「羊」を探して

村上春樹の「羊をめぐる冒険」(1982年)は、東京に住む主人公の男性が、友人から送られてきた写真に写る背中に星形の波紋をもつ羊を探して 、恋人と北海道を旅する物語である。
二人は札幌から旭川に向かい、さらに北へ。川の合流地にぶつかるとさかのぼるように東に針路を変える。
そして、架空の町「十二滝町」の羊牧場と友人の別荘にたどりつく。
さて、北海道中川郡美深町。自衛隊の街・旭川と、サハリンと対峙する最北の地・稚内のちょうど真ん中にある人口4千人弱の町である。
西は天塩山地、東は北見山地に囲まれる。
1~2月の平均気温がマイナス8度を下回る酷感の地でもある。
町の中央を流れる一級河川・天塩川に、南からの町の入口あたりで東から合流するベンケニウブ川がある。
このベンケニウブ川を上流に遡ること約25キロ。 白樺の森林道を登っていくと突然、放牧地が開ける。
アイヌ語で「森林」を意味するニウブを地名とする美深町仁宇布地区だ。
二宇布で羊牧場とペンションを営む一人の経営者は、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を初めて読んだとき、小説の中の「十二滝町」の描写に驚いたという。
小説には「美深町」の地名はでてこないものの、それが重なる点がいくつもあるからだ。
例えば、「札幌から260キロ」、「大規模稲作北限地」は美深町にあてはまる。
「全国三位の赤字路線」が走っているという表現も、「日本一の赤字路線」といわれ、1985年に廃線となった旧美幸線をほうふつとさせる。さらに、仁宇市には16か所の滝がある。
何よりも、白樺に囲まれた広大な羊牧場に、一軒だけぽつりと立つ柳生さんのペンション「ファームイントント」が小説中の別荘と重なっていると語っている。

日本国内で「羊」のイメージを追っている考古学者がいる。それも羊とは縁遠いと思われる九州北部の福岡や熊本へと。
福岡県筑後地方の吉井町に「珍敷塚古墳」がある。読み方は「めずらしつかこふん」だが、その名にたがわず「めずらしい」。
なにしろエジプトの王家の舟遊びというような壁画が描かれているからだ。
石室は、奥壁の大石1枚と右壁の腰石とを残してほとんど失われてしまったが、もとは長さ4m、幅2mの狭長な横穴式石室で、前室を有していたとされる。
この古墳を有名にしたのは、奥壁に描かれた壁画である。壁画は、主題となる器物その他の図形を赤色の太い輪郭線で描いている。腰石にも、2個の同心円文が確認された。
壁画は、中央に三個の大きな靱(ゆげ/矢筒)を書き上に大きく蕨手文(わらびてもん)がひろがる。
片側に太陽・へさきに鳥が止まる船を漕ぐ人物を、もう一方の側に盾をもつ人物・蜷蛛・鳥などを描き、「死者の霊を死後の世界に送り、安住させようとする葬送儀礼の表現」と理解されている。
珍敷塚古墳の壁画について、考古学者の斎藤忠は「大陸図文の要素の諸問題」の観点から検討した。
そして、「珍敷塚古墳・竹原古墳の壁画の図文の中に大陸的な図文(ずもん)の要素が最も濃厚にあらわれており、これらに大陸の壁画古墳の影響がはじめて力強くしめされていることが考えられる」とした。
そのうえで、「図文としての蜷蛛・四神・馬とその手綱を執る人物などの形態や図柄は、高句麗の古墳壁画にもっとも近似している」と述べている。
ちなみに、竹原古墳は福岡県桂川町の壁画で、「珍敷塚古墳」より鮮やかに描かれており、代表的石室壁画である。
2022年12月24日フジテレビの「ピラミッドの真実!5000年の封印を破る鍵は太陽の船と科学とツタンカーメン」という番組には驚きの内容が含まれていた。
エジプト考古学者の吉村作治が、珍敷塚古墳と竹原古墳の壁画に共通して描かれている「蕨手文」を、なんと「羊の角(つの)である」と証言したのである。
「蕨(わらび)」といえば植物なので、形がいかに似ているとはいえ、それが「羊の角」の図文というのには、さすがに驚いた。
「珍敷塚古墳」の図文については、最初に調査に携わった森貞次郎の1964年の次の解説が基本とされている。
「この石室が当初から、夫婦とその1人の肉親のためのものとして、計画された感じがしないでもない。さらに、この中央の図形の両側に、やや小さく繊細な図形を配置している。左側には太陽と見うる同心円の下に、へさきに鳥をとまらせた小舟を描いている。舟の上には前方に帆をあげ、擢を手にした人物が乗っている。それは尖った冠帽だけを赤であらわし、身体の部分は、岩肌の色を残すという巧みな表現をしている。また右側には、上方から下方にかけて、盾をもつ人物・円形・上と前から見た2種のヒキガエル・箱状のものにとまる鳥らしいものを描いている。ヒキガエルを月の象徴として用いることは山上憶良の「貧窮問答歌」にも”クニグニのさわたるきわみ”として表現されており、古くから中国の伝統をうけた高句麗古墳の壁画にも、月をあらわす図像として、しばしば見るところである。
大陸的な表現が、すでにこの時代の葬送思想のなかにはいりこんでいたことをしめすものといえよう。
神話の天の鳥船を思わせる船・太陽・月などの絵画は、死者の霊を死後の世界に送り、安住させようとする葬送儀礼の表現であり、死者にたいする永遠の生活の安息のための供献でもあったであろう」と述べている。
今日の「珍敷塚古墳壁画」の解説内容は微細にはなっているとはいえ、森氏の解説からほとんど進展していないのが現状のようである。
考古学者の藤田富士夫によると、その欠落したポイントこそが、「蕨手文」についての解釈であるという。
ところで、「珍敷塚古墳」(6世紀後半)以外に「蕨手文」を有する古墳は福岡県域の筑後と筑前など有明海沿岸地域に多く見られる。
そのうちの代表的なものは、次のとおりである。
「日ノ岡古墳」(6世紀初頭)は福岡県うきは市吉井町に所在する。壁画系装飾古墳としてもっとも早い段階の古墳として知られている。
単室構造の横穴式石室を有し、玄室および羨道の壁面全部に赤・白・緑・青の4色で彩色壁画が描かれている。
同心円文と三角形のひとつの線を共有する「連続三角文」とが目立っが、随所に蕨手文が配されている。
とりわけ留意したいのは、「蕨手文」が玄室奥壁では、おそらく日輪や月輪を示すであろう「同心円文」の周囲を取り囲むように描かれていることである。
「塚花塚古墳(つかはなづかこふん)」(6世紀後半)は福岡県うきは市吉井町に所在する。
複室構造の横穴式石室を有し、後室奥壁に5個の大きな同心円文と巨大な蕨手文が描かれている。
ここでの蕨手文は、同心円文の上位かつ中央に置かれていることから、「辟邪(へきじゃ)の図文」と指摘されていることに留意したい。
「辟邪」とは、古代中国の伝承に伝わる神獣の一体。 2本の角が生えた獅子や虎、鹿、馬によく似た姿をしている。
「王塚古墳」(6世紀前葉)は、福岡県桂川町に所在し、壁画系装飾古墳として日ノ岡古墳に続く古さをもつ。
複室構造の横穴式石室を有し、玄門を構成する袖石、相石、冠石の前面一面に図文が描かれている。
「五郎山古墳」(6世紀後半)は、福岡県筑紫野市に所在する。複室構造の横穴式石室を有する。壁画は奥壁に、二段に分かれて描かれている。
下段の上位に中央に翼を広げたようなY形画像が展開している。
右には同心円文があり、下方には盾と思われる図像がある。
「Y形図文」は、その位置が珍敷塚古墳と類似しており、いわゆる「蕨手文」が崩れた文様とすることがでる。
「五郎山古墳」の構図は、同心円文や盾、舟形など珍敷塚古墳と組成に共通するものがあり、珍敷塚古墳の描く「黄泉の世界」をより詳細に語ったものとすることができよう。
前述のようにエジプトの考古学的研究で知られる吉村作治が、「蕨手文は、羊の角」と驚きの解釈をほどこしてことについて唐突な感じもしたが、中国の壁画には「羊の角」が描かれているケースが少なくない。
それは、中国の道教のスタートが「羊」と関係が深いからである。
中国の内陸部の成都市街地の西部に「青羊宮」という大きな道教寺院がある。
現在青羊宮は中国の重要文化財に指定され、国内外から大勢の観光客が訪れている。
「青羊宮」の名の歴史的由来は、老子(春秋時代)が青い羊に乗ってここで教えを説いたことからきている。
その三清殿内には「三清(道教の神様)」の聖像が祭られていて、清朝雍正時代に北京から運ばれた二つの銅羊があり、万病を治すとして多くの参拝者が訪れる。
「羽人」は、神仙思想、不老長寿の仙人を目指す思想で、西王母という不死の女神(中国)から始まり、肩に翼をつける人を「羽人」といった。
西王母は導かれて天に昇り、クンルン山脈に住んでいるのだという。
また、中国の主に漢代の壁画や画像石の構図に、「羊頭」が描かれることがあり、それは日本壁画の「蕨手文」と似た様相を示しているという。
そうした壁画には、羽人と羊・羊車 壁画や画像石に「仙人」と「羊」との関わりを表現したものがある。
「武威磨囁子漢墓壁画」は、墓室の天井に日輪と月輪と流雲が描かれている。
西壁には5人の人物と1羽の鳥が配され、南壁には羽人が羊と戯れる図 「羊頭」の装飾を配されている。
この配置について中国の考古学者は①辟邪、②昇仙、③孝道の意味、の目的があったとしている。
ここで「辟邪(へきじゃ)」とは神獣を指す言葉で、 中国古典で羊を「瑞獣」とするものがある。
では、なぜ仙人が羊に乗るのであろうか。それは羊角が有する「呪性」に関係すると推測されている。
前漢の哲学書である『潅南子(えなんじ)』に「羊の角を抱いて上り」と書かれている。日本語訳では、「つむじ風に乗じて上り」と通釈されているが、「羊の角を抱くこと」は、「ひらき、さらに天門の中に入る」ということに連なるのである。
ちなみに、旧約聖書の列王記に登場する預言者エリシャが、つむじ風に巻き上げられ場所に乗って天に昇る場面があるのを思い浮かべた。
「荘子」中でも、「羊角」が「仙界」への乗り物としての意味が託されている箇所が指摘されている。
そこで、墓門に羊頭や臥鹿が描かれる場合があり、「羊の角」もまた、毘喬山(びきょうざん)へ至る乗物の性格を有しており、有明海を経由して日本の装飾古墳もそれらの影響を受けたことは想像に難くない。
ところで、蕨手文は珍敷塚古墳、日ノ岡古墳、塚花塚古墳、王塚古墳では壁画の中央に大きく描かれている。
それらは日輪(太陽)や月輪(月)の象徴と思われる同心円文の上位に配置されている。
このことは、蕨手文が意味するところは太陽や月よりも遥か彼方にあるということを示唆している。
また、日ノ岡古墳・玄室奥壁では同心円文の前や後ろに蕨手文が描かれている。
これらから、蕨手文は太陽や月よりも上位の役割を担っていたとすることができよう。
いずれにしろ、これらの古墳の墓室のもっとも重要な位置に置かれているのが「蕨手文」なのである。
珍敷塚古墳の「蕨手文」の描き手は、何等かの形で中国漢代の「羊頭壁画」の神仙思想を理解していたことになる。
描き手は、墓の主人公の注文に応じて描いたと思われるので、それは墓の主人が有していた思想と言いかえることができる。
