ワシントン・コンセンサス

ロシアのウクライナ侵攻は、NATOの東方拡大が大きな理由とみられるが、プーチンのような独裁者を生んだ背景の一つに、「ワシントンコンセンサス」というものがある。
「ワシントンコンセンサス」とは、ワシントンを本拠にしているアメリカ政府と国際通貨基金(IMF)および世界銀行との間に成立した合意のことを指す。
それは貿易と資本市場とを自由化することを理念とし、規制緩和や「小さな政府」を目指す。
要するに、自由化と民営化という「アメリカン・スタンダード」によるグローバル化である。
IMFトップの人事に関する事柄は欧州へ任せられ、アメリカ一国が実質的な「拒否権」を有している。
また世界銀行では歴代総裁がアメリカの大統領から指名を受けてきた。
1995年に世界貿易機関(WTO)の創設によって、「ワシントンコンセンサス」は完成されたといえる。
これらによって、世界でグローバル化が推進されて繁栄がもたらされるものと考えられていた。
「ワシントンコンセンサス」は、資本を自由化した上に金融資本や金融市場を自由化することで、世界に対して「アメリカンスタンダード」を強いていくが、その盟友こそはアメリカのグローバルバンクである。
その内容や条件に沿う形で市場自由化プログラムが導入された80年代以降の南米諸国、90年代における旧ソ連や東欧諸国の自由化を推進したが、結果的に経済が著しく混乱した。
とりわけ1997年に始まった「東アジア通貨危機」において、IMFの勧告に応じたタイやインドネシア、韓国といった国で失業者が急増し、企業の多くが経営破綻に陥り、国民生活のための予算が削減されるなど、経済的混乱を増大される結果となった。
1970年代までの世界は経済的規制と累進税制が歯止めとなって、成長と平等化が両立した。
しかし、アメリカでレーガン政権の成立した80年代以降、規制緩和、金融自由化、そして累進税制の「フラット化」により、資本主義は大きく変質した
不平等の顕著な拡大と経済の金融化で、その果てにバブルの生成と崩壊を繰り返し、格差を常に拡大させる社会が生まれた。
所得から消費に回す比率が小さい富裕層に富が集中した結果、GDPの最大項目である民間消費は落ち込み、資本主義は著しく不安定化した。
これからの資本主義の再生には、社会の再分配機能だが、富裕層に課税し、弱者に対するセーフティーネットを強化し、教育と技術とインフラへの投資を増額しなければならない。
「世界銀行」チーフエコノミストで、後にノーベル賞を受賞したスティグリッツは、IMFが1980年代以降「市場原理主義者」たちの牙城となり、誤った経済政策を追求することになった結果、1990年代以降、世界経済に「破壊的な作用」を及ぼしたこと明言している。
そんな中でもIMFの罪が最も大きいのは、「東アジア危機」を発生するきっかけを作ったことと、それを大災害へと発展させたことだという。
「アジア通貨危機」とは1997年7月に、タイの通貨バーツが暴落したことから連鎖的に発生した、アジアにおける通貨の下落現象のことである。
通貨危機の直接の原因は、アメリカのヘッジファンドを中心とした機関投資家が、アジア各国に攻撃をしかけたためである。
ではどうしてタイが、ヘッジファンドのターゲットになったのか。
ひとつは、タイが採用していた「ドルペッグ制(固定相場制)」という仕組みである。
「ドルペッグ制」とは、自国の通貨の為替レートを米ドルと固定する仕組みで、例えば日本がドルペッグ制を採用したとすると1ドル=120円で相場を固定するし、変動させないようにすることになる。
ここで、為替相場を固定する具体的な方法としては、二種類がある。
政府が自国金利とアメリカの金利を連動させ、資本収支の面から為替相場の動きを最小限にする。
第二に、政府が自国通貨を売ったり買ったりする介入で、為替相場を意図的に変動させ、ドルとの変動を最小限にする。
「ドルペッグ制」は何のためにするのかというと、為替レートが安定を優先するケースである。
特に、発展途上の国の場合、自国の国内の企業や個人の力だけでは経済成長が難しく、外国からの投資が欲しい場合がある。
その場合、為替レートが安定すれば、外国の企業にとってはその国に投資しやすくなるため、ドルペッグ制を採用するメリットが大きい。
逆にいうと、為替レートが不安定な国に投資すると、為替レートの変動によって投資した資産が大きく目減りしてしまう可能性があるため、投資家は「投資しよう」とは思えなくなるからだ。
ただし、ドルと自国通貨を固定することで、アメリカがドル高政策を行うと、ドルにペッグしている国の通貨も他の通貨に対して高くなるデメリットがある。
アジア各国は自国で生産した製品を輸出することで利益を得る、つまり「輸出型」の貿易構造で成長してきた。
輸出型の貿易構造では、自国の通貨が「安く維持」されていることが有利である。輸出品が安くなって国際競争力が増すからだ。
