年金制度「名前は変えてます」

日本は「契約社会」ではない。契約は書面で行うが、人間そのものが信用の拠り所であったともいえる。
しかし、人の一生を超えるほどの約束事は日本人の想定外だ。人がいなくなっては、約束(信用)の拠り所が失われることになるからだ。
これは、国際関係における政府間の「約束事」と幾分似た問題である。
人(政権)が入れ変わっても「効力」は続くのか。
それでは、神と人との関係はどうか。旧約・新約という言葉があるように、ユダヤ・キリスト教社会には、千年の時を超えても効力が続く約束事がある。
ところで「年金」とは、もともとは国民と政府の「生涯をとおして」の約束事ではなかったか。
働いてる時に積み立てた分は、それに見合うだけのものが老後に戻ってくるという約束。
欧米なら政府の契約違反(変更)は暴動の原因となる。
しかし日本は「状況」で約束事も変わりうることをあらかじめ想定している社会。
それこそが「契約社会」とは異なるところなのだ。
ただ年金が約束事というのは「積立方式」の場合に限られ、現在の「賦課方式」は、あてはまらない。
それでは「積立方式」から「賦課方式」への移行は、何を意味するのだろうか。
1941年、第二次世界大戦最中に給与所得者が加入する「厚生年金」が誕生した。
その原型は、10人以上の会社で、20年以上保険料を納めた男性労働者が、55歳からもらう「労働者年金保険」がもとになっている。
「労働者年金」のモデルとなったのは、ナチスドイツの年金制度であった。
ナチスドイツといえば、今でも活用されている高速道路(アウトバーン)が脳裏に浮かぶ。
当時、ドイツで台頭したヒットラー率いるナチスは、「民族共同体」を旗印に福祉に力を入れ、老後に現役時代の6割を保証する年金をつくった。
そこで集められた保険料は軍事転用され、高速道路の建設などに使われた。
日本は、1940年に日独伊三国同盟を結ぶが、そのことがナチスの「年金制度」を真似た積立式の「労働者年金保険」の創設へと繋がったのである。
とはいえ、この日本初の「公的年金」が誕生した1942年はミッドウエー海戦でアメリカに敗れた年である。
厚生大臣が年金設立の趣旨を「生産拡充のために懸命に努力を続けている全労働者に、国家として生活の保障を与えること」としたのには、いささか胡散臭さがあった。
1944年10月には「労働者年金保険」を、対象を女性にも拡充して「厚生年金」の保険料徴収が始まった。
保険料は「労使折半」で月収の11パーセントに定められたものの、その多くは「戦費」に回されてしまい、戦後は年金は、凄まじいインフレーションに見舞われた。
日本は戦争のために国債を乱発したので、1946年のGDP約800億円に対して、1500億円の「戦時保証債務」があった。
この事実上の「国家財政破綻」であるが、国民が銀行や郵便局に預けたお金を踏み倒す政策を実施した。
この政策とはインフレ下で「預金封鎖」を行うという強硬策で、このおかげで国の借金は15分の1に減ったが、一方で受け取れる年金の額も15分の1となった。
当時、年金は「積立方式」をとっていたので、15分の1になっては老後の生活が成り立たないばかりではなく、国民が詐欺だ!と騒がれてしまいかねない。
年金保険料が戦争で使い果たしたともいえない。「公的年金」の信用が失墜しては、国民は今後「年金」に入ろうとしなくなるだろう。
そこで年金不足を補充するために「保険料」を値上げしようとするが、労使双方から反対される。
仕方なく1954年に、年金給付年齢を55歳から段階的に60歳にまで上げ、給付費の15パーセントを税金で補てんした。
しかし、激しいインフレをまえに「焼石に水」であった。しかも当時の政治情勢が、目減りする一方の「公的年金」への対応に迫られることになる。
1955年に、右派と左派に分裂していた「日本社会党」が再統一された。
当時の日本の保守勢力は、労働者の福祉を掲げた社会党に対して危機感をつのらせる。
そこで日本民主党と自由党が合同して、「自由民主党」(自民党)を作り、いわゆる「55年体制」が出来上がる。
自民党もまた社会党に負けじと、福祉の政党としての賛同を得ようと、「福祉国家」というスローガンをかかげる。
そこで政官一体で鬱出したのが、「積立方式」の一部を「賦課方式」にしてしまうというウルトラEである。
「賦課方式」とは現役世代にかけた保険料によって老年世代の生活をまかなうという方式なので、とりあえず今お金がなくても次の世代への「借金のツケ回し」が可能となる。
しかも当時は人口が増えるという好条件があった。第一次ベビーブーム(1947年~49年)では、年間270万人の子供が生まれた。
これは現在の三倍で、年金を受け取る側は戦争で亡くなったりしたので少なくなっていた。
この好条件のもと年金はある意味「打出の小槌」となった。

