フィクションのような事実

福岡県筑豊には「事実」のようなフィクションがある。それは福岡県八女福島出身の五木寛之の小説「戒厳令の夜」。
「戒厳令の夜」は福岡市の繁華街・中洲のバーで一人の老人が一枚の絵画とであったことから始まる。
その絵はスペインの大画家パブロ・ロペスのものだった。占領下のパリでナチスに略奪され、杳として行方の知れなかったコレクションが、今なお日本のどこかに眠っている。
主人公が謎をおっていくうちにヒットラーがその収集していた絵画を、当時ドイツと同盟していた日本の筑豊炭鉱に隠したということが判明したのである。
ヒトラ-が各地に名画を隠したことは事実ではあるがこの小説はあくまでフィクションである。
一方、筑豊には炭鉱の生活をなまなましく描いた絵集としく伝えた壮大なノンフィクションがある。
作者・山本作兵衛は1892年、福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)に生まれた。6人兄弟の次男であり、父・福太郎は遠賀川の船頭であった。
遠賀川で石炭輸送に従事した父は、筑豊興業の開通により船頭に見切りをつけ炭鉱に移って採炭夫となった。作兵衛は、父の仕事の手伝いと子守りにおわれ学校にもほとんど通うことができずに唯一の楽しみは絵を描くことであった。
小学校卒業後、採炭夫として後山の仕事をした。後山(あとやま)とは、先山(さきやま)である採炭夫を助けて、掘り出した石炭を運搬する仕事である。
その後、福岡にでてペンキ屋、鍛冶工などの仕事を経験するが結婚を機に坑夫に戻る。そして一家8人の口を糊するために死に物狂いで働いた。
1945年、長男の戦死が作兵衛の転機となった。長く尾をひく心の寂しさから、気を紛らわすためにヤマの有様を描いて残そうと絵筆をとりはじめた。
山本がはじめて画用紙と名の付くものを買ったのは68歳の時で、亡くなるまでに1千枚を超える絵が描かれた。
炭鉱で生きる人々の息づかいまでが伝わって、上野英信や土門拳はじめ山本の絵画に感銘をうけインスピレーションをえた人は多い。
山本の絵は1963年に「明治大正炭鉱絵巻」として自費出版され、死後27年の2011年、ユネスコ「世界記憶遺産」に日本で初めて登録された。

福島県いわき市には、「フィクション」のような事実がある。
中村豊は、1902年佐賀県東松浦群北波多村で生まれ、小さな炭鉱経営者の息子として育った。
北波多村は海に面しているため家を出ればすぐ近くに海があり少年時代に海の思い出が多い。
中村には、日本中の「泳ぎたい」という少年たちを楽しませたいという夢が芽生えいてた。
中村は東京帝国大学(現在の東京大学)を出て常磐炭鉱に勤めた。
1964年、常磐炭鉱の副社長だった中村は、石炭から石油へのエネルギー転換が進む中、 炭鉱への思いは強かったが、石油への移行という予感は的中。 業績の悪化で、会社は2千人の人員整理を発表していた。 致し方ない対応であったが、中村にとって、苦渋の決断だった。
中村は、このまま閉山すれば、山の家族全員が路頭に迷ってしまう、それどころか街がなくなってしまう、何とかしなければと思った。
中村がまず目をつけたのは、炭鉱内に湧き出ていた温泉。 一部が地元の旅館で利用されてはいたが、従業員達にとっては作業の邪魔でしかなく、炭鉱では多額の費用をかけて廃棄していた。
中村は、この温泉を利用した大型の温水プールを観光施設の柱にしようと考えた。
そして地下に温泉を通すパイプを設置し、熱を利用して南国の植物を育てることを計画した。
早速、アメリカを視察したたものの、心に響く観光施設はなかったため、休息を兼ねて立ち寄ったのがハワイであった。
中村がハワイに立ち寄った頃は、山田洋二監督「新男はつらいよ」(第四作/1970年)が上映された頃で、寅さんが馬券をあてて叔父さん夫婦に「ハワイ旅行」をプレゼントする話があった。
