二日市温泉周辺を歩く

大宰府や二日市は歌碑や句碑がとても多いところである。JR二日市駅を降りると正面に「野口雨情」の歌碑があり、二日市温泉・御前湯の玄関横には、夏目漱石の句碑がたっている。
一方、駅側面にたつ「佐藤栄作顕彰碑」は、見落とされがちだ。佐藤栄作は1901年3月、山口県に生まれた。 山口中学、熊本五高から東京大学へと進み、1924年に卒業後鉄道省に入った。
佐藤は郷里に近い門司鉄道局勤務となる。鉄道省では高文試験合格者も、改札の切符売りから車掌、機関車のかま焚きまでやらせるのがならわしであった。
1年8ヶ月の見習いを終わった後、1925年2月いとこである松岡洋右の妹の長女・寛子と結婚。
結婚してまもなく、佐藤は鹿児島本線二日市駅駅長に配属となり、ここで4ヶ月ほどを送った。
浅黒くてイケメン改札の佐藤を芸者達は「黒砂糖さん」と呼んでいて評判だったそうだ。
1927年には下関運輸事務所営業主任・門司鉄道局庶務課文書係長などを勤めた。
1974年、「ノーベル平和賞受賞」を記念して二日市駅側面に「佐藤栄作顕彰碑」が建てられた。
石碑の中央に「和」という文字が刻まれている。
授賞より約50年前、ここで切符を切っていた駅員がノーベル平和賞を受賞するなど、誰が想像できたであろう。
さてこのJR二日市駅に近い大宰府天満宮では、正月三ケ日、参拝客に溢れている。
梅が枝もちを焼く香ばしいにおいが立ち、合格祈願つきのお土産の店がならぶ。
その参道のつきあたり天満宮の入口に「五卿遺跡碑」と刻まれた石碑が立っている。
現在、宮司・西高辻邸がある場所であるが、江戸時代までは、ここは安楽寺「延寿王院」といわれていた。
歴史好きでないと見過ごしてしまう石碑だが、ここは幕末の五人の公家の3年以上にもおよぶ滞在場所であった。
さらには、彼らとコンタクトをとるために坂本龍馬や西郷隆盛らが、現在は土産物屋になっている旅館に宿泊していることもあまり知られていない。
彼らが泊まったの宿は「泉屋」「大野屋」「松屋」などで、その屋号の店が今でもみられる。
なぜこの五人の公家が大宰府に3年の長きに渡り滞在することとなったのか。その経緯は次のとうり。
1853年のペリー率いる黒船来航以来、日本国内では開国か攘夷かとゆれる中、当時「雄藩」とよばれた長州藩や薩摩藩は、それぞれ公家と結びついて朝廷での発言力を高めようとした。
朝廷と手を組んで政治を動かそうという「公武合体」の動きが諸藩の中から出てくる一方、桂小五郎や高杉晋作、久坂玄端らの攘夷運動を受けて「攘夷派」となっていた長州藩は、公家の三条実美(さんじょうさねとみ)らと結んで、朝廷に攘夷(外国船打ち払い)を実行するよう働きかけていた。
これに対抗したのが、天皇の妹が将軍に嫁ぐなどして朝幕の融和をすすめようとした「公武合体派」の薩摩藩や会津藩で、このふたつの藩は手を組んで、1863年長州藩を京都から追い出すことに成功する。
いわゆるクーデターで、この事件のことを「八月十八日の政変」という。
この日以来、長州藩は過激な攘夷派として煙たがられる存在になり、長州派だった三条実美たちも官位を剥奪され京都からおわれ、長州へと逃れる。
これを「七卿落ち」というが、彼らは三田尻、湯田と転々としたあげく、第一次征長戦争の「停戦条約」にしたがって長州から離れ九州へむかった。
7人のうち沢宣嘉は平野国臣とともに生野で挙兵し、錦小路頼徳は結核で病死している。
他の五卿すなわち三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌は、1865年2月、長州藩から筑前黒田藩が支配する太宰府「延寿王院」に移され、福岡藩の監視下にはいる。
