突破する会社

アメリカでは現在、約40年間不変だった独占禁止政策を見直す動きが加速している。
アメリカの民主党と共和党を分かつポイントの一つは、前者の「大きな政府」か後者の「小さな政府」かである。
民主党のバイデン大統領は、2021年7月、産業界の競争を促すための大統領令に署名した。
その対象は最近批判が高まっているIT大手だけでなく、金融や航空、通信など幅広く、「勝者総取り」の経済に一石を投じようとしている。
そうした根拠となるのが独占禁止法(反トラスト法)である。
「反トラスト法」は厳密にいうとシャーマン法など3つの法からなりたつが、市場を寡占している企業がその立場を利用して競争を不当に阻害する行為などを禁止・制限する法律である。
1890年制定という古いこの法律は、各国における独占禁止法のモデルとなり、日本でもこれをモデルにして1947年に独占禁止法が制定された。
振り返ると、アメリカは1970年代まで厳しい独占禁止政策をとってきた。
しかし1980年代の共和党のレーガン政権時代以降、消費者価格の上昇を招かない限り、M&A(合併・買収)や民間取引契約に国家はなるべく「介入」しない方針を貫いてきた。
その後、インターネットの普及に伴い、GAFAによる市場の寡占が進み、その強大な力を利用した事業拡大手法に批判が集まるようになった。
例えば、米アマゾン・ドット・コムが自社運営のECモール(ネット上の商店街)で自社製品を優先して消費者に薦めることは、プラットフォームを利用しビジネス展開する他の企業にとって不公平になる。
2020年には米司法省などがグーグルやメタ(旧社名フェイスブック)を「反トラスト法」違反で相次いで提訴している。
また、人気ゲーム「フォートナイト」の開発元も20年8月、アップルが開発企業に課す30%のアプリ配信手数料を不服としてアップルを提訴し、米連邦地裁は1審で課金ルールについては「反競争的」だとして見直しを命じた。
こうした規制の強化は、日本でも表れてきている。
日本で「独占禁止法」の下で公正取引委員会があるが、時々「カルテル違反」の摘発でその存在を思い出させる程度にしか機能していない。
ところが直近のニュースでは、 公正取引委員会が動いた。
国内のスマホOSのシェアはグーグルの「アンドロイド」とアップルの「iOS」で9割超を占める。
アンドロイドの利用者の大半はグーグルのアプリストアを使い、iOSではすべての利用者がアップルのアプリストアを利用している。
一度いずれかのOSを搭載したスマホを所有した消費者は別のOSのスマホに乗り換えにくく、報告書は「現在利用しているOSへのロックイン(囲い込み)効果が働いている」と指摘している。
市場は米IT大手のアップルとグーグルによる寡占状態になっており、「十分な競争が働いていない」と指摘し、競合の参入を促すため、事前規制を含めた新たな法整備を政府に提言した。

18C、アダムスミスの時代は、イギリスの産業革命初期の歴史遺産ダーウェント峡谷の工場群群(水力による紡績)などにみられるように、比較的小規模の会社が競争する社会を想定している。
工場のことを「Mill(粉ひき場)」とよぶのがなんとも象徴的だ。
ところが、こうしたドングリの背比べ的な業界は先進各国ではもはやみられない。
とはいっても、独占や寡占のない経済社会を「完全競争市場」というモデルと対比してみることは、独占や寡占がいかに消費者に不利益をもたらすか、ということを考察する上で便利なのである。
いっぽう、そうした「消費者主権」の立場にたってもなお、経済学者は独占や寡占のもたらす「利益」については言及しないことを暗黙のルールにしているフシがある。
一応、ミクロ経済学では、大規模化・大量生産によるコスト低減、つまり「規模の経済」(スケールメリット)として消費者に利益をもたらす点は大いにあるのだが、どちらかといえばスケールメリットは大企業の独占的利益獲得の手法として語られることが多い。
しかし、スケールメリットが消費者の利益に繋がっている例はいくらでもある。
ところで各業界の「市場占有率」(マーケットシェア)、つまり業界の中の特定企業の売り上げ比率を見るのは、興味がつきない。
気になるのは、日本で純粋な意味で1社による民間の「独占企業」があるのだろうか。実はそれに近いのが、ジッパー・ファスナー業界である。
ファスナー(ジップ)といっても服ばかりではなく、パンツ、トップス、ブルゾン、バッグ、シューズなどに使われている。
そこには「YKK」というロゴをみいだすことができる。(Y)吉田(K)工業(K)株式会社、「吉田工業株式会社」を表している。
現在はYKK株式会社になっているが、ファァスナー業界におけるYKKの国内市場においては95%!世界市場においては45%を占めているという。
つまりYKK株式会社は、2位以下を大きく引き離す圧倒的世界一のファスナーメーカーなのである。
