聖書の言葉(神の知恵にかなっている)

人は不幸を抱えていたり、災いに見舞われる人々をみて、その人の行いが悪かったからとか、過ちを犯したからだと思いがちである。
しかし、イエスは そのような考え方を否定している。
ある人々がイエスの処に来て、或るおぞましき出来事を伝えた(ルカの福音書13章)。
ローマ提督・ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲(いけにえ)の血に混ぜたという。
それに対してイエスは、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と応えている。ここで人間の災難死が「滅び」の次元にかわっていることに注意したい。
イエスは、人はだれしもが等しく「罪人」といっているわけだが、旧約聖書が書かれたヘブライ語の「罪」の原意は、「的から外れている」という意味であり、「悔い改める」とは新約聖書が書かれたギリシア語の原意は、「心の向き」を変えるということである。
道徳的に生きなさいというぐらいの意味ではない。
またイエスは、当時人々の話題になっていた多数の死者が出た事故について次のように言っている。
「シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
さらに、イエスが弟子達とともに歩いていた時に、生れつきの盲人と出会う(ヨハネの福音書9章)。
その時弟子たちはイエスに、「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と問うた。
するとイエスは、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と応え、弟子達の視点を変えるような話をしている。
「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。ここでシロアムの名が再登場している。
盲目の男は行ってシロアムの池で洗うと、見えるようになって、帰って行った。
ところが人々は盲人であった男が見えるようになったことにつき、問い詰めるように、「おまえの目はどうしてあいたのか」とたずねた。
盲人であった男がありのままの経緯を語ると、その癒しが安息日であったことから、人々は彼をパリサイ人の処に連れて行った。
人々は、「癒してくれた人はどこに行ったのか」と問い、あるパリサイ人は「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」といった。
一方、ほかの人々は「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と彼らの間に分争が生じている。
そして「イエスが盲目の男を癒した」という話が広がることになるが、多くのユダヤ人達はこのことを信じようとはせず、男の両親まで呼んで「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」と問いただした。
両親は、イエスを会堂から追い出そうとしているユダヤ人達を恐れ、「だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」と応えている。
そこでユダヤ人達は、イエスが安息日に癒しを行ったことについて、イエスを罪人であるり結論づけると、癒された男は「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」と応えている。
さて、以上のような人々のやりとりをみると、当時のユダヤ人社会がいか硬直していたかが、よくわかる。
生まれながらに障害や病をもつ者に対して、神のおきて(律法)をふりかざして「罪」に結びつけて、社会的弱者をさらに追いつめている。
イエスは自らを「世の光」と語っているが、普通の人がこんなことをいうのはありえない。しかしイエスは「預言の成就」として自らを顕わしている。
実際、預言者イザヤはイエスについて、次のような預言をしている(イザヤ書9章)。
「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。 暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。

人はそれぞれに宿命(十字架)を背負い、世界は不条理にあふれている。
一方聖書は、「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない」(使徒行伝17章)。
このことは、暗黒のような状態にあっても「光」を見出すことが出来るということだ。
紀元1世紀に地中海伝道に励んだパウロは、信徒への手紙の中で次のような言葉を残している。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 すなわち、聖書に、 "わたしは知者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さをむなしいものにする" と書いてある。
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった”」。
さらにパウロは、次のように述べている。
「それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(コリント人への第一の手紙1章)。
「宣教の愚かさ」とは奥深い言葉であるが、「神の知恵にかなっている」という言葉は、以上の文脈から切り離しても、我が心の「支え」となっている。
例えば、自分の思いどうりにいかない時、これは「神の知恵にかなっているのかも」と視点をかえてみると、心にワンクッションの余裕が生まれる。
すると、不満ではなく感謝さえもおきることもある。
もうひとつ我が支えとなるパウロの言葉がある。
新約聖書における「パウロの手紙」(パウロ書簡)は、圧倒的な霊性をもって我々の魂に今も語り続けるが、 当然ながらパウロはそれを自らの「誇り」としても不思議ではない。
しかしパウロは自ら誇ることにつき、著しく抑制的なのである。
それはもともとキリスト教の迫害者として、キリスト者を捕縛したり拷問することに誰よりも熱心であった。
ところがダマスコの街に入った時に、しばらく盲目になるほどの強烈な光を受けて大回心を果たす。
そんな経過により、自らを「イエスは月足らずで生まれたようなこのわたしにも現れてくださった。わたしは使徒中のもっとも小さい者」(コリント人第一の手紙15章)という自覚があるからであろう。
そのパウロが書いた手紙の中でコリントの信徒へ出した手紙の中に印象的な箇所がある。
「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、”わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる”。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(コリント人第二の手紙12章)。
実は、パウロがこの手紙で書いている「あるひとりの人」とは自分自身で、「第三の天まで引き上げられた」というのは自分の体験なのだが、自ら誇らないよう「第三者」の体験として語っているのだ。
この手紙の内容から、パウロには肉体にトゲが与えられたという。
このトゲの内容は具体的には書いてないが、パウロが髙慢にならないようにパウロ をうつ「サタンの使い」なのだという。
パウロからすれば、この痛みを何とかしてくれと訴えたところ、神はパウロに「私の恵み」は充分どころか、その恵みは弱いところに完全に露われるという応えをうけている。
人の一生は、ほとんど思いどうりにはならない。それどころか自分願いとは逆行するようなことがおきる。そして自分の力のなさを思いしらされる。
そんな時、パウロの「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という言葉に励まされる。
そして自ら悟った自分の愚かさや非力ささえも、「神の知恵にかなっている」と思い直すことができる。

