ワグネルと大陸浪人

2022年6月、ロシアのプーチン大統領に反乱を起こしたのが、かつてのプーチンの料理長プリゴジン。
そんなプリゴジンは、プーチンと親密な関係を築いて外食産業で成功し、オリガルヒ(新興財閥)に成長するが、そこにはもうひとつの顔があった。
それは「介入工作」や傭兵部隊の国外派遣といった「汚れ仕事」を引き受けてきたとされる。
2016年のアメリカ大統領選では、関連企業が米国人を装った「偽アカウント」を使うなどして、米国世論にも影響を与えたとされる。
ウクライナへの侵攻では、民間軍事会社「ワグネル」を率いて当初から参加した。
キーウ(キエフ)近郊ブチャでの大量の民間人殺害にも関与した疑いがある。
ロシアは本来、傭兵は「非合法」であるためプーチン政権もワグネルの存在を否定し、その存在は「公然の秘密」とされた。
しかしプリゴジン自身が2014年に創設したことを明らかにしている。
きっかけは同年5月、モスクワが不法に併合したクリミアでロシア軍を支援し、ウクライナ東部の「親ロシア派分離主義者」するためであった。
その後ワグネルは過去8年間で、シリア、リビア、スーダン、マリ、中央アフリカ共和国、マダガスカル、モザンビーク、ベネズエラで活動を展開してきた。
2022年2月、ロシアはウクライナに侵攻、緒戦で大きな損害を被り、プーチンは戦場での助けをワグネルに頼らざるを得なくなった。
ワグネルは、ロシアの刑務所から戦闘員を募り戦力を増強。2023年、自社の戦闘部隊がウクライナ東部ソレダルを制圧するなどの戦果をあげた。
さらに東部ドネツク州の要衝バフムトをめぐる激しい戦闘にワグネルは「囚人部隊」を投入して突き進んでいった。
この戦いは、ウクライナ軍とワグネル軍の激しい戦いとなり、ロシア軍上層部、とりわけショイグ国防相、ゲラシモフ参謀総長とプリゴジンの対立が激化していった。
2022年末くらいからプーチンはロシア軍幹部の肩を持つようになり、2023年1月にゲラシモフをウクライナの戦域司令官に任命した。
ロシア国防省はワグネル軍への武器・弾薬の補給を制限するなどしてワグネルに嫌がらせをし、ワグネル軍とウクライナ軍をバフムトで消耗させることを画策、ワグネルをバフムトで「捨て駒」にしようとした。
それでもワグネルは多大な損害を出しながらも4月にバフムトを制圧した。
しかし5月5日には「武器弾薬不足」を理由に一方的にバフムトから撤退すると発表する。
その時プリゴジンはワグネル兵の遺体が多数横たわる中を歩く自らの動画をソーシャルメディアに投稿し、ロシア国防省を激しく非難した。
プーチンは、ウクライナ戦争が泥沼化する中、ワグネルはモスクワに進撃するなどしたため、6月に「反乱」を宣言した。
しかし、ベラルーシの大統領による仲介もあって、プリゴジンは進撃の中止を決めて撤収。
ロシア国内では、ワグネルを含むプリゴジンの企業グループは解体が進み、ワグネルは武装解除することがきまったものの、ベラルーシに留まって対NATOの戦いは継続している。
ロシアのウクライナ侵攻で多くの戦闘員を送り込んできたワグネルは、アフリカでも幅広く活動し、さまざまな利権を得てきたとされる。
きっかけは2010年代初めの中東のシリアや北アフリカのリビアの内戦で、ロシア軍が様々な形で介入していた。
その際に結成された「ロシア民兵の軍団」がワグネルの前身となった。
ロシア政府は内戦国を入り口として、周辺にあるアフリカの国々への関与を深めていった。
具体的には、武器の輸出や「軍事指導」を担うワグネルの戦闘員を派遣するようになる。
特に、中央アフリカ共和国は、2016年に旧宗主国フランスが兵士の大半を引き上げたことで、ロシアに急接近することになる。
2018年からロシアの元軍人を「軍事顧問」として受け入れ始めるが、その中にワグネルの戦闘員も含まれ、大統領の警備もしてきた。
