福津・宗像海岸線

NHKのローカル番組で、女優の財前直見が田舎で野菜を育てる映像をしばしば見かける。
財前の実家は、大分県の国東半島の杵築市(きつきし)太田地区にある。
敷地内にある墓地は「財前家宝塔」として国の重要文化財に指定されている。
著書によれば、祖父から父へと受け継がれた1800坪の田んぼや山がある土地とのことで、山では梅やかぼすに柚や栗などが収穫できるそうだ。
食材は調味料など以外はほぼ自給自足で、実家の畑や山で採れるものを調理して食べている。
土の中には微生物がたくさんいて自然に循環している。人間も植物と同じで、土の上を歩くのは、大地を踏み締めている感があって体に良い、とは本人の弁。
財前は2008年に東京都から大分県に移住しており、当時の夫と実家の隣に二世帯住宅を建てて暮らしていた。
しかし現在では引っ越して、大分市内の自宅で息子と暮らしている。
大分に移住した理由について、「女優の子として子どもを育てたくなかった。大分にいたら、私の両親が一番愛情を注いでくれますし、近所の人たちも私が小さい頃から知っている人たちですから安心です」と語っている。
ところで大分といえば別府、温泉ばかりかその展望景観はそれ自体が観光資源になっている。
海に向って広がる扇状地を斜面にして市街地が展開していることで海からの景観が美しく、どこか外国に来たような華やいだ気分になる。
実際、海から見た別府市街地は、ベズビオ火山を背景に湾に向かって広がる美しい地中海都市ナポリと比較され「東洋のナポリ」と言われる。
我が地元福岡県にも、ある外国人が「ナポリに似ている」と評する長く湾曲した海岸線が存在する。
それは、福岡市と北九州市の中間地点にある福津市と宗像市の西側に伸びる海岸線である。
近年では、光の道で有名な「宮地嶽神社」や、世界文化遺産「神宿る島宗像・沖ノ島と関連遺産群」のひとつ「新原・奴山(しんばるぬやま)古墳群」によって知名度が上がった。
2023年9月、偶然にもNHK「イタリア語講座」にチャンネルが合って見ると、そこには「福津の海の風景」が広がっていた。
それも、玄界灘に囲まれた北西部の「渡(わたり)半島」の塩浜辺りで、海の透明度が高く、恋の浦海岸と白石浜海水浴場の二つのビーチが広がる。
この地区で農園レストラン「アプテカ フレーゴ」を営むシルビオさん・愛さん夫妻が紹介されていた。
シルビオ・カラナンテさんは、イタリア南部のナポリ出身の料理人で、津屋崎出身の花田愛さんがイタリア滞在中にシルビオ・カラナンテさんと出会い、現地にて結婚した。
その後しばらくイタリアで暮らしていたが、夫婦で一緒に“食”に関する新しいことを始めようと、2007年にご主人を連れて福津市へUターン。
愛さんによれば、ナポリは、渡半島の海岸や福間海岸、大島辺りの雰囲気に近いところがあって、夫もきっとこの地域を気に入ってくれるだろうと思ったという。
シルビオさんも、初めて訪れた時、自然に囲まれた素晴らしい場所だなと感じた。
海も山もすぐそばにあって、海の美しさが僕の故郷・ナポリと似ている感じたと述べている。
シルビオさんは、移住後に福岡市内のレストランに勤め、シェフとして活躍していた。
しかし当時はイタリア野菜をつくる生産者がほとんどおらず、料理人のシルビオさんにとってはもどかしい日々だったという。
ナポリ人はイタリアの中でも野菜好きとして有名で、こちらで手に入らないのなら自分たちでイタリア野菜を育てようと一大決心をする。
近所の生産者に協力してもらい、まずは4種類の野菜づくりから着手。こうして、シルビオさん・愛さんの農家暮らしが始まった。
シルビオさん夫妻はファーマーズレストランを開くために福津市内の物件をあちこち探し、その中で一目惚れしたのが、渡エリアのこの古民家だった。
もともとは農業夫妻の住居だったそうで、築50年近くの一軒家と倉庫、さらに小さな畑付きの物件。
シルビオさん夫妻も同じ農家としてシンパシーと縁を感じ、この場所を引き継ぎたいという思いが込み上げてきたそう。
渡エリアには、慣れないながらも農業に奮闘する二人を見て「がんばって!」と声をかけ、温かくサポートする生産者がたくさんいた。
きさくで優しく、土のことやビニールハウスのノウハウ、有機栽培のコツなど色々教えてくれた。
その後も空いている畑を貸してもらったり、困った時はアドバイスをもらったり、人に恵まれているなと実感したという。
そして古民家をリノベーションして、2017年にファーマーズレストラン「アプテカ フレーゴ」をオープンした。
イタリア語で「何でも揃う」という意味のイタリアン八百屋「A.PPUTEC(アプテカ)」と、ファーマーズレストラン「FLEGO(フレーゴ)」を合体させた名前。 その店名どうり、「自然農園」を看板に無農薬・減農薬のイタリア野菜をつくり始めて、現在では80種類を育てている。