ちなみに、珍敷塚古墳は6世紀後半の築造とされている。一方、中国の羊頭壁画は、西漢後期(紀元前48~紀元8年)や新芥期(紀元9~23年)に盛行している。
おおよそ500年近い年代差を有している。
ところで、正倉院はシルクロードの東の終着点といわれ、ペルシャや西アジアの影響を受けた宝物が数多く収められていて、「羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)」に描かれている羊のルーツはエジプトにあると考えられている。
「羊の角」として描かれたものが日本に伝わった時、蕨に似ていることから「蕨手文」とばれるようになったことが指摘される。
つまり、正倉院の「羊の屏風絵」よりも200年も前に日本に伝わってきた可能性が見えてきた。

フジテレビの「ピラミッドの真実!5000年の封印を破る鍵は」の番組で、日本の石室壁画でもうひとつ注目すべき図柄のことが指摘されていた。
熊本県のJR肥薩線人吉駅の背後の崖に、「大村横穴群(おおむらよこあなぐん)」という墓で、JR人吉駅から見上げることができる。
この墓は約1400年以上前に作られたもので、27基のうち8基は装飾古墳である。
ひとつの横穴の上には「三角の文様」が刻まれている。
力のある人の墓だけ「三角文」が太陽のエネルギーを吸収し横穴を守るという。
福岡県桂川町にある王塚古墳の部屋の壁には「三角文」がびっしりと描かれていた。
「三角文」で思い浮かべるのは、日本の多くの古墳で見つかる銅鏡(三角縁神獣鏡)である。
こうした銅鏡に描かれた図文は「鏡の裏の文様が神像と獣像とを半肉彫にしたものを主として組み合わせた文様」を持つもので、神仙思想による理想世界を描いたものだという。
九州北部で「装飾古墳」が現れたのは5~7Cで、飛鳥で見つかった8Cに造られた「高松塚古墳」や「キトラ古墳」の「壁画古墳」とは、石室の内容などから区別されている。
ただ、「王塚古墳」にみられるような絢爛たる装飾が石室の内部に施されたのかについては謎が多い。
九州北部では、527年の磐井の乱で筑紫の君とよばれた「磐井」が大和政権に敗れた。
八女にはその生前より築造された「石人石馬」が表だって飾られた「岩戸山古墳」があるが、「磐井の乱」以降は、地方権力者が墓を建設するにあたって、装飾が「室内化」されていったということも推測される。
実際、石人石馬を施した古墳はそれ以降消滅するのである。
室内化した「飾られる死者」に対してその「死生観」をもよみとることもできる。
埋葬施設は、死者が定期的に戻ってくる場所であり、海上他界観を含む水平他界観と密接に関連する。
柳田国男は、神は定まった場所に常住・常在するのではなく、先祖が御霊になって子孫の世界に来訪し、恵みや制裁をもたらすと考えた。
また折口信夫は、はるか彼方にある常世(とこよ)からやってくる「まれびと」が、人智が及ばない富や不老不死、死や災いをもたらす存在とみた。
さて、エジプト最大の観光名所である「カルナック神殿」はアモン神(空気の神)をまつった神殿で、東西540m、南北600mの周壁で囲まれた壮大な神殿で、世界最大の神殿建造物といわれる。
この神殿から南に2.5のKm離れたところに「ルクソール神殿」があるが、アメン神の妻ムート神をまつった神殿である。
エジプトのルクソールに復元されたスフィンクス参道にあるスフィンクスの顔は羊で、体はライオンであることに注目したい。
聖書では位が低い「羊」はアメン神の化身だという。
日本の九州・有明海周辺で見つかる装飾古墳の壁画に見られる「蕨手文」「三角文」は、中国の神仙思想の影響をうけた可能性もある一方、「珍敷塚古墳」壁画のように、エジプト文化の直接的な影響を受けたと推測されるものも存在している。