聖書の言葉(アブラハムと福音)

最近、「地球が救われなければ」と思いたくなるニュースが多く、なにか良いニュースはないのかと思いたくなる。
キリスト教において「良い知らせ」とは特別な意味をもっている。それは「イエス・キリストが人類の罪を負い、十字架の刑に処され3日後に蘇った」というニュースのこと。
これを「福音」(ふくいん)というが、人々が福音を「我が救いとして」受け取るかどうかは別問題である。
なぜなら、その「知らせ」は自分とは関係ないか、何も聞かなかったことにすることもできるからだ。
では「救われる」ためにはどうすればいいのか。
イエスは具体的に「人は水と霊によらなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネの福音書3章)と語っている。
つまり、罪の赦しをえるためにイエスの名により「水(洗礼)」をうけることと、復活の保証をえるために「聖霊」を受けることによって、人は救われる。
ところでアブラハムといえば、古代イスラエルの族長で「信仰の租」とよばれている。
世界最古の都市といえば、メソポタミアのバビロン王朝下のウル・ウルクといわれる。
ユーフラテス川の西岸近くには、ジグラットとよばれる塔、空中庭園やバベルの塔の物語が残っている。
そこでは、高さ21メートルほどの神殿塔(ジッグラト)がその遺跡の最も際立った特色となっている。
このウルで生まれたのが、アブラハムの一族である。
「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた」(創世記5章)。
つまりアブラハムは、高度に発達した都市と、そこで得られる安全で快適な生活を捨てて、「遊牧民」になっでしまったのだ。
そんなアブラハムについてパウロは、信徒への手紙の中で次のように述べている。
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ」。
そしてパウロは、「彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」と述べ、アブラハムの信仰について次のように語っている。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」。
さて、ここからが、パウロの霊的解釈である。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」(ヘブル人への手紙11章)。
このことは、イエスの次の言葉とも対応している。 「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネの福音書14章)。
パウロは自ら「この世の寄留者であり、国籍は天にある」と語っている(ピリピ人への手紙3章)。
聖書はイスラエル人の約400年間の「エジプト寄留」のごとく、「寄留」に大きな意味を賦与しているが、それは「福音の型」であるからだ。

アブラハムに長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのがイシマエルである。
正妻のサラは、いい気になった奴隷ハガルに苦しめられるが、サラの「自分の子」が欲しいという切なる訴えは神に届き、生まれたのがイサクである。
ちなみに「イサク」とは「笑う」という意味で、子どもが与えられたのがよほど嬉しかったのであろう。
こうしたサラの信仰について、パウロは次のように書いている。
「信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである」。
さて今度はサラによって、奴隷ハガル・イシマエル母子が苦しめられる番で、結局追い出される。
それでも神は、荒野をさまようハガル・イシマエル母子を見捨てようとはしなかった。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)
そしてハガル・イシマエル母子は、流れ流れてアラビア半島のメッカに移り住む。
彼らの子孫はアラブ人となる一方、イサクから続く系図はユダヤ人として今日のイスラエル国家を築く。
彼らは相互に、時に共存し、時に激しく対立してきたのである。
聖書は、ハガルが生んだ子イシマエルの子孫すなわちアラブ人に対して次のように預言している。
「彼は野ろばのような人となり、手はそべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵してすむでしょう」(創世記16章)。
パウロは、そんなサラとつかえ女ハガルについて、次のように述べている。
「アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。 女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。 さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。 しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす」(ガラテヤ人への手紙4章)。
このことは、パウロが別の信徒に書いた次の手紙の内容とも符合している。
「わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」(ローマ人への手紙7章)。
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは"アバ、父よ"と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる」(ローマ人への手紙8章)。

アブラハムを「福音の原点」とみるならば、そのアブラハムの福音の原点は、その「最大試練」にある。
神はアブラハムを試みて彼に言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
アブラハムはイサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは神みずから燔祭の小羊を備えてくださると応えて一緒に行った。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から「アブラハムよ、アブラハムよ」と声がかかった。
そして御使いは「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。
イエス・キリストの言葉に、この出来事を「福音の型」にしたような言葉がある。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音書3章)。
またパウロは信徒への手紙の中で、アブラハムの信仰について、次のように述べている。
「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのとり子をささげたのである。この子については、”イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう”と言われていたのであった。 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである 」(ヘブル人への手紙11章)。
パウロは、ここにアブラハムに「よみがえらせる力」つまり「復活の信仰」を見出している。

