したのは、7世紀天武天皇の時代といわれる。しかし「日本書紀」では、後に「天武天皇」として即位する「大海人皇子」の正体をほとんど明かしていない。
正史(日本書紀)によれば、天智天皇死後、その子の大友皇子(近江方)と弟の大海人皇子(吉野方)の勢力争いがおき、672年の「壬申の乱」へと発展する。
この戦いにおいて大友皇子の勢力基盤がせいぜい畿内「大和国」とその周辺でしかないのに対し、大海人皇子の勢力地盤が広範囲にわたっている。
そして、壬申の乱の大海人皇子勝利の帰趨を決定的にしたのがなんと、宗像氏からの援軍だった。
実は大海人皇子の后こそ「宗像族」の后・尼子郎娘(あまこのいらつめ)であり、尼子郎女を通して宗像氏は瀬戸内海からを通って「援軍」にかけつけたのである。
では、これだけの勢力基盤をもつ大海人皇子は一体何者なのだろうか。本当に「天智天皇の弟」なのだろうか。
「歴史は勝者によって書かれる」というが、天武天皇(大海人皇子)の子「舎人親王」が「日本書紀」編纂の総裁を務めていたという事実を忘れてはならない。
さて、「神武東征」の話にみるとおり、ヤマト政権は3世紀の後半に九州から移住した集団の長によって誕生したものと考えることができる。
海人族・胸形(宗像)王の地位は、「磐井の乱」以降九州王朝内で格段に向上し、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結びようになり、640年頃には、胸形(宗像)系の「筑紫王」を輩出するに至る。
「大海人」という存在も、こうした筑紫王との関わりをもちつつ、九州で生まれたのではなかろうか。
その勢力の大きさを物語るのが、宮地嶽神社すぐ裏側に存在する「宮地嶽古墳」である。
天武天皇(大海人皇子)の第一皇子、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)であるが、「日本書紀」ではその母こそ「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」と記されている。
この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されており、日本一の大きさを誇る巨石古墳と副葬品の豪華さは、明らかに「天皇陵」を示唆している。
そこで少々気になるのが、志賀島を本拠とする安曇氏と宗像氏との関係であるが、663年白村江の戦いに参加した安曇氏だが、その長・安曇比羅夫(あずみのひらふ)は、この戦いで戦死している。
律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官を務めた。
これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたのである。
その後、安曇氏は全国に散らばる。その代表が長野県の安曇野だが、この地の穂高神社に安曇連比羅夫が祀られている。
この内陸にあるのに「お船祭り」が行われるこの神社の「説明書き」で読んだ記憶があるが、ヤマト朝廷の移住政策によって、この地にやってきたと書いてあった。
宗像氏と関係が深い大海人皇子が天武天皇として即位したのが673年である。
仮に、天武天皇が、ライバルの安曇野氏の勢力を削ろうと、内陸部しかも東国に追いやった結果ということもありうる。
宮地岳神社は「光の道」が人を集めているが、歴史の本筋でもっと注目されていい場所である。

今でも女人禁制の島で、この島で見聞きしたことは、一切他言してはいけないとされる。
また、一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできないことになっている。