聖書の場面より(裸であること)

デンマークのアンデルセンの代表作『裸の王様』(1837年)は、 人間の心理を巧みにとらえた傑作だが、アンデルセンのオリジナルではないという。
オリジナルの「皇帝の新しい着物」は、スペインの王族フアン・マヌエルが1335年に発表した寓話集に収録された32話「ある王といかさま機織り師たちに起こったこと」である。
ちなみに35話は、シェイクスピアの戯曲『じゃじゃ馬ならし』のオリジナルになっている。
ファン・マヌエルは、キリスト教国カステリア王国の王族でアルフォンソ11世の摂政をつとめた人物。
早く父を失ったため王宮で育てられ、伯父のアルフォンソ10世が学芸の庇護者であったため、その蔵書に恵まれた環境で、様々な作品創りを行った。
「アンデルセン物語」では、大枠においてオリジナルと変わらないが、人間の普遍的な物語にするという点において、作者は際だっている。
ある国に、新しい服が大好きな、おしゃれな皇帝がいた。ある日、城下町に二人組の男が、仕立て屋という触れ込みでやってきた。
彼らは「自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者」の目には見えない、不思議な布地をつくることができるという。
噂を聞いた皇帝は2人をお城に召し出して、大喜びで大金を払い、彼らに新しい衣装を注文した。
皇帝が大臣を視察にやると、大臣の目にはまったく見えないが、仕立て屋たちが説明する布地の色と柄をそのまま報告することにした。
その後も同様の報告が続き、皇帝がじきじき仕事場に行ってみると、皇帝の目にはさっぱり見えない。
皇帝は困惑するが、何もみえないとはいえず、布地の出来栄えを賞賛し、周囲も調子を合わせる。
そして皇帝はパレードで「新しい衣装」をお披露目することにし、見えてもいない衣を身にまとい、大通りを行進する。
集まった国民も、歓呼して衣を誉めそやすが、小さな子供が「だけどなんにも着てないよ!」と叫び、群衆はざわめく。
そのざわめきは次第に広がり、ついに皆が「何も着ていらっしゃらない」と叫びだす中、皇帝のパレードは続いていく。
この物語から思い浮かべるのは、1950年制作の黒澤明監督の映画「羅生門(らしょうもん)」である。
興行的には成功しなかったものの、 第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞するなど、海外で高く評価された作品である。
「裸の王様」が沢山の人間の嘘で「ひとつの真実?」が出来上がるのとは反対に、「真実はひとつ」のはずなのに、各人の証言が食い違うというのが「羅生門」。
その意味で「裸の王様」の逆バージョンで、人間の真実を巧みに表現した傑作という点では共通している。
ちなみに映画「羅生門」のオリジナルは芥川龍之介の「藪の中」、舞台設定やタイトルは今昔物語をオリジナルとする芥川の小説「羅生門」である。
「裸の王様」は社会の同調性や忖度政治、「羅生門」は現代政治・マスコミ報道などを想起させる作品だ。

旧約聖書の「創世記」は、いわば「裸の人間」がテーマである。「裸の王様」の物語も聖書からインスピレーションをえたのかもしれない。
エデンの園に「善悪を知る木」が生えていて、神はここから食べたら「死ぬ」と禁じていたものを、人間がこれを食べてエデンの園から追放された。
いわば知識の木の実を食べてはじめてアダムとイブが知ったことといえば、自分達が「裸である」ということであった。
逆にいうと、神との完全な交わりの中にあっては、人間が裸であることは意識にさえのぼらなかったということだ。
「裸である」ことが羞恥心をよびおこしたのか、二人はとりあえず作った「イチジクの葉」で腰を覆うことにした。
そんな人間のふるまいを見て、神は二人に「誰が裸であることを教えたのか」と問うている。
その後、二人はヘビに騙されて禁じられた「木の実」を食べてしまった経緯を語る。
その際に、アダムはイブに、イブがヘビに責任転嫁をしていくプロセスがとても人間的だが、神はそんな二人にも慈愛をそそぐ。
すぐに枯れてしまう貧弱な「イチジクの葉」に替えて、神自身が作った「皮の衣」を着せたとある。
なにしろアダムの犯した罪によって地は呪われてしまい、「いばらとあざみ」が多く生えたため、「イチジクの葉」だけでは彼らは傷つき死んでしまう。
神がいったように、人間はエデンを追放されて「死ぬ」存在となり、永遠を失ったからだ。
ところで神がアダムとイブに着せた「皮の衣」というものに、早くも「福音の型」があらわれている。
古代イスラエルで「皮の衣」といえば、神と人との仲介的な務めをなす大祭司や祭司たちが着る「長服」で、今日でいうと外套のイメージである。
イスラエルの族長ヤコブが子ヨセフを愛し、年上の兄弟をさしおいて与えたのが「長服」。
しかし兄弟の嫉妬をかい、獣に食われよとばかりに、穴に投げ込まれる。
その後商人に助けられ、時を隔ててエジプトの宰相となって兄弟の前に現れるというエピソードがある。
この「皮の衣」を作るためには動物を屠って血を流す必要がある。
聖書の原則は「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」で、古代イスラエルでは祭司が子羊の燔祭をささげる毎に、その血がながされる。
神が自ら作った「皮の服」を与えたということの中に、「イエス・キリストの十字架の贖罪」という福音の型が顕われている。
いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「福音」であるからだ。
この観点からみると、カインとアベルの捧げものをめぐる「謎」も解けるような気がする。
、 アダムとイブの子供がカインとアベルであるが、それぞれ神に対して捧げものをした。
カインは「地のなり出でもの」をささげ、アベルは「子羊」をささげた。
神は、アベルの捧げもののを受け入れたが、カインの捧げものはかえりみられなかった。
嫉妬に駆られたカインはアベルを殺害してしまう。人類は二代目ではやくも殺人を行っている。
なぜアベルの捧げものが尊ばれたかという点については、聖書には何も書かれていない。
カインの捧げものは、楽園追放で呪われた地の産物をそのまま捧げたのに対して、アベルの捧げもの(子羊)は「血を流して」捧げられたもので、その点で神の目からみて「浄いもの」だったからではなかろうか。
神の目から見て、楽園追放後の人間は善人であろうが悪人であろうが、素の状態では「浄く」ない。
それは「原罪」の故で、新約聖書にも、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル人への手紙9章22)とある。
とはいえ、人間が罪を犯すたびにいちいち血を流していたのではとうてい生きられそうもない。
イエスの「身代わりの贖罪」という恩寵によってそれがなされるというのが「福音」である。
また旧約聖書の創世記の中の「ノアの箱舟」の話の中に、子供の側が父親に服を着せる話がある。
ノアには、セム・ハム・ヤペテという三人の子供がいたが、ある日、父親のノアが酒に酔って裸で寝っころがっていた。
この場面を聖書の記述のままに書くと 「彼は葡萄酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいる兄弟につげた。
セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、後ろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった」(創世記9章)。
ノアに対する子供達の態度、つまりノアの裸を見ないように子供達が覆ってあげる姿は、神が人間に施した「慈愛」にほかならない。
さて聖書は旧約聖書の「創世記」に始まり、新約聖書の「ヨハネ黙示録」まで全66巻をまとめたものだが、この書物が今に至るまで読まれるのは、 全体を通じて驚くほどスジが通っているからだ。
多数の筆者によって、まるでひとつの意志が働いたかのように書かれている不思議さだ。
聖書の初め「創世記」に出来事と呼応するような内容が、聖書のラスト「ヨハネ黙示録」にでてくる。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録16章)である。
聖書は冒頭から「福音の型」が示されているが、もうひとつ例をあげるとアダムとイブを騙したヘビに対して、神は「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」(創世記第3章15節)とある。
ここでいう「彼」とはイエス・キリストを指し、女の子孫(マリア)による処女降誕が預言されている。