柴又商店街総出で見送りにくるなど、海外旅行がいかに「高根の花」であったかがよくわかる。 そして何より大切なのは「雇用」。メインの施設はもちろん、宿泊施設や飲食店の従業員など、全てを炭鉱マンやその家族といった地元の人でまかなうこと。
とはいえ「炭坑から観光へ」という前代未聞の挑戦、それには、多くのトラブルが立ちはだかった。
例えば、秋の冷え込みを受け、ヤシの木が弱ってしまった。すると、中村は石油ストーブを使って、ヤシの木を温めることを思いつき、炭鉱中の家からかき集めた。これにより集まったストーブは約200台。
温泉パイプが完成するまでの1ヶ月間、なんとかヤシの木を守ることができた。
また、ハワイアンセンターに建設が計画されていた宿泊施設は、料金は格安。 客を奪わないでくれと旅館組合から抗議の連絡をうけることもあった。
しかし、中村は温水プールとショーを目当てに、1日数千人以上ものお客さんが来てくれると予想していた。ウチに入りきらん客が旅館に流れ、温泉旅館の良さも味わう。相乗効果で観光客が増える。
これで地元の繁栄に繋がると力説し、 旅館を周り理解を求めた。
そして最大の課題は地元の娘たちをダンサーに育てること。ハワイアンダンスを教える講師は外部に求める他はないが、ハワイに探すほかないと思っていた頃、中村はTVを見ていて偶然、その適任者をみつけた。
オープンまであと10ヶ月と迫った頃、中村はダンサーと演奏者を育てる「常磐音楽舞踊学院」を開校する。
ダンサーを育成する舞踊科には、なんとか18名の生徒が集まり、寮生活のもとレッスンが始まった。
講師は早川和子(カレイナニ早川)、彼女の名前に冠した「カレイナニ」は美しいレイ(花輪)の意味である。彼女は服部・島田バレエ団、ジェン・バローバレエ団を経て、ポリネシアン舞踊に転じた経歴をもつ。
子どものころから踊りが好きだった早川は、帝国劇場で初めてバレエを見て感動し、終戦の翌年、中学2年生のときにクラシックバレエを習い始めた。
高校生の頃、日劇でハワイから来たダンサーの生フラを観たとき、フラはこんなにも品の良いものなのかと感銘を覚えた。
24歳でハワイにはじめてハワイに行き、年二度目の留学で、ハワイのイリマフラスタジオでアンティ・ルイス・カレイキ姉妹に師事し、1974年12月、「クム・フラ」のディプロマを修得した。
1975年に帰国して、日本でのフラの認知度を高めたいと思っていた矢先、NHKの人気クイズ番組「私の秘密」への出演依頼があった。
そしてハワイで出会って親友となったレフアナニ佐竹(令和3年死去)と出演した。
番組では「日本で初めてフラの名取になりました」と紹介されたが、その番組を、遠く福島の地で見ていたのが中村豊であった。
早川がNHKを介して中村と会った時、中村は「あこがれのトロピカルパラダイスをつくりたい」と語ったものの、早川には、夢物語にしか思えなかった。
佐竹とともに、初めて連れて来られた建設予定地も、うっそうとした山。人家がちょこっとあるだけで、ニワトリが歩いていたり、豚舎の臭いが漂っていた。
東銀座の常磐炭礦本社で何度も説明を受け、中村の熱意と土地や炭鉱で働く人たちへの愛情の強さ、常磐炭鉱の人々に会ううちに、この人たちのために役に立つならなら、やってみようと思うようになったという。
とはいえ、当時いわきの地でフラへ理解のある人はほとんどおらず、むしろダンサーという職業に対して偏見の方が強かった。
炭鉱の娘たちを裸にさせてという地域からの強い反対もあった。
実は、集まった生徒達はフラガールになりたいと思って入学した者はほとんどいなかった。
大半が踊りの素人で、まず目についたのは姿勢の悪さだった。早川は素人が踊っているようなショーでは許されない。厳しく教えてプロ意識を育てなければいけないと思ったが、生徒達は自分達の踊りが求められている意味が分かっていなかった。