なぜこんなにも圧倒的な差をつけることができたのだろうか。
ファスナーは1200もの要素技術の集合体だそうで、もはや精密部品で、海外から流れてきたジッパーを日本が誇る技術力で独自に進化させた。
独自の技術を活かし、材料・製品だけでなく、それらを作る製造機械をも自社で製造している。
しかもその機械はどこにも売っておらず、技術の流出を防ぐことができるというわけである。
技術と品質を評価されたYKKファスナーは世界的なブランドで使用されている。
自社製の製造機械なので世界中どこで作っても同じ品質がしっかりと保つことに繋がっている。
シェアは圧倒的に低いものの、世界中の服好きから好まれるメーカーがあることにはある。
日本と同じ精密機械に強いスイス製や古着に使われるアメリカ製などである。
また最近では中国でシェアを伸ばすSBSがファスナーのシェアの2位につけている。
ちなみにYKKは、年間約100億本のファスナーを生産しているが、窓やサッシなど住宅設備事業にも強みを持つ。
また、市場占有率をグラフ化して面白いのが、印刷業界である。
1位が 凸版(とっぱん)印刷で15、475億円 2位が 大日本印刷13、441億円、3位が NISSHA 1、892億円であるから2社が断トツである。
業界トップ2社が他を引き離しているだけなら広告業界(1位電通/2位博報堂)シャッター業界(1位三和/2位文化)があるが、印刷業界の場合はツインピークスのように2社が並んでそびえている。
「野武士の大日本、公家の凸版」または、「営業の大日本、技術の凸版」ともいわれる。
我が福岡市においても、中央区の薬院駅近くには大日本印刷、南区の清水周辺は凸版印刷がある。
大きな印刷会社があるところには出版社が集まる。 凸版印刷福岡支社の近隣には教科書会社などが多く集まる。
大日本印刷は、1876年に佐久間貞一が創業した。最先端の英国よりも秀でるようにと名付けた。
創業当初は、新聞印刷などを細々と行っていたが、ベストセラー「西国立志伝」を印刷するなど、出版業界にも進出。文明開化の進展で需要が増加するにつれて、大量印刷の体制を整えていった。
1935年に日清印刷と合併して「大日本印刷」と改称。1945年に終戦を迎え、都心一帯が焦土と化すなか、市谷工場は幸いにも被災を免れた。
活字に飢えた人々は印刷物を渇望し、戦後の出版界は活況を呈した。その一方で、印刷業界では労働運動が激化し、大日本印刷も経営を揺るがすほどの深刻な状況に陥いった。
そこで当社が下した決断は、労使協調を図り、出版印刷以外の分野、紙器、軟包装、建材、ビジネスフォームなど果敢に進出することであった。
1950年代後半、「週刊新潮」を筆頭に、週刊誌の創刊ブームが訪れた。
それまで週刊誌は取材力や機動力を有する新聞社しか発行していなかったが、大日本印刷が出版社のニーズに応え、製造能力を拡充したことで、出版社による週刊誌の発行が可能となった。
1946年には大蔵省の管理工場として「紙幣」の印刷をうけおい、証券類印刷のノウハウを吸収し事業拡大の契機となった。
1955年の「週刊新潮」印刷の受託を機に、製造部門に交代制を敷き、即時性と大量生産体制を確立。
その一方で、カレンダーやカタログなどの商業印刷や特殊印刷などに進出して飛躍的に発展、1973年には「世界最大」の総合印刷企業となった。
国内印刷物の販売額が96年にピークを迎え、印刷事業が縮小を余儀なくされるなか、エレクトロニクス、デジタル情報サービス、ライフサイエンス事業にも進出し、総合情報加工業へと転身した。
特に、カラーテレビのシャドウマスクの製造は売上を大きくのばした。
丸善、ジュンク堂書店、雄松堂書店を買収し、出版書籍販売にも進出。現在では印刷事業が売上高の半分以下になるほど多角化に成功している。
一方、凸版印刷の方は、1900年に大蔵省紙幣寮(現・財務省印刷局)出身の技術者・木村延吉、降矢(ふるや)銀次郎らが東京下谷に凸版印刷を 設立。
木村・降矢らは、明治政府が招聘したイタリア人銅版画家キヨソネの部下となって紙幣印刷の技術を学び、キヨソネの帰国と共に大蔵省を退官。
当時の最高級印刷技術だったエルヘート凸版法にちなんで、社名を凸版印刷にした。
大蔵省出身だけに、同社は有価証券の印刷や高セキュリティーのカード発行技術に強みをもつ。
しかし創業当初はその技術を生かすチャンスに恵まれず、民営たばこの包装紙や百貨店のポスターなどを製造した。
主力工場が戦災をまぬかれたこともあって、終戦直後の1946年に大蔵省から百円紙幣の印刷を請け負い、進駐軍の印刷物や宝くじの印刷などの受注に追われた。
その一方、カラー印刷の将来性を見据え、早くから光速多色輪転機、8色刷オフセット輪転機の準備をはじめ、67年に原色百科事典の敢行、翌68年に色刷新聞の発行などで躍進した。
近年では、磁気カードやICカード、液晶カラーフィルターなどのエレクトロニクス部門の比重が高まっている。