大宰府周辺の上水城、阿志岐、二日市、針摺、武蔵などには彼らの見張り番所も置かれた。
しかし福岡藩自体の揺れもあり、その監視はさほど厳しくはなく、「延寿王院」は西郷隆盛や坂本龍馬、筑前の月形仙蔵・平野國臣など勤王の志士達の新しい政治をめざす場ともなったのである。
つまり「延寿王院」は「討幕」という思想統一の場であり、薩長連合の構想の舞台ともなり、三条実美と京都の岩倉具視を結びつける「震源地」ともなったのである。
現在、「延寿王院」に隣接した大宰府天満宮内に「五卿記念館」があり、その遺物および参考品などは宝物館にも陳列されている。
さて、湯の町二日市温泉から九州自動車道の高架の下をくぐると、 天拝公園の先に緑茂る「武蔵寺(ぶそうじ)」がある。
この寺は、九州最古の寺といわれ、菅原道真ゆかりの天拝山登山道の入り口ともなっている。
伝説の「虎丸長者」がこの寺を建立し始めたが、完成を見ぬまま死に、寺は久しく廃墟となった。
その後、武蔵の池上よりやってきた日蓮宗の僧侶がこの寺を完成させ、この寺を武蔵寺と称え、村の名も「武蔵寺」と名づけた。
五人の公家たちは、この辺りにもやってきて歌を詠んだようで、五卿それぞれの歌碑が周辺にいくつも建立されている。
そればかりか、二日市、通古賀、関屋、水城などの旧家には五卿の「遺墨」を散見することができる。
彼らは、大宰府周辺の勤皇派の庄屋、造り酒屋等を訪れ、求めに応じて得意の和歌を詠んだりもしている。
三条は山家宿の山田勘右衛門宅に「洗心亭」の額を送り、阿志岐の平山洗十郎宅でも一首残している。
また、医師岡部忠徳宅で治療を受けた中で歌をよむなど、五卿の麗筆は今日まで大切に伝えられている。
三条実美の歌碑が二日市温泉「大丸別荘」玄関前に立つが、王政復古を目指し激しい心情を遊ぶ鶴に託し詠んでいる。
「ゆのはらに あそふあしたつ こととはむなれこそしらめ ちよのいにしへ」。 大丸別荘は1865年、ここに「田代屋」という小さな宿を開いたのが始まりで、昭和天皇も宿泊された老舗旅館である。
二日市温泉は、奈良時代に「次田の湯」として大伴旅人の歌に詠まれている。
また温泉街中心に位置する「御前湯」は、現在誰もが気軽にはいれる湯であるが、江戸時代黒田藩主専用の温泉として使われその名が屋号として残ったもの。
そこが、幕末維新前夜の志士たちや五卿の心を体を癒した場所であったことが想像できる。
夏目漱石は22歳ころから俳句を作り始め、1986年6月に赴任先の熊本で結婚し、この二日市温泉の句は結婚間もない9月の始めに一週間ばかり二人で九州旅行をした。
その時詠んだ句が「温泉(ゆ)の町や踊るとみえてさんざめく」で、二日市温泉「御前湯」の前庭に、この句碑がたっている。
また二日市温泉で「大丸別荘」と並ぶ老舗旅館の一つ「玉泉館」は俳諧の宿とも呼ばれ、俳人たち、殊に「ホトトギス」の高浜虚子一門に愛されている旅館である。
玉泉館の玄関脇には高浜虚子の「更衣したる筑紫の旅の宿」という句碑が立つ。
この句は、虚子が1955年5月14日「ホトトギス」七百号大会のために空路福岡に来た際詠んだものだという。
また玉泉館の中庭には、息子の高浜年尾と孫娘稲畑汀子(いなはた ていこ )の句碑がある。
「ゆ温泉の宿の朝日の軒の照紅葉 年尾/梅の宿偲ぶ心のある限り 汀子」
福岡で高浜虚子との関係で思い浮かぶのが、なんといっても杉田久女である。
杉田は1890年官吏であった父赤堀廉蔵、母さよの三女として父の赴任先の鹿児島市で生まれた。
本名ひさ(久)。父の転勤に伴い、鹿児島から沖縄、さらに台湾へ転居を重ね、1902年、名門の女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)附属高等女学校に入学した。