旧約の時代に、民の罪の赦しのために、燔祭(いけにえ)を捧げるのは本来「祭司」の仕事である。
その「祭司」の仕事はイスラエルの12部族のうちレビの子孫(レビ人)が行うことが定まっていた。
ところがアブラハムの時代に「レビ」はいまだ生まれていなかったのだ。
聖書には、アブラハムの時代にも、「メルキゼデク」という祭司がいたことが記されている。
この人については、「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であった」(創世記14章)と記されているのみである。
パウロはメルキゼデクにつき。
「彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである」。
さらにパウロは、イエス・キリストを、「永遠のメルキゼデク」という驚くような位置けをしている。
「彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである」と述べた。
さらに、「彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。 こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない」と断っている。
そして「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである」(ヘブル人への手紙9章)としている。
またパウロはイエスを神と人との「仲保者」として、次のように述べている。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない」(テモテの第一の手紙2章)。

神はアブラハムに「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」(創世記22章)と語った。
旧約の時代は「イスラエルの民」は神の民、それ以外は「異邦人」と区別しているので、「すべての国民を祝福される」という言葉を、アブラハムはどう受けとったのだろうか。
さて、イエス・キリストの系図の始まりは、「アブラハム・イサク・ヤコブ」と続く(マタイ福音書1章)。
ヤコブは神によってその名を「イスラエル」と改め、その子12人の系統に属するのが「イスラエル民族」である。
したがってアブラハムの兄弟、イサクの兄弟、ヤコブの兄弟の系統は、「異邦人」というくくりになる。
(例えばアブラハムの甥ロト→モアブ人、イサクの兄イシマエル→アラブ人、ヤコブの兄エサウ→エドム人)。
さて、ソロモン王の死後、ヘブライ王国は北のイスラエル王国(10部族)と南のユダ王国(2部族)に分裂する。
北の「イスラエル王国」は多くが偶像崇拝に陥り、アッシリアの攻撃やバビロン捕囚などにより離散し、「失われた10部族」ともいわれ、残存した人々も「サマリア人」とよばれ「半異邦人」扱いされた。
一方、南の「ユダ王国」はユダ部族と、ベニヤミン族の2部族で成り立ち、AD69年にローマに滅ぼされるまで「ユダヤ教」の信仰と伝統を守り続けた。
さて、イエス・キリストの系図は「アブラハム イサク ヤコブ "ユダ"・・・ダビデ・・イエス」となっているので、ダビデ王やイエス・キリストは12部族の中の「ユダ部族」に属していることがわかる。
そして、このユダ部族から「ユダヤ人」という名前で呼ばれるようになったのである。
アブラハムが神の声にしたがって、一族とともにメソポタミアのウルからパレスチナのカナンの地に入った時、一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。
そこでアブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼって見渡す原野を前にして、ロトにどちらの道に行くか選択させる。
ロトはその時点で見た目が「豊かで麗しく」見えた低地の方を選んだ。
ところが、年月が経るに従い、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄え、神の怒りが発せられ、ソドム・ゴモラの町は滅ぼされる。
神の怒りの火で滅ぼされる中、神の恩寵によりアブラハムの親族であるロトの一族のみが助け出される。
その時、ロトの妻は神の命に反して焼き尽くされる町を振り返ったために「塩の柱」となったとされる。
アブラハムが住む地は守られて祝福され、イサク・ヤコブとその子孫が繁栄していくのである。
ロトの子孫はモアブ人となり、モアブ人は異邦人のくくりだが、神はロトの子孫をも見捨てず、モアブ人の娘ルツがユダヤ人ボアズと結婚し、その血筋はイエスキリストの系図に「接ぎ木」されていく。
ところでパウロは、次のような自己紹介している。
「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」(エペソ人 への手紙2章)。
ところが、そんなパウロは、自分も"アブラハムの子である"というのである。
「アブラハムは"神を信じた。それによって、彼は義と認められた"のである。 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを知るべきである。 聖書は神が異邦人を信仰によって義とされることをあらかじめ知って、アブラハムに、"あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう"との"良い知らせ"を予告したのである」(ガラテヤ人への手紙3章)。