S・ジョブズと日本の美

スティーブ・ジョブスが友人のウォズニアックと自宅ガレージで「アップル社」を創業したことは、あまりにも有名な話だ。
1974年にAltair 社が最初の家庭用コンピューターを発売するが、それはキットとして販売されキーボードやモニターもついておらず、ほとんどの人は完成してもコンピューターとして使えなかった。
ウォズニアックは、Altair 社製よりも安価で簡易な回路のコンピュータができることを思いつき、1976年の3月に最初の試作機が完成した。
ウォズニアックはたった1枚の基板にコンピュータを作ってしまった。
ジョブスは大学を中退した1976年、ウォズニアックの電子チップを組み込んだ「基盤」を見て、これは売れると直感した。
それが最初のパーソナル・コンピュータ 「Apple-1」であった。
ウォズニアックは、ロッキードのエンジニアだった父親のもとに、カリフォルニア州サンノゼに生まれる。
父はウクライナのブコビナに由来を持つポーランド系、母がドイツ系スイス人の家系。
6歳の時、アマチュア無線の免許を取得し、自作キットのアマチュア無線機を組み上げた。13歳の時に、トランジスタの組み合わせによる原始的なコンピュータ(二進加減算機)で科学コンクールに優勝する。
ウォズニアックは、一人でコンピューターを作り、またそれを動かすソフトウェアまでも一人で作ってしまう、間違いなくギフテッドであった。
ウォズニアックはアップルの仕事に集中するためにヒューレット・パッカードを退社して「Apple-1」の再設計に取りかかった。
そして完成したのが「Apple II」であった。
安価でありコンピュータの愛好家にも受け入れられ、多数のゲームアプリや教育用アプリが爆発的に開発された。
また、Excel の前進である表計算ソフト「 VisiCalc 」(ビジカルク)が確定申告をするのに役立ち、家庭の実用のためにも受け入れられた。
つまり「Apple II」 はゲーム機としてだけでなく、教育現場やビジネスにも使える初めてのパーソナル・コンピュータとして人々から広く受け入れられた。
つまり、このコンピューターの成功が現在のアップル社の基礎を築き上げたといえる。
「Apple II」 の成功の後、ウォズニアックとジョブスは別々の流れを歩むことになる。
ウォズニアックの方は 「Apple II」 の後継機種を発展させるべく、ジョブスは次世代のコンピューターを発展させるべく新しいチームを作り Lisa や 「初代 Mac」の生産を手がけた。
さて、パーソナルコンピューターの歴史に残る場所として、ジョブズの家のガレージがとても有名だが、徒歩で10分ほど離れたところに「もうひとつのガレージ」がある。
それは親友ビル・フェルナンデス宅のガレージで、その場所こそがジョブズを電子機器の世界に引き込んだ場所である。
フェルナンデスは、共通の友人であるジョブズとウォズニアックの2人がテクノロジーを愛し、イタズラ好きだったので、お互いに仲良くなるのではないかと考え、お膳立てをした。
1971年のある日のこと、フェルナンデスがジョブスと散歩している時に、庭で洗車しているとウォズ二アックと出くわした。
その後、二人はフェルナンデスなしで会うようになり、前述のように一緒に「Apple-1」の製作などの仕事を始めるようになったのである。
今日のアップル社にとって、iPhoneも、iPadの製品開発においては、ジョブズとフェルナンデスとの出会いが大きな意味をもつ。
後にアップルの社員第1号になるフェルナンデスは、サンフランシスコ近郊のシリコンバレーで生まれ育った。
フェルナンデスの母親は、家に入り浸るジョブズを息子のようにかわいがった。
そしてジョブズは、居間のソファの後ろにあった、3点の日本の版画と出会う。
それは、ジョブズの製品開発にとって重要な意味をもつ「日本の美」との最初の出会いであった。
それは、フェルナンデスの祖父が1930年代から買い集めた川瀬巴水の浮世絵(新版画)で、その精緻な美しさに惹き込まれたジョブズは、友人の母親に「版画を分けてほしい」と訴えるほどだった。
その一つ「日光街道」は、森の道を人がいている作品で、カリフォルニアにある背の高いアメリカスギの森にとてもよく似ていた。
ジョブズが、あれはカリフォルニアかと聞くと、母が「それは日本よ」と教えてくれた。
また巴水が1937年に手がけた「西伊豆木負(きしょう)」は、桜の花の向こうに海と富士山が見える。
その優雅な木版画を気に入ったジョブズは、1983年、28歳の時に東京を訪れた際に、これと同じ作品を購入している。
フェルナンデスによれば、ジョブズがシンプルですっきりしたもの、自然の木、そういうスタイルのアートや美的感覚がいいと言い出したのは、こうした「新版画」を見てからであったという。
生涯を通じてみることができるシンプルさとエレガントさへのこだわりは、彼が創り出したアップルの製品に表現されていたと述べている。