イエスキリストと最も深い交わりをもった使徒ペテロの人生をみると、神の前にすべてを裸にされていく人間という感じがする。
まずは、イエスがガリラヤ湖の上を歩くシーンがある(マタイによる福音書14章)。
ガリラヤ湖で数人とともに漁をしていたペテロは、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
イエスは、「来なさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので叫んで「主よ、お助けください」と言った。
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
この場面では、ペテロがすっかり青ざめてイエスに抱き上げられるシーンが思い浮かぶ。
しかしそれ以上に、ペテロがイエスによって裸にされてしまった場面(マタイによる福音書26章)がある。
ペテロは最初の弟子としてイエスを信じて従ってきて、イエスからも信頼されていると思っていたに違いない。
、 しかしイエスが捕えられる前夜、ゲッセマネの園にて「あなたは鶏がなく前に三度私を知らないというであろう」と預言される。
そこでペテロは「たといあなたと一緒に死ななければならなくなったとしても、あなたをしらないなどとは、けして申しません」と否定する。
その後、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。
ペテロは遠くからイエスについて、そのなりゆきを見とどけるために、大祭司の中庭の中にはいっていった。
その時、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
ペテロは外で中庭にすわっていたところ、ひとりの女中が彼のところにきて「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
一番弟子としての自負心たるや、粉々になったのは想像に難くない。
しかし「悔悟する」ことと自分を改めることとはまた別の問題で、人間はそうやすやすと自らの力で自分を改められるものではない。
しかしイエスの十字架後のペテロの激変はすさまじく、その宣教における力強さには驚くばかりで、最初の説教で「3千人の人々が洗礼を受けた」(使徒行伝3章)とある。
その内容を一部抜粋すると次のとおりである。
「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである 」(使徒行伝2章)。
この説教は、聖霊降臨直後の初代教会における最初の説教だが、心に強く刺さった人々も多く、使徒たちに「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と問うている。
すると、ペテロは「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」と答えている。ここで、「悔い改め」とは、原語にそうと「方向転換」の意味である。

旧約聖書「創世記」では、子羊の血を連想させる「皮の衣服」であったが、イエスの十字架の贖罪の後は「白い衣」におきかわっている。
それは、「ヨハネ黙示録7章」に登場する「子羊の血をもって衣を白くした人々」とぴたりと符合する。
新約聖書では、素のままの人間に対して、衣を着せたり覆ったりするということは、「罪の贖い」を受けることのようだ。
それは、酔っぱらったノアに子供たちがその裸を見ないよう父親ノアの体を覆ったという「創世記」の出来事に預言されている。
しかし、新約聖書では「神が着せる」衣服について、さらに一歩踏み込んだ表現をしている。
それは、「キリストを着る」(ローマ13章)「新しい人を着る」(エペソ4章)といった表現が現れる。
それは復活したイエスと等しくなること、つまり「永遠」を身に着けるということである。いわば、エデンの園で失った「永遠」の回復である。
パウロは次のような手紙を信徒に書いている。
「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリント人への第一の手紙15章)。
「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである 」(コリント人への第一の手紙15章)。
また使徒パウロは、「その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからでは ありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです」(コリント人への第二の手紙5章)。

パウロが信徒にあてた。次のような言葉がある。
「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです」(ヘブル人への手紙4章)である。
またが使徒ヨハネ、ラオディキアにある教会にあてて、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」と厳しい手紙を書いている。