特にICカードは83年に我が国で初めて製造に成功し、国内でトップシェアを誇るとともに、英国のデビットカードや海外の地下鉄カードなどの受注に成功。 グローバルな展開を見せている。
最近では、「マイナンバーカード」製造を請け負う会社となって勢いづいたのか、テレビCMで「突破する会社」というフレーズで「印刷する会社」を超えつつあることを宣伝している。
近年、テレワークによる働き方改革が進むなか、電子契約を導入する企業が増えている。
また新型コロナウイルスの感染拡大により、様々な業界で非対面による手続きのニーズが高まっている一方で、不正利用やなりすましによる問題が顕在化しはじめ、非対面での本人確認手法として公的個人認証が注目されている。
昨今、マイナンバーカードの普及率が向上し、地方公共団体情報システム機構が運営する公的個人認証サービス(JPKI)の民間事業者による利活用が進んでおり、マイナンバーカード活用への期待が高まっている。
これらを踏まえ、凸版印刷は2021年4月にJPKIと連携した「本人確認アプリ」を開発し、安全で正確な非対面本人確認アプリサービスを提供している。

企業にとって一番難しいことは、時代環境に応じて「変化」していくことだと思う。
かつてデジタルカメラの世界で、アメリカのコダックと日本の富士フィルムがしのぎを削ったが、日本の富士フィルムは医療分野に進出して生き残った。
「ゼンリン」は、大分県宇佐市出身の大迫正冨が、1948年4月に別府市で友人と創業した観光文化宣伝社を前身とし、この年を創業としている。
翌1949年に独立して華交観光協会を設立する。
観光客向けに名所旧跡を紹介する小冊子『年刊別府』を制作したところ、巻末付録であった詳細な市街地図が土地勘のない観光客の間で好評で、地図への掲載要望が相次いだ。
これに手応えを感じた正冨は、翌1950年に社名を善隣出版社と改め、2冊目となる『観光別府』を制作する。
「観光別府」では付録の地図情報が一層充実し、住宅地図に近いものとなった。
社名は正冨が好んだ言葉「善隣友好」から採られた。
戦時においては地図は軍事機密となるため「平和でなければ地図づくりは出来ない」という思いが込められている。
1952年に「別府市住宅案内」が販売された。江戸時代の古地図や戦前の町内案内図などから着想を得て、一軒一軒の建物の情報が記載された地図は、商店や官公庁など各方面で評価された。
1954年3月には販路拡大を目指して福岡県小倉市下到津(現在の北九州市小倉北区)へ移転し、「住宅案内図」の名称も「住宅地図」へと改めた。
1952年全国制覇で、それを見届けるかのように創業者の大迫正冨が社長在職のまま59歳で病没。後任には正冨の長男である大迫忍が就いた。
その後、東京都の島しょ部7村(利島村、新島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、青ヶ島村、小笠原村)の住宅地図帳を、創業記念日である6月16日に初めて刊行した。
これにより、北方4島および島根県隠岐郡隠岐の島町の一部(竹島)をのぞく日本全国すべての市区町村(1741市区町村)の住宅地図データの整備が完了した。
1980年代に入ると2代目社長となった大迫忍の主導により他社に先駆けて地図のデータベース化に着手し、日立製作所と「住宅地図情報利用システム」を開発した。
これにより出版物だけでなく地図データの販売も可能となり、1988年にはCD-ROMに地図データを収録した「Zmap電子地図」を販売。
1990年には、GPSに対応した世界初のカーナビゲーションシステムを三菱電機と開発し、ユーノス・コスモに搭載された。
1990年代にはカーナビゲーションやパソコンが一般化して売上を伸ばし、1996年9月には東証・大証各2部への上場を果たした。
地方の地図出版社であったゼンリンをデジタル化の推進によって国内最大手の地図情報会社へと飛躍させた2代目社長の大迫忍は「年を取ると老害になる。55歳で引退する」として2001年をもって20年間務めた社長を勇退し経営から退いた。
同時に「同族経営は弊害を生む」として同族企業から脱却させ、後任には創業家以外から原田康が就任。
2000年4月、インターネットの普及を受け、ネットワーク配信事業を行う「ゼンリンデータコム」を設立した。
創業以来、現地で実際に目視し状況を確認するのがゼンリンの調査の特徴となっており、その様子は「現代の伊能忠敬」とも例えられる。
2018年現在も全国に約70の調査拠点と約1000名の調査スタッフを有し、都市部で毎年、他の地域でも最大5年周期で徒歩による現地調査を実施している。
「ゼンリン」の住宅地図全国展開の経過は、NHK「プロジェクトX」で2004年「列島踏破30万人 執念の住宅地図」として放映・書籍化された。
「ゼンリン」はまさに「走破する会社」であり、そして「突破する会社」の名にふさわしい。