ジョブズは、「新版画」の精巧でしかもシンプルな美しさに魅了され、やがて仕事で日本に行くようになると、コレクションもするようになった。
ジョブズが出会った「新版画」とは、明治後半から戦後にかけて作られた木版画のことで、江戸時代に生まれた浮世絵のいわば20世紀版だ。
伝統的な彫りや摺りに新しい技法を取り入れたモダンな絵画表現で高い芸術性を目指し、特に外国人に売れる作品を目指した。
そのねらいは、1930年代のアメリカで花開いた。1930年代にオハイオ州のトリード美術館で大きな「新版画」の展覧会が開かれ、海外での人気が頂点を迎えた。
そして40年後、まだ少年だったジョブズが、その「新版画」に魅了されることになる。
ただ、世界的にも有名な浮世絵と比べると、「新版画」は日本人のあいだでさえ知られていない。
その代表的作家の川瀬巴水(かわせ はすい)は、1883年、東京府芝区露月町(現・港区新橋五丁目)に糸屋兼糸組物(組紐)に生まれた。仮名垣魯文は伯父にあたるという。
川瀬巴水は衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表した。
日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し「旅情詩人」「旅の版画家」「昭和の広重」などと呼ばれた。
アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られ、国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気がでた。
ところで、浮世絵の制作は、それぞれの工程が別々の職人による完全な分業制で行われていた。
これに対し、「新版画」は、複雑な色合いを表現しようと何重にも色を重ねて浮世絵を超えることを目指した。
絵師が自身の制作意図を、彫り師と摺り師に細かく伝えることによって高い芸術性を実現した。
このため、目指した摺りの回数が30回以上におよぶ作品もあった。浮世絵の2倍から3倍だ。
有名な北斎の「凱風快晴」(がいふうかいせい)は摺りの回数が7回だが、精緻な作風で知られる川瀬巴水の「増上寺の雪」は、その6倍の42回である。
川瀬はいい作品をつくるためには、手間と人手を惜しまなかった。見えない部分に相当のエネルギーをかけて制作に手間をかけたため、1点の作品が摺られるのはせいぜい数百部だった。
それがジョブズの目にふれ、なにがしかの啓示をうけたことには、偶然以上の何かが働いたのかもしれない。
大勝負を賭けた28歳のジョブズが1984年1月に発表した「マッキントッシュ」。マッキントッシュのアイコンに、ジョブズは浴衣姿の女性の絵を使い、スクリーンに映し出した。
この絵は、新版画の「髪梳ける女」で、流れるような髪の毛のつやや量感が細かく表現されている。
「髪梳ける女」の作者の橋口五葉(はしぐちごよう)は、日本人で最初に新版画を制作した芸術家として知られる。
スクリーンの絵は、ジョブズが所有していたものをスキャンして取り込み、最終的にイラストに仕上げた。
当時は、本物の画像をコンピューターに取り込めるということ自体が驚きだった。
ジョブズは、高い芸術性を実現するため、「新版画」の絵師が全ての工程をコントロールし、「自己表現」という理想を貫いていたことに、強いインスピレーションを受けていたのだ。
新版画の絵師が、彫り師や摺り師をとおして実現した”自己表現”こそ、まさに、マッキントッシュの技術でやろうとしていることだった。

スティーブ・ジョブズに、大きな意味をもつもうひとりの人物がジョン・スカリーである。
創業まもない20歳代のコンピュータ・オタクばかりではアップル社の経営はままならず、「おとなの経営者」が必要となった。
そこでアップルの取締役会は、ペプシコーラの社長であった37歳のジョン・スカリーに白羽の矢を立てた。
スカリーはマーケティングの達人として知られ、アップルの大株主ばかりではなく、ジョブスも彼に惚れ込んだ。
しかし、ペプシでの輝かしい未来が約束されていたスカリーは、なかなかイイ返事をしなかった。
しかし、スカリーの気持ちを翻させたのは、ジョブスの次の一言であった。
「残りの一生を砂糖水を売って過ごしたいか、それとも世界を変えるチャンスを手にしたいのか」。
この言葉もまた有名だが、そのジョブスが、スカリーを含むマック・プロジェクトの人達との対立からアップル社を追われることになる。
ジョブスには、「感情的に反応することが多く約束を守らない」とか、「無責任で物事を深く考えず、権威主義的な決断を平気でする」といった批判があびせられた。
ジョブス自身が「ひどく苦い薬だった」と振り返るこの追放劇を経て、新たにNEXT社を設立したり、映画会社「ピクサー・アニメーション・スタジオ」を設立した。
