印字の香る街(市ヶ谷~飯田橋)

最近、デジタル化が進み書店が随分減ったと聞くが、今から40年ほど前、我が学生時代に馴染んだ場所のことが思いだされる。
我がアルバイト先にしていた東京新宿区牛込から市ヶ谷辺りは、出版社や製本屋が軒を連ね、印字の香りさえした。
なぜこの街にそんなに出版社が集まっていたのか、当時は考えもしなかなかったが、今思えば大きな印刷会社があったからだと推測できる。
それは「大日本印刷」で、市ヶ谷から飯田橋あたりは、その城下町のような風情であった。
印刷業界は、「営業の大日本、技術の凸版」ともいわれるほど、今でも両雄が他を引き離している。
大日本印刷は、1876年に佐久間貞一が「秀英舎」を創業。最先端の英国よりも秀でるように名付けた。
創業当初は、新聞印刷などを細々と行っていたが、ベストセラー「西国立志伝」を印刷するなど、出版業界にも進出。文明開化の進展で需要が増加するにつれて、大量印刷の体制を整えていった。
1935年に日清印刷と合併して「大日本印刷」と改称する。
終戦で、都心一帯が焦土と化すなか、市谷工場は幸いにも被災を免れ、 活字に飢えた人々は印刷物を渇望し、戦後の出版界は活況を呈した。
1946年には大蔵省の管理工場として「紙幣」の印刷をうけおい、証券類印刷のノウハウを吸収し事業拡大の契機となった。
1955年の「週刊新潮」印刷の受託を機に、製造部門に交代制を敷き、即時性と大量生産制を確立した。
その一方で、カレンダーやカタログなどの商業印刷や特殊印刷などに進出して飛躍的に発展、1973年には「世界最大」の総合印刷企業となった。
国内印刷物の販売額が96年にピークを迎え、印刷事業が縮小を余儀なくされるなか、エレクトロニクス、デジタル情報サービス、ライフサイエンス事業にも進出し、総合情報加工業へと転身した。
丸善、ジュンク堂書店、雄松堂書店を買収し、出版書籍販売にも進出。現在では印刷事業が売上高の半分以下になるほど多角化に成功している。

市ヶ谷といえば、終戦まもなく「極東軍事裁判」が開かれ、その後に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となった。
もの静かなお堀端から見える街の風景は、そんな歴史の重みを忘れてしまうほど。
JR中央線の窓から見えるお堀端の釣り人の姿や「日本棋院会館」の建物に、随分と癒された気分になった。
そして東京に住む受験生にとっては、大手予備校があった青春の思い出の場所でもある。
市谷左内町は市ケ谷駅の西側の一角にあたり、 町域の西南に「左内坂」という坂があり、その坂を上った処に城北予備校があった。
ちなみに、この左内坂に面する防衛省 の裏門は、「左内門」と呼ばれる。
城北予備校は今はなくマンションが立ち並ぶが、経営母体は城北高校を中高一貫校として経営しており、板橋区に存在している。
当時の近藤薫明校長は、午前中は中学高校、午後は予備校に通う生活を30年間続けた。
この予備校に通っていたのが、「三浪」を体験した作家の安岡章太郎である。
そして、安岡章太郎氏の「やせがまん/へそまがり/なまけもの」の思想シリーズにしばしば登場する場所が、東京・市ヶ谷である。
市ヶ谷が登場するもうひとつの理由は、同じく「第三の新人」とよばれた作家・吉行淳之介との交友があり、吉行宅が市ヶ谷に存在したからである。
東京・市ヶ谷のお堀端の土手は春先は桜の名所で、学生が通学で歩くのには贅沢すぎるといっていいほど眺めのいい場所である。
この細い道を歩いていると「吉行あぐり美容室」という看板が立っている建物に遭遇した。
NHKで「あぐり」が放映されていた1990年代に「吉行あぐり」とは、作家吉行淳之介のお母様ではないかと思いつつ、なおも「営業」が続けられていることに驚いた。
吉行一家とは、いわずとしれた作家・吉行淳之介、女優・吉行和子、詩人の吉行理恵のことである。
美容室は、後にJR市ヶ谷駅前のビルの中に移転され、今この建物は失われている。
さてこの吉行一家のファミリー・ヒストリーも、日本の歴史を背負っていることがわかる。
NHKドラマ「あぐり」のモデルともなった 吉行あぐりは、1907年に岡山の弁護士一家に生まれた。
第一岡山高等女学校在学中に15歳で作家吉行エイスケと結婚し、その後、「アメリカ帰り」の洋髪美容師・山野千枝子の内弟子を経て、1929年東京市ヶ谷に美容室を開店した。
1940年に、夫・エイスケと死別しその後、再婚している。
戦後は「山の手美容室」を「あぐり美容室」にした。我が大学時代に、市ヶ谷の土手で遭遇した当時の「あぐり美容室」では馴染みの客に限定して店を開いていたようだ。
吉行あぐりさんは、最高齢の美容師免許所持者として百歳を超えて今ナオ健在であるのは、驚き以外のなにものでない。なにしろ、息子の淳之介、理恵はすでに他界しておられたからである。
吉行あぐりの生涯を振り返ると、当時の「スペイン風邪」の流行で、父と姉を失い、事業を興すも失敗し、一文無しになったことがあった。