そうしたロシアの本当の狙いは何か。アメリカのシンクタンクによれば、ロシアが軍事支援の見返りとして、「金・ウラン・ダイヤモンドへのアクセスを得た」と指摘している。
またアメリカのある調査系NPOの報告書によれば、金やダイヤモンドなどの鉱山にはワグネルのグループ会社が参入し、その利益はワグネル幹部やロシア政府にも流れていたとされる。
21年末には、ワグネルや傘下の民間軍事会社から、計2600人もの軍事顧問が派遣されていて、ワグネルの反乱でロシア政府とワグネルの溝が深まっても、継続されるとみられている。
プリゴジンがいなくても、プーチン寄りのワグネルの指導者はいるからだ。
そして銘記すべきは、アフリカ側にもワグネルを受け入れる「下地」ができていたことだ。
アフリカ諸国は政治、経済的に旧宗主国からの脱却を試みるなかで、欧米が中核になってきた国際機関への反発も生まれていた。
大極的に世界をみると、米国が後退し、中国の存在感が大きくなっている。そうした「隙を突く」ように2017年頃から、ワグネルが本格的にアフリカへと入っていったのである。

ワグネルの活動が報道される中、戦時中、日本にも似たような活動をした組織があったことに思い至った。
それは、「大陸浪人」という存在で、日本軍の「特務機関」と結びついて様々な活動をしてきた。
彼らは表面上は特定の組織に所属せず、自らを「浪人」や「(脱藩)志士」になぞらえたことから、「大陸浪人」「支那浪人」という呼び名が発生したとい われている。
初期の大陸浪人のルーツは、征韓論などによって大陸への軍事的行動が初めて議論された時期に清や朝鮮へと渡った不平士族や商人たちとされる。
実際位、李氏朝鮮末期の政争(甲申政変など)に彼らが関与したことでその行動が注目されるようになった。
また、幕末・明治維新の騒乱期を迎え、士族反乱や自由民権運動の挫折と明治政府体制の確立によって新しい「国家作り」に参加できなかった層でもあった。
彼らは続く欧化主義への反感などから国家主義あるいは「アジア主義」に目覚め、日本を飛び出して支那大陸や朝鮮半島に活動の舞台を求め、日本の大陸への進出に何らかの形で関与しようとしたのである。
福岡では討幕という方向で「藩論」をまとめられず、維新政府に人材をだすことができなかった。
そんな中、アジアと連携して藩閥政府と対抗しようという「構想」を抱く者が現れた。
その代表的存在が、玄洋社を率いた頭山満や黒龍会代表の内田良平などである。
彼らは、日本政府の対外政策に関わる調査や軍部の支援による地勢調査などを行って、中国語や複雑多様な現地情勢に通じた「支那通」と呼ばれる人々を輩出する。
また政府・軍部に共同する日本の財界より、様々な口実で「資金援助」を受け、次第にその活動が限定されていく。
日清・日露の戦争においては、前述の「支那通」が日本軍に積極的に協力して通訳や諜報、後方攪乱、特務工作などに従事したことがその表れである。
こうした戦争を通じて「大陸浪人」はむしろ積極的に日本政府・軍部及び世論の対外強硬論を導き、自己の存在感を認めさせようとした。
さて「大陸浪人」のなかで、現代に至るまで、日本政治に隠然たる影響力を持ち続けた「黒幕」(フィクサー)とよばれた人物がいる。
1976年、田中角栄首相や丸紅の幹部が、航空機選定にあたり賄賂を渡したという贈賄の容疑で逮捕された「ロッキード事件」で、ロッキード社と日本の政治家の仲介役を果たしたのが、大物フィクサーといわれた児玉誉士夫(こだまよしお)である。
フィクサ-として名前を知られた児玉誉士夫は戦争中、中国で日本海軍航空本部の物資調達にあたる「児玉機関」を上海に創設した。
「児玉機関」は、中国で流通していた古銭を溶かして電気銅に再製しアルミにつかうボ-キサイト、絶縁体に使う雲母、タングステン、ニッケルなどを航空本部に供給するなどした。