アジア各国は投資を呼ぶためにドルペッグ制を採っていたため、アメリカがドル高政策を行うと「自国通貨高」になってしまうという弱点を持っていた。
そのためヘッジファンドは、アジア通貨が本来のレートから外れたものだとみなしていた。
東南アジアの各国は、人件費の安さから日本や欧米各国によって生産拠点になっていたが、90年代に入るとより安い中国を「工場」にしようと考えた。
そこで日本や欧米の企業は東南アジアから中国へ生産拠点を移し始めた。
そのため、東南アジアに投資していた投資家たちは「東南アジアにこのまま投資していて大丈夫か」と不安を抱くようになっていった。
さらに、クリントン政権の1995年以降アメリカは「ドル高」政策を採用するようになる。
その結果、ドルにペッグ(固定)しているアジア各国も通貨高になり、輸出が伸び悩んだ。その結果、アジアに投資している投資家たちはさらに疑念を持つようになった。
つまり、アジア各国には経済成長に行き詰まりが生まれはじめているのに、ドル高に通貨を固定している状況にあり、これをヘッジファンドは「実体経済」とズレていると認識したのである。
それに目を付けたヘッジファンドが「通貨売り」を仕掛けたことが、アジア通貨危機の直接の原因である。
そもそもヘッジファンドとは、何億、何十億というお金を持っている資産家からお金を集め、それを超エリートの投資家がまとめて運用して増やし、資産家に増やしたお金を返す、というビジネスを行う機関投資家のことである。
アジア通貨危機のきっかけとなる通貨売りを仕掛けたのは、ジョージソロスという投資家で、今ロシアが最も警戒する人物である。
ヘッジファンドが巨額の「売り」をしかけたことで、タイのバーツはひたすらバーツ安に向かって暴落していく。
この時にヘッジファンドが行ったのは、「空売り」という行為で、いろいろな所から通貨を借りてきてそれを売ってしまうということ。
たとえば、ヘッジファンドはタイのバーツをたくさん持っている銀行からバーツを借りる。
そして、マーケットで借りたバーツを売りまくって相場をバーツ安に誘導する。
他の投資家も損したくないため、一緒にバーツを売ってさらにバーツ安になる。
相場が下がり切った(バーツ安の底まで来た)と思ったところで売りをやめ、売ったバーツを買い戻すということをやる。
バーツはもともと借りてきたものであるから、借りてきた銀行等に返さなければならない。
最後に買い戻すのポイントが、「高い所で売って安い所で買い戻している」ため、ヘッジファンドは「大儲け」できる。
これが、ヘッジファンドが通貨の空売りによって大儲けする仕組みである。
その結果、海外の投資家が資金を引き揚げたことで、アジア各国の企業が債務(借金)を返還しなければならなくなったことがダメージとなった。
というのも、アジア各国の債務(借金)は「ドル建て」だったからである。
ドル建ての債務を返済しようとすれば、その国の中央銀行(日本なら日銀)が持つ「ドル準備」が返済できる上限になる。
つまり、債務を返済するのに国内通貨をドルに交換しなければならないため、その準備がなくなれば当然ドルに交換できず、返済もできなくなる。
ドル準備が底をついた各国政府は、どこからかドルを借りてこなければならないが、最後の拠り所であるIMFに救済を求めた。
IMFは世界の為替相場を安定させることを役割とする国際機関ということなので、財政危機に陥った国に、条件付きでお金を融資してくれる。
ここでIMFに求められたのは、アジア各国が債務を返済できるだけのドルを融資し、アジア経済を危機から救うことであった。
しかし、IMFが単に「融資」するだけでなく、なぜか融資の条件として「構造改革」を求めた。
それは、支出の抑制とともに、高金利政策でお金の貸し出しを減らし、さらに政府の財政支出を減らす(緊縮財政)ことで、収支を健全化しなさいということであった。
アジア各国の問題は単に「ドルが足りない」ことであり、通貨危機が起こるまで十分に成長しており、返済能力に問題があったわけではなかった。
実際、タイは融資の条件として支援パッケージを受け入れ、変動相場制に移行した。しかし、変動相場制に移行したことでバーツが売りたたかれるきっけけを作っってしまった。
市場参加者からみて、それはタイ通貨当局の敗北宣言にしかみえなかったからだ。
アジア各国は、欧米の機関投資らから攻撃された被害者であるのに、さらに欧米中心に動く国際機関の支援策でダメージを与えられることになったといえる。
一方、マレーシアのマハティール首相は通貨危機の原因は国際的な投機家に責任があるとしてIMF管理を拒否し、投機取引規制や為替相場に対する管理強化などで通貨危機を乗り切った。
こうした経緯から、アジア各国は「欧米に頼ってられない」「アジアで連帯しなければならない」という危機感を持つようになった。