1909年に旧制小倉中学校(現小倉高校)の図画教諭杉田宇内(うない)と結婚し、小倉市(現北九州市小倉北区)に転居した。
夫宇内は東京美術学校(現東京芸術大学)卒業の秀才であった。久女26歳のとき、家を訪ねてきた兄の手ほどきで俳句と出会った。
俳句雑誌ホトトギス入選するなど頭角を現していった。
そしてホトトギスを運営し当時の俳壇の実力者であった高濱虚子は「男子の模倣を許さぬ特別の位置に立つてゐ(い)る」と高く評価した。
1922年 「足袋つぐやノラともならず教師妻」の句は、芸術活動と家庭生活との両立に悩み、夫宇内との離婚問題もあったようであるが、娘たちを思い家庭に戻ることを選択した心境を詠んだものとされている。
1931年「日本新名勝俳句」に応募し、英彦山(ひこさん)で詠んだ 「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ」が全国10万3千余句の応募の中からわずか20句に授与される帝国風景院賞を受賞した。
それから34年にかけては久女の俳句にとって最良の時期であった。
しかし1936年10月、ホトトギスに「同人のうち杉田久女ら三君を削除」するとの同人変更の社告が掲載された。
三人のうち二人は当時盛んだった新興俳句運動の中で、虚子との対立が鮮明だったが、久女の除名ははっきりとした理由がわからず、多くの俳人を驚かせた。
ホトトギス俳壇から遠ざけられた久女だが、他の俳句結社に移ることはなく、ホトトギスに投句を続けた。
戦時中は、句稿とともに防空壕に避難し作品を守ったという。
しかし、終戦直後の1945年10月、精神を病んだようになり太宰府の県立筑紫保養院(現・福岡県立精神医療センター 太宰府病院)に入院、3カ月後に他界している。
JR久留米駅に近い「梅林寺」を訪れた際、たまたま「菅虎雄」という人物の顕彰碑を読んで驚いた。
そこには、哲学者安倍能成の言葉があり、「漱石が生涯を通じて最も仲のよかったのは菅虎雄であろう」と書いてあった。
菅虎雄はドイツ文学者であるが、夏目漱石との交流を通じて、日本文学に少なからぬ影響を与えている。
「苦しい時の友こそ真の友」というのならば、漱石にとって菅虎雄以上の存在はいない。
菅虎雄は久留米の典医・菅京山の子として生まれている。
最初は東京大学医学部予科に入学しながら文科に転科、帝国大学文科大学独逸文学科1回卒業生となった。
「菅虎雄」が漱石伝記上に初めて姿を現すのは、1894年秋、東京・小石川指ヶ谷町の菅の新居に2、3ヶ月寄寓していた時のことである。
漱石が、突然漢詩の書き置きを残して飛び出したことがあるが、漱石の悩み事(恋愛)に関係があると思われる。
菅は、煩悶を抱え参禅したいという漱石のために鎌倉・円覚寺への紹介状を書いたり、胸の病に罹患したのではないかと心配になった漱石を北里柴三郎博士のところへ連れていったりもしている。
それにもかかわらず、翌年4月、漱石は何もかも捨てる気になり、東京専門学校と高等師範学校の教師を辞している。
この苦境を打開するために、愛媛県尋常中学校嘱託教員となる道を開いたのが、菅虎雄である。
当時、愛媛県参事官であった浅田知定(久留米出身)は同郷のよしみで菅に英語教師 1人の人選を依頼、菅が漱石に口をかけたら承諾した。
しかし、漱石は松山での教師生活には不満があったようだ。菅への手紙で、「当地の人間随分小理屈を云う」とか、「松山中学の生徒は出来ぬくせに随分生意気」とかいったことを書いている。
もっとも、こうした不平があったればこそ、名作「坊っちやん」が誕生するのであるが。
1896年4月、菅は熊本五高のドイツ語教授であったが、英語教授が必要になり、そんな漱石を推薦したところ採用された。