このような戦略物資の調達を海外で行った点で、児玉機関はワグネルと共通している。
鳩山一郎の「新党結成」準備会(1945年9月)がもたれた後に、児玉は鳩山新党の政治資金として寄付することを申し出た。
児玉の資金提供にあたって、鳩山が「条件はないのか」と聞かれ、児玉は「何もない、ただ天皇制を死守してくれ」と答え、鳩山を感動させたという。
1955年、鳩山の日本民主党と緒方竹虎の自由党が合同して、「自由民主党」が結成されるが、児玉は自民党の創立資金を提供した人物として、隠然たる影響力を保ち続けた。
一方、大陸の浪人の中には「国家主義」に目覚め、財閥と結んだ汚職続きの日本政治の風潮を一掃しようとして、「過激なテロ」に関わった人物もいる。
昭和の時代、水戸大洗(おおあらい)において井上日召らの「血盟団」が結成され、”君則の姦”を除く意図のもと「一人一殺主義」が唱えられた。
こうした「昭和維新」を志す水戸出身の若者の思想形成に、水戸学の”尊王思想"の影響があったことを否定できない。
さてここで、この水戸の浪士と深い関わりをもった一人の”筑後人”がいた。
筑後国久留米(福岡県久留米市)の水天宮の神職の家に生まれた真木和泉(まきいずみ)である。
1823年に神職を継ぎ1832年に和泉守に任じられる。
国学や和歌などを学ぶが「水戸学」に傾倒し、1844年、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け「尊王の志」を強く抱くに至った。
そしてこの真木和泉とともに久留米藩校「明善堂」で儒学者の薫陶をうけた人物に、権藤直(ごんどうすなお)という人物がいる。
権藤は、"筑後の三秀才"とよばれた医者の息子で、品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、彼の内に志士的な情熱が渦巻いていたのは確かなようだ。
実は"寛政の三奇人"の一人・高山彦九郎は、久留米の「権藤家」の親類の家にて自決したのである。
そして、権藤直の息子が、血盟団と深く関わることになる権藤成卿(ごんどうせいきょう)である。
権藤成卿は、明治元年に福岡県三井群山川村(現久留米市)で生まれている。
日露戦争の機運が高まる中、権藤は親友を通じて、内田良平の「黒竜会」の動きに共鳴し、権藤は内田良平への資金援助を担当したらしい。
後に、内田とは袂を分かつが、権藤は独自の構想を抱き「権藤サークル」を形成する。
このサークルを母体としながら、1920年には「自治学会」を結成した。
この「自治学会」は権藤独自の結社で、「社稷(しゃしょく)国家の自立」が叫ばれ、明治絶対国家主義を徹底して批判した。
「社稷」とは、土の神の社、五穀の神の稷を併せた言葉で、古代中国の社稷型封建制に由来する共済共存の共同体の単位のことをいう。
権藤成卿の思想形成は、若き日に「大陸浪人」として中国に遊んだことが大きい。また久留米市内の「五穀神社」の存在からみても、筑後の地域性とも結びついたものであろう。
特異な点は、「大化改新」つまりクーデター構想に思想的な確信をあたえた唐への留学生・南淵請安に理想をもとめた点である。
権藤がまとめた「南淵書」は学者たちの批判を浴びるものの、北一輝の「日本改造法案」と並んで、昭和維新のひそかな“バイブル”となったのである。
権藤は1926年4月、東洋思想研究家の安岡正篤が、東京市小石川区原町に創立した「金鶏学院」において講義を行うようになる。
聴講生は軍人、官僚、華族が中心であったが、ここに井上日召や四元義隆といった、のちの「血盟団」の構成員も含まれていた。
そして1929年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣には苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。