「ピクサー・アニメーション・スタジオ」は、CGを駆使して世界的なヒット「トイ・ストーリー」(95年)を生み出した。
そして、アップル社がマイクロソフト社に遅れをとりつつあった1997年、ジョブズは12年ぶりに古巣「アップル」のトップに返り咲いた。
ジョブス不在のアップル社はすっかり停滞していたが、ジョブス復帰後に命が吹き込まれたかのようだった。ちょうど玩具の物語のように。
復帰にあたってジョブスは「Think different」と唱えて、今までのアップルとは違うゾというメッセージを世界に発した。
そしてデザインと機能性にこだわった一連の商品を発売し、iPodは音楽業界の形態に革命を起こす。
iPhoneも世界的な社会現象となり、iPadと合わせ「10年間で3度の革命を起こした」と評された。
さて、ジョブズにとってのスカリーという存在の意義は、マーケティングのプロというだけではなかった。
スカリーはもともと工業デザインを学んでおり、ジョブズの「美」へのこだわりについての、よき理解者でもあった。
スカリーは、ジョブズは、伝統的な浮世絵とは全く異なる「新版画」の「制作手法」をとても気に入っていたという。
浮世絵は、絵師が描いた下絵を元に、彫り師が版木を彫り上げ、摺り師が色を摺って作品を仕上げる。
それは分業制で、一人の人間がやるわけではない。
ジョブズが「新版画」を気に入ったのは、そうした浮世絵の3つの役割を一人で”自己表現”していることであった。
それこそまさに、彼がマッキントッシュで目指していたことで、プリンターで印刷するまでのすべてを、一人でできるからだという。
そしてジョブズが憧れをもって調べ上げた製品がソニーの「ウォークマン」であった。
斬新な製品を相次いで世に送り出し、日本のみならず、欧米を中心に支持を広げていたソニー。
その陣頭指揮をとっていたのが、創業者の1人、盛田昭夫であった。
「ウォークマン」は、世界を席巻した携帯型ヘッドフォンステレオは、可能なかぎり小さくし、スイッチの数も少なくした。
そのシンプルなそのデザインはジョブズの憧れの的だった。
スカリーによると、ジョブズは、日本に行くたびに、盛田の自宅に招かれて夕食を共にしていた。
ジョブズは盛田に会うと、モノづくりの秘訣を聞き出そうと、質問攻めにしていた。特に、「ウォークマン」の開発に盛田がどれだけ関わったのか、プロセスの細部を聞きたがった。
「盛田さん、私は製品の背景にあるストーリーを知りたい。どのような経緯で製品のアイデアを思いついたのか?開発を手がけたチームとはどのように連携したか?デザイナーとどれぐらいやり取りしたか?製造の過程や素材にどれぐらい注意を払ったか?」と。
30以上年齢の離れたジョブズに対して、盛田はとてもオープンに接し、どんな質問にも答えた。
そして製品を開発するエンジニアやデザイナーと会うことも許可してくれ、工場の生産現場を見ることもできた。
ジョブズは、この交流で得た知見を、自社の製品開発に生かした。すなわち、デザインを真っ先に考え、それに基づいて機能や構造、部品の大きさなど全体をコントロールしていくというものだ。
ある時、ジョブズとスカリーの二人は盛田からCD(コンパクト・ディスク)を再生できる発売前の最新の製品をプレゼントされた。
アメリカに帰る機内でジョブズは、「2つともバラバラにして、アップルの技術者に細部まで見てもらうんだ」とスカリーにいった。
ジョブズは、細部へのこだわりをとても尊敬していたという。実際、アップル社の製品の数多くがソニー製の部品で作られた。
アメリカの会社からは決して得られないチャンスを盛田は与えてくれ、ジョブズにとって、日本の物づくりのすべてが凝縮された“教科書”だったのである。
「世界でコンピューターを変える」と話していたジョブズは、「マッキントッシュ」に、日本から学んだすべてを注ぎ込んだ。
ジョブズの寝室にシンプルな一人用のベッドがあり、壁には、アインシュタイン、ガンディー、そして、女性を描いた日本の木版画がかかっていた。
その木版画は前述の「朝寝髪」(あさねがみ)で、1983年3月に初めて訪れた銀座の画廊でこの作品を購入している。
ジョブズは、ビジネスで日本を訪れるようになると、銀座の老舗の画廊「兜屋画廊」に姿を見せるようになった。
ジョブズは接客した松岡春夫に、「新版画を集めたいので、いろいろ教えてください」と言った。
しかし松岡は、やがて作品を選び取るジョブズの審美眼の確かさに驚く。重要な作品をきちんとおさえていた。若かったにもかかわらず、作品を見る眼には、プロの感覚を感じたという。
2003年秋にすい臓がんを告知されたジョブズは、松岡に電話をかけている。あいにく松岡は不在で、留守録音には「Hi,Haru.I am Steven Jobs」というメッセージだけが残っていた。
病と闘いながらも、ジョブズはiPhoneをはじめとするヒット商品を作り続け、2011年10月5日に56歳の生涯を閉じた。