漱石は熊本にやって来て、菅の家(薬園町)にしばらく寄寓していた。
このように菅はしばしば漱石の苦境を救っている。
したがって、もし菅の存在なければ、「夏目漱石」という文豪の誕生もなかったのではないか。
ちなみに、夏目漱石と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の間には、ちょっとした縁がある。
漱石は30歳の頃から4年間、熊本の第五高等学校で教鞭をとったが、八雲も漱石が赴任する2年前まで同じ五高に在籍していた。
また、ロンドン留学から帰国した漱石は、ほどなく東京帝国大学・英文科の教壇に立つが、その前任者も八雲だった。
さて、九州熊本に職を得た夏目漱石は、1896年9月に新婚旅行で「二日市温泉」にきており、また、1897年 3月の終わりから 4月の初めに、久留米米方面に旅行している。
その一方で翌年9月に、菅虎雄は一高に転じ、その後、清国政府の招きで一高在官のまま南京三江師範学堂教習となって赴任した。
そこで書画の名士、清道人「李瑞清(りずいせい)」について「六 朝(りくちよう)」の書法を学び、学堂の往復以外一歩も家を出ず、その書法を会得したという。
また、夏目漱石も熊本五校から東大・一高に転じるが、1907年4月に、朝日新聞社に入社し、京都旅行に行っている。
そして菅虎雄と比叡山に登り、「虞美人草」を入社第 1 作として発表する。
漱石は終生菅虎雄を信頼し、「虞美人草」の宗近一は菅虎雄をモデルとしたものと言われている。
そして、菅虎雄も漱石の「文学評論」の題字、夏目家の表札、夫妻の墓誌などを揮毫してやり、その友情を後世に伝えている。
前述の久留米の梅林寺外苑に「漱石句碑」と「菅虎雄先生顕彰碑」建てたのは建てた「菅虎雄先生顕彰会」である。
この会によると、「草枕」の冒頭の「山路を登りながらかう考へた」という部分は、久留米が舞台なのだという。
漱石が見た春の風景は、漱石が久留米に行った時に高良山に登り、今の耳納スカイラインを通った時のものだという。
久留米市では、そこを「漱石の道」と名付けて句碑5つを作っている。
そんな夏目漱石と菅虎雄の友情は終生続いた。
1909年8月15日、菅虎雄夫人の静代が、お産のあと7月初めから体調を崩していたが、この日に病没した。
翌日、42歳の漱石は朝一番で小石川久堅町の菅虎雄の家を、弔問のためかけつけた。
菅夫妻の間には四男二女がいたが、上の3人の子は、漱石もよく知っていた。
そんな子供らを残していく夫人もさぞや心残りだったろうし、あとを引き受けていく虎雄の寂しさや大変さも思いやられると、手紙に残している。
菅夫人の葬儀は、龍岡町(湯島)の麟祥院で執り行われ、菅は友人とともに出席している。
生前、漱石は菅に「おれの所の門札は君が書いてくれたが、もしおれがお前より先に死んだら、俺の墓も書いてくれないか」と言うので、菅は「もしおれが先に死んだらお前さんが書いてくれ」と言って、互いに死後の約束をした。
1916年12月、漱石が先に亡くなって、菅は約束通り漱石の墓の字を書いた。東京・目白の「雑司ヶ谷墓地」にある漱石夫妻の墓がそれである。
ちなみに菅虎雄は、芥川龍之介からも尊敬され、芥川の処女刊行本「羅生門」の題字も書いている。
菅虎雄の霊は、久留米梅林寺の菅自身の筆になる「菅家累代之墓」の下に眠っている。
夏目漱石はある時期、菅虎雄にその人生を預けた感さえあり、漱石の文学にも多大の影響を与えた。
なぜなら漱石が松山に行くことも、熊本に行くことも、それをすすめて手配したのが、菅虎雄であったからだ。
その意味で、菅虎雄は夏目漱石の「人生の指南人」であったともいえそうだ。