欧米社会は「契約社会」であり、だからこそイギリスには生涯利子を受け取れる「永久債」などという気の長い債権など年金的性格のものが存在しうる。
だから欧米において、年金支給においても、一度約束(契約)したものとしてあり、それを反故にすることは絶対に許されないことなのである。
だから「政府債務」という時に、ヨーロッパ社会の場合には「年金債務」をも含めて考えるのである。
それはどうあっても返さなければならないもの。
この点、日本では年金債務を政府債務には入れない。
年金保険は長い間積み立てられているが、経済の情況に応じて5年に一度「再計算」されるという制度があるのだ。
実際、われわれが加入している厚生年金や国民年金は、十分に納得いく説明もなく、5年に一度の財政再計算のたびに、毎回のように給付額がカットされ、掛け金が引き上げられてきた。
約束されていたはずの年金額が支給されないだけでなく、重い負担ばかりを強いられてきたのである。
つまり日本の年金債務の場合「流動的」いかえると「操作可能」であり、そういうものを「政府債務」として計上する必要はないのである。
しかも、「積立方式」から「賦課方式」へという見えにくい移行の下、年金という「打出の小槌」を使って政治的に活用し、その政治力の源泉と下のが田中角栄であった。
田中が提唱した「日本中を高速道路や新幹線などで結び、地方を工業化して過疎と都市集中の問題を解決する」という「日本列島改造論」に日本中が沸いた。
1957年、39歳の若さで郵政大臣に就任した田中は、郵便局に積み上げられた巨額な「郵便貯金」と、「賦課方式」になってどんどん入ってくる「公的年金」を、大蔵省資金運用部に集めた。
しして「財政投融資」という巨大な資金運用システムを使い、そのお金をもとに自分の生まれ故郷である新潟のような寒村に至るまで「公共事業」をあて、それからの見返りが田中の政治力となったのである。
国民が支払った保険料が、こうした「日本列島改造」に惜しげもなく使われた。
たしかに、政府当局にとって、莫大な積立金をひたすら保蔵しておくのはあまりに芸ナシだし、だからといって恣意的な運用が許されるはずもない。
資金の運用が、国民にとって有益で「利益増」となって国民の老後がよりよいものとなるならば誰も文句はない。
当時の保険料は、「年金特別会計」に入り、大蔵省の「資金運用部」というところに回され、そこから「特殊法人」をへて資金の流れはとても分かりにくく、いわば「伏魔殿」と化した。
そして建設業者とそれに結びついた政治家を潤すためにだけ、資金が投入されるのである。
ほとんど国民が使わない施設を作るため当時の公共事業は「ハコモノ行政」と批難された。
欧米の社会では、年金のように確実に支給されねばならないものを、公共事業などというリスクのあるものに使うなどという発想はほとんどない。
アメリカの場合には、せいぜい「国債」で運用しているのだ。
戦後史を俯瞰すると、国民皆年金制度が確立された時代と田中角栄の「列島改造論」が喧伝された時代とが「規を一」にしていたということがある。
その時代は農業から工業への産業構造の中心が大きくシフトしていく過程で、その中間的「受け皿」として建設業(土建業)があったということがある。
そて厚生官僚達の夢が、田中角栄の「土建国家建設」と結びついたということでもある。
田中角栄を嚆矢とする「年金資金と公共事業」という結びつきは、厚生省管轄の「ハコモノ」と結びつくようになる。
田中角栄は、首相に就任した翌73年には「福祉元年予算」を編成した。
「国民年金」に加入できない高齢者でも、保険料の負担なしでももらえる「老齢福祉年金」の額を2倍にした。
さらに、保険料を5年支払えばもらえる「5年年金」を創設するなど、福祉にどんどん予算をつけ、74年度予算では「社会保障関係」が国家予算全体の37.6パーセントにもなった。つまり現在の予算のふりわけのカタチができた。
ところで日本の年金制度の複雑さは、官僚のその場しのぎの対応が生んだものである。
1961年、自営業者・日雇い労働者などの「国民年金」が発足した。これによって「国民皆年金」が実現したのであるが、日本が高度経済成長に向かうにつれ、サラリーマンの数が増え、自営業者はどんどん減少した。
つまりサラリーマンの入る「厚生年金」に対して、自営業者のはいる「国民年金」は資金的に厳しくなっていった。
また厚生年金は会社が保険料を給料から天引きするので未納者はほとんどいないが、「国民年金」の方は自営業者の申告によるもので未納率が高い。
二つの年金は入口も出口も別の建物である。1947年に発足した「厚生年金」は、収入に比例して支払う保険料も、もらう年金額も違っている。
そして半分を会社側が負担することになっている。