15歳で作家の吉行エイスケという不良に嫁いだのも学校に行かせてくれるという話だったからだ。
しかし15歳の結婚は、あの頃でも世間の噂になったという。
また、あの当時女性が働くことはほとんどなく、吉行の義父に「女髪結いになるのか」とたいそう怒られて、こわくて義父の顔さえ見ることもできなかったほどだったという。
それどころか、娘・和子がやってる女優は「河原乞食」、息子・淳之介の仕事なら「三文文士」にすぎないという風潮さえあった。
淳之介が作家になったのは、早くして亡くなった父の影響ではなかった。
淳之介は中学を出るまで少年雑誌しか読んだことがなかった。 ところが静岡高校で周りに「刺激」されて、作家を目指すようになったという。
吉行和子は3歳の時から喘息持ちで、学校にも殆ど行かず、この先どうなるのかと心配した。 ただものすごく手先が器用で、人形の着物を実にうまく作ったりしていた。
一番下の理恵は、マン丸太っていて一日外に出て遊んでバカリいた。 しかし今では、和子がドコにいるかわからないくらい外国にいて、理恵の方は一日中家に閉じ隠って物を書いているのだから、人間どうなるかわからない。 ともあれ吉行あぐりは、働く女性、手に職をつけた女性の草分け的存在である。
早くに夫を亡くし、一人で負債を背負い、たった1人で3人のこどもを育てた。
三人とも「あの」という言葉がつくくらい著名人となったが、「明治人」というホームページのインタビュアーによれば、吉行あぐりの言葉からはそうした苦労をカンジさせるところはないという。むしろ「不便を懐かしむ」という口吻だったという。

東京マラソンで最後の坂がある辺りに立地する陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地は、1969年、三島由紀夫割腹事件で騒然となった。
この駐屯地で、作家を目指していたのが浅田次郎である。
浅田次郎は1951年うまれ 中央大学杉並高等学校卒業。陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け1991年、「とられてたまるか!」でデビュー。
「鉄道員」で直木賞を受賞し、時代小説の他に中国・清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビドラマ化された作品も多い。
浅田は、9歳まで東京都中野区鍋屋横丁で育ち、以後、都内を転々とすること18回。
生家は神田で喫茶店を営んでいたが、戦後のどさくさにまぎれて闇市で父が一旗上げて成金になり、父の見栄で杉並区の私立のミッションスクールに運転手付きの外車で通い(電車通学もした)、メイドがいる裕福な家庭で育った。
ところが9歳の時に家が破産、両親は離婚し、母は失踪、しばらくの間、親類に引き取られた。
間もなく、母に兄と浅田を引き取る目処がつき3人暮らしが始まり、駒場東邦中学校に入学、2学年より中央大学杉並高等学校へ転入し卒業した。
13歳の時に集英社の「小説ジュニア」に初投稿して以降、数々の新人賞に応募と落選を続け、30歳ぐらいの時に群像新人賞の予選を初めて通過した。
青春時代の知的シンボルで憧れの存在だった三島由紀夫が三島事件を起こし、“世界中がまっしろになるような”大きな衝撃を受けた。
高校時代に小説家を志し原稿を出版社に持ち込んだ帰り道、ボディービルジムにいる三島を見かけたことがある。事件のことを知りたくて、陸上自衛隊に入隊、第32普通科連隊に所属する。
基礎訓練後に配属されたのは、東京出身だったこともあって奇しくも三島が自害した市ヶ谷駐屯地だった。
在職時は、「おまえは実戦ならまっさきに戦死だ」などと言われていたという。
一度だけ災害派遣の経験をし、1973年春に自衛隊を任期満了で除隊している。
元々、小説家になりたいと思っていたが、自衛隊生活も思いの外気に入っていたことや、第一師団司令部への転属の誘いもあり、辞めるべきかどうか深く悩んだという。
結局、小説家になるという昔からの夢を叶えるために除隊、入隊中の2年間の遅れを取り戻すべく、小説を書く時間が取れる仕事をしながら習作や投稿を続けたが、一向に日の目を見ることはなかった。
婦人服販売会社を営む傍ら、雑誌ライターとして、インタビュー、書評、風俗ルポ、競馬予想など注文に応じて様々なテーマの記事を書き、記名原稿の場合は、その都度記事に合った異なるペンネームを使用していたという。
ヤクザの抗争事件が頻発していた頃、ヤクザの日常生活や事件の解説をヤクザ側の人間になりきって書く「極道エッセイ」の連載を依頼されたりもした。
1990年から『週刊テーミス』で連載された「とられてたまるか! 」は好評で、1991年に学習研究社から単行本化された。
同作に注目した複数の出版社から「極道小説」という制約付きでいくつか小説の依頼を受けるようになった。