イタリア野菜がつくられるナポリ近郊の畑は火山性土壌だが、渡エリアも肥料を吸収しやすい土質で野菜づくりに最適な土地である。
シルビオさんによればこちらのの方が野菜の旨味が凝縮して、おいしく育っていると語った。
これまで4度ほどナポリからご家族が来日したそうだが、野菜好きのお母様も太鼓判を押したほど、いきいきとした野菜が着実に育っている。
個人的このレストランを訪ねて、ピザに乗っかったトマトの新鮮さがいつまでも口内に残ったが、印象に残ったのはなんといっても金色に輝く大きな「ナポリ窯」であった。
広いテラス席がもうけられたレストランを出て裏手に回ると、徒歩わずか10分で美しい白石浜海岸にでることができる。
白石浜海水浴場は、約1.6km続く砂浜は粒子が細かく、砂の上を歩くと「キュッキュッ」と音がする“鳴き砂”として有名。
海の透明度が高く、毎年7~8月は海水浴場として開放される。
また近くの小山にある「森神社」も神秘的で、長い階段を登った先に本殿が建つ。

今から30年ほど前に、ある講演会で「漂着物事典」(海鳥社)の著者・石井忠先生の話を聞いたことがある。
その話の中で、「白石浜海岸」の話がでたことをよく覚えている。そこで語られた漂着物の話がとても印象的だったからだ。
その話の内容を確認すべく、その著書「漂着物事典」を手に取ると、最初に次のように書いてあった。
「私が住んでいる所の浜に出てみよう。そこは宗像郡(現福津市)福間町花見浜で、南に糟屋郡新宮町磯崎鼻、その向こうに霞んで志賀島、碗を伏せた形の玄海島、正面に相島、さらに、ぼうっと沖に小呂島が浮かぶ。
北に目を転じれば、宗像郡津屋崎町の大峰山にある東郷公園、戦艦三笠のマストをかたどった記念碑が見える。突き出た曽根ノ鼻があり、新宮からここまでの弧状の海岸は約11キロ」。
さらに、北のほうに続く景観を次のように述べられている。
「渡半島の北端・津屋崎町俵瀬から玄海町草崎までは、白石浜、勝浦浜があり、約6.5キロ。 草崎から玄海町鐘ノ岬の間には江口浜、上八浜があって、約8キロ。鐘の岬と遠賀郡との郡境・黒崎鼻までの深浜は1.5キロ。 さらに遠賀郡岡垣町芦屋浜と、浜が続く。突き出た岩礁部と弧状の砂浜は”ひろげたパラソルのふち”と詩的に称される」。
石井先生が歩く範囲は、この「パラソルのふち」とよばれる屈曲に富んだ海岸線約56キロなのだそうだ。
石井先生は著書の中で、自分の経歴やプライベートについても、次のように書いている。
1968年に糟屋郡粕屋中から新宮中に転勤、古賀市の名糖工場近くに家を借り、そこから二人の娘達を散歩に連れていった。
娘が拾う貝に熱中し、毎朝、津屋崎までを歩き、日祭日は遠歩きをした。
また貝類図鑑を買い、貝の名前を調べ、とうとう貝類学会に入会した。頭の中は「貝・貝」だった。
貝採集は波打ち際とか、漁師の網干場等が好採集地で、かならず目を通す、死殻だけでなく生貝のいい標本が得られるからである。
学会に入会してもあきたあらず、地元福岡に「福岡貝類懇話会」があるのを知り、福間町の魚住賢司氏等を知り、採集や研究会に参加した。
ある日近くの魚住氏宅を訪ねたところ、貝の膨大なコレクションと見事な展示、整理に圧倒されて、貝採集に限界を感じた。
また「懇親会」のメンバーには旧軍出身で戦時にはヤップ島守備隊として働いた人もして、南方産と思われる漂着果実や種子などを持参し、見てもらったり戦時の話を聞いたりした。
海亀、イルカ、鯨骨、南方果実類をはじめ、分からぬものは、大学、特に戦前の南方を知っている先生に手紙を出し同定を受け、また標本類を持参して見てもらった。
民俗学では谷川健一や国立民族学博物館館長の故梅棹忠夫、九大名誉教授の故中村正夫等にはずいぶんとお世話になったという。
谷川健一氏からは、漂着物を「渚の百科事典」という言葉をいただいたらしい。
漂着物には自然界もものだけではなく、歴史や社会情勢を反映したものも少なくない。
石井先生は、1974年12月、長崎県・松浦高校の池崎善裕先生から手紙をもらったと記している。
松浦海岸に漂着したオサガメを解剖したところ、 大量のビニールを食べ、それが食道に詰ったことが、死因であることが書かれてあった。
早速学校を訪ねて話を聞き、詰っていたビニールを見 せてもらったところ、ビニールに印刷された文字はみな日本語で大変ショックだったと書いている。
オサガメはクラゲやサルパを食べるが、漂っているビニールをクラゲと間違えて食べていたのであった。
石井先生自身、大量のビニール類の漂着の多さが気になっていた頃だった。
今、世界中を悩ませている「プラスチクス問題」はこのころから始まっていた。
1987年11月8日、白石浜から勝浦浜を歩いていたら韓国製の牛乳パックが漂着、パックの日付は10月28日で、11月8日に漂着したしたがパックには消息不明の少年を探す写真入だった。