そのレッスンの様子を見た中村豊は、生徒達にこう語りかけた。
「これは常磐炭鉱の伝統を受け継いだ大切な事業です。この街に住む人達の将来は皆さんの努力にかかっています。このまま閉山してしまえば、ご両親、おじいちゃんおばあちゃん、何千人という家族が路頭に迷う。そんな人達を救わなくてはいけない」。
「君たちには是が非でも頑張って欲しい。立派なショーでお客さんを毎日、沢山呼べるように。そうすれば、10年後、20年後、もっと先の未来まで、皆でこの街に住めるんです。ここで、日本一有名なショーをみせるんだという心意気で練習に励んで下さい」と。
生徒たちは、素直で先入観もないぶん、踊りはメキメキと上達していった。
早川によればフラの振り付けは、いつもベッドの中で考え、誰か生徒の一人を思い浮かべ、イメージをふくらませていく。
その子に合った振りはどうだろう、か、雰囲気は合っているかなど、夢の中で踊らせる。
人ありきで、自分一人で進められるものではなく、生徒それぞれを見ることが大事。ソロを踊る子は意思が強いくらいでいいが、協調性を保つには、忍耐力や努力が必要であることを教えた。
ステージの上で振りを忘れてしまったら、大きく間違えなさいと言った。お客さんが「あの人、間違えた人だ!」とわかるくらいに失敗すれば、お客さんはずっとその姿を追い、最後まで踊りきったときには、惜しみない拍手をくれる。
それはグループの仲間にとっても大きな拍手となり、迷惑をかけたことにはならない。
しっかり反省して、大きな声で「ごめんなさい」と謝る。ウジウジするとほかの踊りが全部ダメになってしまうことも伝えた。
最初は、冷やかしや反対運動目的でレッスン場へ来た人たちも、1期生たちが汗をかきながら一生懸命に学んでいる姿を目にするうち、みるみる変わってきた。
いつしか、キャラバンから戻ると学院の玄関や廊下には、差し入れがずらっと並ぶようになり、地域ぐるみで応援してくれるようになった。
また、同じ「常磐音楽舞踊学院音楽科」に通うバンドのメンバー達の中には、元炭坑マンの姿もあった。そんな若者のパワーに触発された他の従業員たちもは中村に刺激を受け、首都圏のホテルなどに研修へと送り出され、そこで修行をつんだ。
総料理長やダンスの教師といった専門職のスタッフに関しては、よそから呼び寄せる事にしたが、ダンサーは地元採用することにした。
ダンサーは、東京からプロを呼んだ方が良いのでという意見もあったが、中村は常磐炭鉱の社宅だけで6千戸。そこにはあらゆる年齢層の家族が住んでいる。家族が「常磐ハワイアンセンター」で働けるということこそ「一山一家」の伝統に相応しいと主張した。
「一山一家」、それは常磐炭鉱に古くから根付いている言葉で、 山で働くすべての人間が家族であり、常に助け合って生きていこうという考え方である。 中村はこの伝統を活かしてこそ、ハワイアンセンターの成功があると考えたのだ。
そして1966年1月、炭鉱会社が作ったリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」は産声を上げた。
この転換劇、彼女たちの活躍はメディアにも取り上げられ、さらなる盛り上がりを見せた。 全国各地からお客が集まり、連日大盛況となる。
また、ハワイアンセンターの成功は、かつて不安を訴えた温泉旅館にも客を呼び込むことになり、 増改築や新規開業も相次いだ。
その後、「常磐ハワイアンセンター」は、「スパリゾートハワイアンズ」に名称を変更。 今も従業員のほとんどは地元出身であり、地域に根付いた施設であることは変わっていない。

1960年代から日本のエネルギ-転換は進み、石炭を生産してきた炭鉱が次々にに閉山になっていた。
我が地元福岡の大牟田の三池炭鉱では、総資本対総労働をいわれるほどの大規模な争議が行われていた。