祖母は祖父と結婚する前は向島の芸者だったという。河竹黙阿弥の芝居を好んだこの祖母に歌舞伎の観覧によく連れて行かれ、その影響で、黙阿弥を文学の神様のように信奉するようになった。
自衛隊時代の経験を元に執筆した「歩兵の本領」(1983年)は、祖先が武士であることから時代小説も多く書いており、「壬生義士伝」などの新撰組を材に求めた作品もある。

東京の市ヶ谷のお堀端にそって飯田橋方面にあるくと赤坂見付あたり、ちょうど赤坂プリンスホテルが聳えていた向いの場所あたりに紀伊国坂があり、ここが小泉八雲の「むじな」の舞台となる。
ここから大久保利通が暗殺された紀尾井坂も近く、坂下の清水谷公園には豪壮な「殉難碑」がたっている。
清水谷公園は、近くのホテルニューオータニでホテルマンをしていた森村誠一の「人間の証明」(1975年)の舞台でもある。
この公園が殺人現場となって、手がかりとなる「麦わら帽子」が見つかった場所である。
個人的な話だが、JR飯田橋駅近くの「東京出版販売」という会社でアルバイトしていたことがある。
仕事の内容は全国の書店やコンビニから集まってくる売れ残りの書籍を紐解いて出版社ごとのボックスにいれ、それを再び梱包して当該出版元に送り返す仕事で、かなり広い作業場の中で50人ぐらいがグループに分かれてアルバイトで働いていた。
あらゆる書籍が手に取れるために、本好きには願ってもない仕事で、休み時間を利用して興味のある本を読んでいる人もすくなからずいた。
そして市ヶ谷駅から歩いて飯田橋駅に近づくと、神楽坂の入り口につく。
神楽坂周辺にも、家族経営のような製本屋が数多くあった。 新藤海の「天気の子」の冒頭で、主人公がアルバイトをする出版社も、この街を忠実に描いた作品だけに、神楽坂の赤城神社へ昇る辺りであることが推測できた。
神楽坂の花街の風情をを残すあたりには、このあたりに土木建設会社を創業した田中角栄の縄張りみたいなところである。
また、作家が締切ぎりぎりまで原稿が書けるようにか、出版社の社員がいちはやく原稿がかけるようにか、そうした目的の旅館がある。
この旅館は面白いことに、女優の木暮美千代の親族が経営する旅館である。東京神楽坂に「和可菜」という料亭がある。
和可菜は、いわゆる「カン詰用」の料亭でここで多くの小説やシナリオが書かれた。
そして多くの作家、映画監督や脚本家たちに使われた旅館で、結城昌治、野坂昭如、色川武大、伊集院静などである。
またNHK大河ドラマや山田洋次・浅間義隆の共同執筆による「男はつらいよ」シリーズ35作から最終作はここで書かれている。
この料亭のかつてのオーナーは、和田つま、つまり「木暮実千代」として知られた女優である。
実質的な経営は、つまの妹が行っていたが、木暮は当時、出演していた映画「源氏物語」から「若菜」という名が思い浮かんだらしく、和田の「和」をいれて「和可菜」としたという。
木暮は、和田牛乳の「三代目」と期待された和田輔(たすく)の子供で、四人姉妹の三女として生まれた。
親の期待を裏切り、「三代目」に成り損ねた輔ではあったが、中国や朝鮮から運ばれてきた牛馬を検疫するために下関の彦島に牧場をつくったのだ。
そして、これが「下関彦島検疫所」となり、戦時下にあって和田家が「官」と繋がることにより、その牧場も「政治的」な関わりをもつことになったのである。
つまりここでは、動物と政治が「軍国主義」の台頭という形で結びついていたのであり、そこに「下関彦島検疫所」が存在したのである。
そのため和田輔の娘・木暮実千代は「下関生まれ」で山口の梅光学院を卒業した。
東京にでて明治大学を受験しとようと願書を出しにいったところ、締め切りを過ぎていたことが判明した。
その為に、帰り道に日大芸術学部に願書を出したところ、合格してしまった。木暮もまた父親ゆずりの風来坊気質があったのかもしれない。
そして日大芸術学部の学生時代に、その「美貌」が目にとまり松竹にスカウトされ女優の道を志すことになったのである。
木暮の同期の学生には三木のり平や女優・栗原小巻の父・栗原一登などがいた。
木暮は、女優として成功し、後にいとこで20歳も年上の気鋭のジャーナリスト和田日出吉と結婚する。
和田日出吉は、新聞記者として牧場視察のためウイスコンシン州などを回ったが、結局は「牧場経営」には全く関心を示すことはなかった。
ただし新聞記者としては一流で、当時の政財界を揺るがした「帝人事件」を題材にした小説「人絹」を書き、一躍「時の人」となっている。
ただ木暮美千代という女優が必ずしも「和田牛乳」の広告塔になれなかったのは、絶えず病との闘いであったこともあったのかもしれない。
しかし、「和田牛乳」も戦争という事態にアラガウことは出来ずに、ついには「明治乳業」に合併されている。
一族の和田静雄が「和田式ダイエット術」(1957年)という本を書いてベストセラーとなったが、この本に書かれた「痩身術」は、馬の痩身術から生まれたものであった。今でも和田研究所「美しく痩せる方法」は、一般に愛読され続けている。