今思えば拉致であったのであろう。日本人の「拉致」もこの頃あったとも書いている。
さて、玄界灘海岸に漂着する海亀は、オサガメ、アカウミガメ、アオウミガメ、タイマイ、ヒメウミガメ等5種があり、アカウミガメは、福津市恋の浦、勝浦浜、遠賀郡・岡垣浜に産卵にあがる。
それはなによりも、この海の透明度を物語っている。
福津市には「ウミガメ課」もあり、ウミガメに対する保護は市民と共に行なっている。1987年6月に福岡市・海の中道でウミガメの這った跡を見つけたが、卵は掘られてなくなっていた。
勝浦海岸(福津市)は、福津市で最も大きい砂浜で、浜の長さは約5000m、奥行きは約40m、砂粒が細めで白い砂浜である。
数年間隔でアカウミガメの上陸が見られる。
後背地は保安林で民家があり、「勝浦うみがめ塾」の活動する浜で、同団体は福津市からウミガメの保護監視業務を委託されているため、移植した卵の管理が容易である。花火や焚き火は厳禁で、車の乗り入れもできない砂浜である。
ところで、漂着物は沿岸民に恵みを与えたし、珍奇なものは神や仏として崇められた。大量漂着や赤潮の海を見ると、悪い予兆として畏怖した。
石井先生の「漂着物事典」で最も印象的だったのは、次の箇所である。
「長い間海岸を歩いていると、時折不思議なことに出会う。流れ寄った石や木がまとわりついてきたり、じっと見つめているような視線を感じたりするのである。拾わないといつまでも気になり、また数日していくと、どこにも流れず待っていたかのように、その場にある。
別に漂流物として家にもってかえるほどのだいじなものではないのだが、何かが感じられて拾って帰ることが多い。近くに祠(ほこら)があれば置いていくこともある。
そして、その祠のなかに海から拾ってきたと思われる丸石や流木が置かれていたり、私と同じような体験をしていると苦笑したりもする。
漂着した石や木片に、どうしても無視できない何かを感じるのはいるんだなと苦笑したりもする。
漂着した石や木に、どうしても無視できない何かを感じるのは一体何故であろうか。
この感じが、昔の人たちが言う、神が宿っているとか、常世からやってくる神というものであろうか」。
さらに石井先生は、「北津軽の民族」(早川孝太郎)にあるイタコの事例を取り上げている。
「イタコになるためには、まず浜に出て寄っている石を拾うことから始まると書いている。
その石には本人しかわからない神の姿や動物の貌が表れているという。
また、ただものではない石を拾ったら、一ヵ所に置き、後出来た人がまた積み、そうして石が集まった所を”賽の河原”とよぶことなどを紹介している」。
個人的に以前、石井忠先生の講演を聞いた時、「白浜海岸」とともに語られた話と重なる部分を「漂着物事典」で確認すると、次のように述べられていた。
「1979年9月初め、宗像郡津屋崎町白石浜の波打ち際に台湾の青天白日旗を印刷したビニールが数枚散らばっていた」。
それらのビニールには「中華民国第六任総統蒋経国先生」と書かれ、青天白日旗を背に眼鏡をかけた人物が印刷され、裏には上が青天白日旗、下に「中華民国中央政府宣布」と記されていた。
漂着したものが散らばった感じだったので、何か容器におさまったものとという感じがしたが、2か月後に白石浜に高さ14センチ、直径8センチのプラスチック製の容器が流れついていた。
この容器は台湾から中国本土に「政治宣伝」の目的で流されたもので「海漂器」とよばれている。
その容器には台湾の経済力を示す工場の姿を写真やパンフレットが含まれていた。
今の中国本土の経済発展を考えると隔世の感がある。
勝浦海岸から、宗像神社にゆかりの「神の湊(こうのみなと)」まで歩いても30分、そこからさらに北上すると鐘崎(かねさき)に着く。
鐘崎の海岸に面した「織機(はたおり)神社」には、海女(あま)の装束を纏った「ギリシヤ彫刻」を思わせるような女性像が立っている。
驚いたのは、その足元にある石版で、そこに「海女発祥之地」とあった。
宗像三神は、日本書紀に登場する女神であるが、このあたりが日本の「海女発祥の地」であるというのも、面白い因縁である。
鐘崎は、「魏志倭人伝」にも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになった。
五島列島・対馬・壱岐・朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。
そして各地で漁を教え、住みついてった。
江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
また鐘崎の西方沖に浮かぶ筑前大島には、宗像三神のひとつの「多岐津姫命(たぎつひめのみこと)」を祀る中津宮がある。
筑前大島は、遠藤周作の「沈黙」でロドリゴ神父のモデルとなったキャラ神父が漂着した島である。