旧約聖書に、「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(詩編8編)とあるように、神は人間を神に似せ「創造者」として創造された。
ところが「バベルの塔」物語では、その被造物たる人間があたかも創造者である「神」に対抗するかのような「企て」をしている。
「バベルの塔」建設に向かう人々の言葉がある(創世記11章)。
「彼らは互に言った、”さあ、れんがを造って、よく焼こう”。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、”さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう"」。
それに対して神は、人の子たちの建てる町と塔とを見て次のように語っている。
「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
神がこうして人間を全地に散らされたので、人間は町を建てるのをやめた。
さて、旧約聖書には、神が人間にとって災害や禍(わざわい)となることを、しばしば起こすことが書かれている。それは人間に対するメッセージでもある。
今日、人間の営みが自然界に変化を与え続ける新しい地質年代を「人新世」とよぶが、より具体的にいうと、人間が自然界にある「時」や「道」を変えつつあるということでもある。
人間がAIを通じてマッチングを追求する一方で、自然界の方はミスマッチが増加している。
キリスト教会が大きな力をもった社会では、「安息日の信仰」が身についていて、農業は「土地を休ませる」ことを自然に学んだ社会である。
ヨーロッパ中世において定着した「三圃式農法」がそれをよく表している。
ところが、産業社会においては「自然(土地)を休ませる」という考えは次第にうすれていった。
「休む」といえば、労働者の権利として「休日」が求められ、その休みは聖なる日でもなんでもなく、余暇と娯楽による気晴らし(パーストタイム)としか 認識されなくなっていった。
こうした生じた自然への過大な負荷(森林の開拓)などが、パンデミックに繋がったのではなかろうか。
2018年9月、フランシスローマ教皇は、パンデミックについて次のように語った。
新型コロナウイルス感染からの反省として、人類は地球を「休息」させることができれば、地球は回復できることを示した。
また、危機はわれわれに新しい生活に戻るチャンスを与えたのかもしれないと、そうした制約こそが大気や水は以前よりもきれいになり、動物たちも以前生息していた処に戻れた。
コロナの影響防止のための外出や営業の自粛措置等が世界中でとられていることで、人々は従来に比べてシンプルな生活を送るようになり、その結果、温室効果ガスの排出量が減少するなどの「休息効果」が得られたと。
コロナ感染の影響で、人間はソーシャルディスタンスを意識するようにもなり、人々はやむを得ずとはいえ「散らされて」生きるようになった。それは神の知恵にかなったことなのかもしれない。
聖書には、「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである」(使徒行伝17章)。
ところで今日、ヒト、モノ、カネがあたかも国境がなきがごとく動くグローバル社会となっている。
そしてわかってきたことは、一握りの人々の富の集積にとって邪魔なものが国家の枠でそれを取り払った方がさらに富を吸い上げるのに都合がよさそうだということだ。
ヒト、カネ、モノがより自由に動き、たくさんの労働者を安い賃金で働かせ、それを「中間」で吸収するものさえなく、莫大な富を高く高く吸い上げる、システムが出来あがる。
そうした世界を構築した者(プラットフォーマー)に権力と富が集まっていく。
便利だ楽しいと思ううち、リアルとバーチャルの境目がわからず、嘘と真(まこと)の判別さえも出来ないほどの「ディープフェイク」が氾濫する。
こうしたシステムの構築は、どこか旧約聖書の「バベルの塔」の物語を思わせる。
便利だ、楽しいは人間の側の都合であるが、人間の都合と神の思いは、異なることが多い。
聖書の預言者は次のように述べている。
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると 主は言われる。 天が地よりも高いように、 わが道は、あなたがたの道よりも高く、 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書55書)。
これは、イスラエルの民族に対する預言であるが、人類全体にも あてはまりそうだ。
神の目からみて、世界中で言葉が「通じない」ことは、諸々のトラブルや諍いの元になるにせよ、人間が寄り集まって「我々の名をあげ」「神と等しくならん」とすることに対する警鐘なのかもしれない。
実際、人間がすべてをコントロールしようとすればすれほど、世界は災害や戦争が勃発し不安定化を増してしる。
それは「グローバル化」の行き過ぎを押しとどめんとするような動きにも見える。
サプライチェーンは寸断され、言葉の翻訳ははるかにたやすくなったのに、社会の「分断」により言葉が通じない。
ニューヨークの911テロの跡地で行われた10年後の式典で、サイモン&ガーファンクルは、当初予定した「明日に架ける橋」をやめて、「サウンドオブサイレンス」を演奏したというエピソードがある。
こういう現状、すべてとはいわないが、「神の知恵にかなったこと」なのかもしれない。