また、のちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も権藤の家にさかんに投宿した。
つまるところ、権藤成卿は「血盟団メンバー」にそのアジトとなる場所を提供したことになる。

久留米の地で創業されたのが「博多一口餃子」で知られる「宝雲亭(ほううんてい)」である。
この店の創業者は「最後の大陸浪人」とよばれる真武信幸(またけのぶゆき)という人物である。
1号店(現在の久留米市)は細かっ たので「熊の穴」と呼ばれていた。
真武は戦前は馬賊にあこがれ中国大陸に渡り、戦後は一転インドネシアで現地の教育にかかわった。
真武家に「真武信幸先輩の聞き書き」と題されたリポートが残されている。
修猷館(現・修猷館高校)後輩の元福岡県職員である大島泰治が真武氏の数奇な半生に興味を覚えてまとめたものである。
それによると、真武は1916年に生まれ、修猷館を卒業後、馬賊にあこがれて1935年、旧満州(中国東北部)に渡った。大島によれば「実態は盗賊に近かったらしいが、ロビン・フッドのような義賊と思ったのでしょう」と語った。
結局、馬賊にはならなかったが、「蒙古実務学院」というモンゴル人の学校で日本語や算数を教え、夜は逆にモンゴル語を学んだ。
さらに蒙民習芸所の責任者として織物など技術教育にかかわった。
それでも飽き足らず、日ソ両軍が衝突したノモンハン事件では遊牧民のテント式住宅パオで暮らし、モンゴル人のふりをして諜報活動のまねごとをしていたという。
第2次世界大戦の敗戦時には蒋介石軍と交渉し、「特務」の肩書を得て、取り残された日本兵の武装解除と引き揚げに携わったという。
真武自身は、敗戦の2年後の1947年に帰国。
戦後、生活のために49年に創業したのが、かつての教え子と作ったのが、蒙古風餃子の「宝雲亭」。
修猷館の同窓生らが店と調理具を用意してくれて中洲に開業し、じきに人気店になった。
福岡で「ひとくちサイズ」のこぶりな餃子が広まったのは、「宝雲亭」に由来する。つまり「宝雲亭」は、「博多一口餃子」の発祥地といってよい。
しかし店主にあきたらず、市議選に立候補、「またまた来ました。マッタケーでーす」と連呼したが落選した。
「アジア主義」を掲げた政治結社・玄洋社の最後の社長だった進藤一馬(衆議院議員・福岡市長)の秘書となる一方、鳩山一郎元首相の設立した「友愛青年同志会」に共鳴して、福岡市や太宰府市にユースホステルを建てた。
また、「友愛」の使節団などで、東南アジア諸国をたびたび訪問し、71年から約10年間インドネシアのバリ島で暮らし、現地で日本語や農業技術を教えた。
真武の長男によれば、資金を得ようと、まだ生きているのに福岡で会費1万円の葬式を3回も行った。
インドネシアで行動を共にした人によると、何回も葬式するのがバレて、怒られたりしていたという。
そんな苦心をして開いた教育の場は、今も日本語学校「マタケン学校」として残っている。
高校の後輩が事業を受け継ぎNPO「バリ教育交流協会」として活動をしている。
「自民党の創設資金」から「一口餃子」まで、戦前の「大陸浪人」の夢の遺産でもある。

明太子(めんたいこ)の「ふくや」グループがこのほど宝雲亭を傘下に収め、2023年8月に博多駅地下に新店「餃子食堂 宝雲亭」をオープンした。
にんにくはいれない、牛と豚のあいびき肉に玉ねぎを加え、うまみと甘みが口中に広がる。
焼きというより蒸し焼きのイメージでできあがった餃子 の薄めの皮は、口の中でとろけてしまうほど。この皮の 風味を最大限に生かすため、タネにはニンニクは入れず、 タマネギ、合挽ミンチ、ニラだけでやわらかな味わいを 作り出している。