一方、1961年発足の「国民年金」は、収入が多くても少なくても一律に月1万6000円ほどの保険料(2023年現在)を支払うことになっている。
このようにまったく入口も出口も家の造りも違う、二軒の家を繋いでひとつにまとめて運用しようとしたのが「基礎年金」ある。
要するに、二つの違うプールしたお金を厚生年金から国民年金の方へ回してあたかも一つの家のように見せかけたのだ。
「一元化」とか「統合」とかいう名の下で、国民年金を救済したのである。
また統合による「複雑化」の一端は、公務員がはいる「共済年金」の3階部分の「職域加算」にも表れている。
遡れば1984年、中曽根内閣で「95年で一元化を完了させる」と閣議決定された。
公務員の年金はサラリーマンの年金よりも保険料や給付額が有利だっただけではなく、サラリーマンの年金にはない「職域加算」までもがついていた。
ちなみに「職域加算」の趣旨は「地域格差」の平等化ということである。
そこで「官民格差」をなくそうと、優遇されていた公務員の年金を、民間並みにするために「一元化」が決定された。
しかし、官僚による頑強な抵抗で「職域加算」はそれから30年もの間、手つかずの状態であった。
しかし、その手つかず状態が急転して「一元化」の話が再浮上した。理由は「国民年金」の破綻の可能性と同様に、「共済年金」にも破綻の危機がおとずれたからである。
年金を支える公務員に対して、年金をもらう「リタイヤ」した公務員の数が増えたためである。
こうして「一元化」の名のもとに2022年、三階部分の「職域加算」は廃止された。
しかし「退職等年金給付」という衣替えのマジックをもって生き残っている。
厚生労働省の外局に、2009年まで「社会保険庁」という組織があった。「悪名髙き」といっていいほど不祥事や仕事の杜撰さが露呈して、「消えた年金」は流行語大賞までとったほどである。
社会保険庁は「年金」の積立金で、老人ホーム、厚生年金会館やプールのある健康保険福祉センター(サンピア)、テニスコートのある健康保険センターなど、全部で265の施設をつくった。
その総額が1兆5000億円。それだけ金を使って「運用益」がでて年金積立に還元されるならば誰も文句はいわない。
厚生年金病院や厚生年金会館、老人ホームなどの福利厚生施設は、その利用はある程度退職者などに還元される部分があるので許容される。
実際、国民年金法には「政府は(年金加入者と受給者)福祉を増進するため、必要な施設をすることができる」という条文があるからだ。
しかし、それらがつまり建設会社を儲けさせ、官僚の退職後の生活を保障し、政治家の議席を確保するために運用されたうえ、官僚の「天下り先」の確保のために運用されたというのが真相に使い。
2004年には個人情報漏えい問題に端を発した政治家の年金未納問題で騒ぎとなり、07年にはコンピュータの入力ミスで5000件の年金が所在不明になっていわゆる「消えた年金」問題として国民の不信感を高めた。
その他、様々な不正接待や資金流用、情報漏洩が次々と問題化し、2009年に社会保険庁は廃止された。
これとは別に、1961年厚生労働省は「年金のお金を福祉に使ってほしい」という加入者からの要望が多いという理由で、集めた年金事業を福祉事業に使う「年金福祉事業団」を設立し、住宅ローンや教育資金の貸付けなどをはじめた。
さらには同事業団は、1980年から88年にかけては全国13か所に直営の健康増進保養所(グリーンピア)を建設した。
結局、グリーンピアには人は集まらず、はすべて売却されたのだが、それでも1兆円近くの損失を出してしまう。
グリーンピア13施設のうち8施設が歴代の厚生大臣経験者のおひざ元に建設されていたことも国会で問題化した。
結局、国民の怒りは大きく、「年金福祉事業団」は2001年3月に解散に追い込まれた。
しかしながら、消滅したはずの「年金福祉事業団」が、名前を変え看板を書き換えて、その4月には特殊法人「年金資金運用基金」として、何事もなかったように再出発した。
この「年金運用基金」がさらに看板を書き換え、2006年4月に設立されたのが、「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)。
今、我々の年金積立金を株などで運用している「GPIF」で、名前をかえハコモノから株に転じたこともあって、GPIFがあのグリーンピアの失敗で国民に大損害を与えた組織を「衣替え」したものだとは思ってもみない。
「年金福祉事業団」の乱脈ぶりに怒り心頭だった国民も、二度も名前が変わり、悪しき記憶とともにその存在さえも記憶から薄れがちである。
ちなみに優良株の束「上場投資信託」(ETF)の大量買入れで市場を歪めるGPIFは、政府の多大の国債をひきうける日本銀行とともに、「二頭のクジラ」と呼ばれている。