そんな、斜陽になりつつある街で1965年三池工業高校が夏の甲子園で優勝したことは、遠く福島いわきの人々にも元気を与えたに違いない。
その時の監督が佐賀県吉野ヶ里町出身の原貢(はらみつぐ)であった。
その後、原監督は東海大相模高校監督に就任するが、その時3番を打っていたのが、長男で現在の読売巨人軍監督の原辰徳である。
炭鉱に希望を与えた点では、同じ佐賀出身の中村豊と重なる。ちなみに福島県の磐城高校が小さな大投手(田村投手)で旋風(準優勝)を起こし、炭鉱の「希望の星」となったのは1971年夏のことであった。
さて、「常磐ハワイアンセンター」の人気上昇には、映画「フラガール」(2006年)の力が大きかった。
監督は李相日(リ・サンイル)、1974年に新潟に生まれた在日朝鮮人三世。
父は新潟朝鮮初中級学校で教師をしていた。4歳の頃、一家で横浜に移り住み、横浜の朝鮮初級学校、中級・高級学校に通った。
高校3年に進級するまでは野球部に所属した。私立神奈川大学経済学部卒業間際に、アルバイトでVシネマの製作に参加したのがきっかけとなり、卒業後、日本映画学校(現・日本映画大学)に入学した。
卒業制作作品でフィルムフェスティバルでグランプリを含む史上初の4部門を独占し、数年間フリーの助監督として活動し最も将来性を期待できる監督に与えられる新藤兼人賞金賞を受賞するなど高い評価を得た。
「フラガール」のシナリオを書く段階で初めて現地を訪れ立派な施設だったのに驚いた。
東京ドームができたとき、それ以上のインパクトがあったという。
李相日監督は、映画魅力について、ひとつは、少女たちがひとつの目標に向かって頑張るということ。
もうひとつは、石炭から石油に変わっていく時代の変革期に生きた人々や日本の歴史から消滅してしまった影の部分に光をあてていること。
ひとつの映画のなかに光と影が混在していることに、監督としての仕事の意味があると思ったと語っている。
そして、最大のみどころは何と言ってもフラダンス。監督がフラガールたちに求めたものは、「容姿端麗ではないこと」だった。
炭鉱の煤けた少女たちが、蝶になるというギャップを描きたかった。だから美人はいらない。
だが映画では数名にしかスポットをあてられない。ダンサーである前に女優であることは絶対条件であった。
そうして選ばれた女優たちは、3カ月以上の猛特訓を重ね撮影に挑んだ。
女優たちが上達してくれないと本当に困ると思って応援したのは、中村豊の思いと重なる。
人間は自信が出てくると表情が変わってくる。それを傍目で見ることは感慨深かったという点も。
なかでも松雪泰子(佐賀県鳥栖出身)、蒼井優(福岡市出身)のソロのダンスシーンは美しく力強く迫力に満ちていた。
映画「フラガール」が上映されたの頃、萩原吉弘監督のドキュメンタリー映画「炭鉱(ヤマ)に生きる」をみた。
この映画は山本作兵衛の原画を元に制作された。
炭鉱のなかでは小さな事故が頻発。落盤事故、水、爆発などである。炭鉱で生きる人々は常に死に直面していた。
坑内で拍手をするな、頬かむりをするな、ご飯に味噌をつけるなどの迷信を人々は信じていた。
それゆえに死ぬ時は一緒という意識が絶えず坑内にあり、相互扶助の意識はきわめて高かった。
その意味で炭鉱の長屋に生きる人々の姿は「日本人の原風景」でもあった。
「常磐ハワイアンセンター」の働く人々の姿には「多様性」の素晴らしさがあったが、この映画では鉱夫を貫いた一人の古老がいった言葉が印象に残った。
「アリのように小さな生涯だったかもしれない。しかし、人生に一点の曇りもなく生きてきた」。

1974年12月、ハワイのイリマフラスタジオでアンティ・ルイス・カレイキ姉妹に師事し、ディプロマを修得。このときルイスのお父様からいただいたレイをいつも大切にしてきました。