それが「日韓通貨スワップ」であり、日本政府の「アジア通貨基金」の創設提言であったが、IMFの反対により許可されなかった。

1989年、ソ連が崩壊しロシアが誕生した。
その市場経済移行に際しての混乱を増幅させたのも「ワシントンコンセンサス」であった。
それは独自路線を歩んだ中国と比較すればよくわかる。
中国は農業改革から着手して、農業生産の集団農場(集団責任)制を「個人責任制」へと移行させ、実質的に部分的な民営化を実施した。
個人が自由に土地を売買することができなかったので、完全な民営化ではないものの、生産物を売って収益をあげることか可能だった。
そして結果として、部分的かつ限定された改革ではあっても、きわめて大きな収益をあげられることを示した。
この大事業が成し遂げられた経緯は、ある地方の試みが成功すると、別の地方でもその取組を取り入れて同じように成功させ、改革を支援する地域を広げていくというものであった。
ここで注目すべきは、中央政府が改革を強制する必要がなく、改革が自主的に行われたことである。
一方、新古典派の経済理論で武装してロシアに赴いた「市場経済移行の専門家」達は、あまりに民営化を急いだ。市場経済には競争が必要であり、そのためには制度上の基盤を整えることが不可欠だった。「民営化」はその次の段階であるべきだった。
中国は、既存企業の民営化や構造改革を着手する前に、競争原理を導入し、新興企業を育成して雇用を創出した。
そして自由化をすすめる一方、解雇された人材をより効率的な職へ移動させた。
国有企業を民営化しなかったが、新しい企業が誕生するにつれて国有企業の重要性は低くなる。
、 各地の「郷鎮企業」は、移行の初期において中心的な役割を果たした。
「ワシントンコンセンサス」の発想は、そうした企業は「公営」なので成功しないというものだった。
だが、郷鎮企業はコーポレート・ガバナンスの問題を解決する一方、各地の郷や鎮が自分たちの貴重な資金を投入して富を創出しようとしたので、成功するためには激しく競争しなければならなかった。
郷鎮企業は自分たちの資金で何が出来るかを把握しており、雇用を創出すれば収益が増大することを知っていた。
そこには民主主義はなかったが、結果に対する責任はともなっていた。
ソ連時代の農業についていえば、農家は必要な稲種や肥料はすべて支給されていた。
そうしたもののインプット(トラクターなど)の入手についても、アウトプット(収穫)を売ることについても農家が心配する必要はなかった。
しかし市場経済のもとでは、インプットおよびアウトプット市場が形成されなければならない。そのために必要なのは新しい企業体や事業体だった。
ロシアには、欧米の制度と似た名称をもつ制度もあったが、その果たす機能は異なっていた。
例えばロシアには銀行があり、銀行は預貯金を集めたが、誰に融資するかをめぐっては自ら決定を下すこともなければ、融資の返済についての監視や督促をすることもなかった。
彼らは、政府の中央計画当局の指示に従って「資金」を供給するだけであった。
政府は企業に与えた生産量のノルマを課したが、経営者はノルマを達成すべく仕事をこなし、時に少し多い特典をえたりした。
ソ連時代、法の抜け穴をすり抜けることが常態化しており、ロシアが市場経済に移行する過程で、予想されたごとく「法の原則」が崩壊する。
成熟した市場経済国家に法と規制の枠組みが出来たのは、資本主義の諸問題に直面したからだ。
銀行法規は大規模な銀行破綻が起こったからであり、有価証券法も様々な不正が横行したからだ。
新規企業が土地をてにいれるために必要なのは、不動産市場と不動産登記である。
こうしたことは他国の経験から学ぶことが出来たはずだが、IMFの市場経済論者はそれらのことを軽視し、ロシアに制度的な基盤のない市場をつくった。
「ワシントンコンセンサス」は、緊縮財政、民営化、市場の自由化を三本柱としたが、IMFがソ連経済の市場経済への移行で優先したのが「民営化」だった。
「民営化」を迅速に進めなければ、共産主義への後戻りすることが懸念されたという面は否定できない。
だが、そもそも社会主義体制に馴染んだ経営者や労働者に、「競争」というマインドが育っていなければ、資本主義は育たない。
最初に民営化して、競争や規制を後回しにした場合、ひとたび既得権益が生まれれば、規制や競争を押しつぶそうとする。
ロシアの「オリガルヒ(新興財閥)」もこのようにして生まれたものだった。
ワシントンコンセンサスに基づくソ連の市場経済移行のプログラムは、ロシア経済に混乱ばかりをもたらし、経済は社会主義体制の時代よりも後退する。
一時は「マフィアが牛耳る」ともいわれたほど、「法の支配」とは程遠い経済社会が形成された。
こうした背景が、プーチン大統領とその片棒を担うオリガルヒによる支配体制であったということだ。