「光速不変」の世界観

ニュートンは著書「プリンキピア」(1650年)のなかで、壮麗なる太陽系は神の深慮と支配から生まれた」と書いている。
そして「ニュートン力学」は「創造主の意図」を読み解く営みとして構築された。
また、アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」という有名な台詞をはじめ、神を介して科学を論じる場面が多かった。ちなみに、「神はさいころを振らない」は、量子力学の確率的解釈への反論である。
これらは、近代科学が絶対者を神とするキリスト教文化圏で発祥した歴史を物語っている。
日本人にとって、科学のルーツの基盤に神が鎮座する自然観はわかりにくいかもしれない。
しかし、科学と宗教にそれほど開きはない、と思う。
なぜなら、科学の行き着くところ、人間の認識がおよび難い「不思議」が待ち構えているからだ。
そのことを一番思うのが、「光速一定」の不思議さ。
ところで、ピカソとアインシュタインは同時代を生きた天才という点を含めて、どこかよく似ているのではなかろうか。キーワードは、「複数の視点」。
ピカソの絵には、正面からみた顔と横から見た顔とが同じ一枚の絵に描いてある。
同様に、アインシュタインの「相対性理論」を理解するうえで重要なポイントが「複数の視点」である。
「ニュートン力学」では西洋絵画の伝統に等しく、ひとつの視点からみた理論である。
それはいうまでもなく、「神の視点」である。
「ニュートン力学」は絶対的座標のような「時間/空間」のうえに成り立っているからだ。すなわち、誰が見ても等しく特定の場所と空間を指定できる。
ところがアインシュタインの「時間/空間」は、人(観測者)それぞれなのだ。
田中君の「時間/空間」と、吉田さんの「時間/空間」とは厳密にいうと異なることがある。
ただ、その複数の「時間/空間」ズレは日常生活で支障をきたすほどのものではないというにすぎない。
この点を文系の頭では、絶対的か相対的かの違いかと思いがちだが、「相対性理論」は理論という名にふさわしく、その複数の視点同士で連絡がつく。
つまり、きまったルール(ローレンツ変換など)を通じて相手の見方もよく理解できることになっている。
ものごとを「相対的」に見るという見方の分かりやすい例は、走っている車と止まっている車はどちらが動いているとみても全然かまわないこと。
止まっている車も動いている地球上にあり、地球も動いている銀河系の中にあり、銀河系も膨張する宇宙の中の星座にすぎないからだ。
問題は「何に対して」動いているか止まっているかということである。
ユダヤ人であるアインシュタインが信じる「神」の概念まではわからないが、ニュートンが「力学の3原則」から宇宙を説明したごとく、アインシュタインにもある種のシンプルさや美しさに対する信念があるように思う。
アインシュタインは、「光速一定」を相対性理論の大原則としており、この原則をもってニュートンの「絶対的空間/絶対的時間」の概念を崩した。
この場合の「光速一定」とはどのような意味であるか。
光の速度を測定するために、ある観測者Aは光の進む方向に一定速度で走りながら計測するとする。
そして別の観測者Bは、Aとは逆に、光の進む方向とはまったく反対に一定速度で走りながら光の速度を測定するとする。
この宇宙における速度がすべて相対速度であるなら、観測者Aと観測者Bがとらえる光の速度の値はそれぞれ異なるはずである。
なにしろ二人はまったく正反対の方向に走っているのだから、その影響が加味されるはずだからだ。
ところが様々に条件を変えて実験をしても、観測される「光の速度」はまったく同じ「秒速30万キロメートル」なのだ。
そこでアインシュタインは「コペルニクス的」ともいうべき大転換を行う。
それは「光速一定」を基準にして、時間や空間の方を伸び縮みさせたのである。
そして「光速一定」を前提にして空間と時間をとらえ直すと、我々の常識を超えた世界が現れる。
たとえば、光の速度に近づくにつれて、物体の長さが縮む、また物体が重くなるなど、である。
さらに重要なことは、時間と空間は独立して伸縮するのではなく「絡んで」伸縮するため、「時空」という新たな次元でものごとを考えなければならない。
実はこうした「時空」から導き出せるのが、世界でもっとも美しい式といわれる「E=mc2」(注:2はmc右肩についた「二乗」)なのである。
ただし、アインシュタインは、なぜ「光速一定」かという点についてはまったくふれていない。
アインシュタインにもわからないからだ。
ちょうどニュートンが「引力」の正体を明かさ(せ)なかったように。
それにしても、アインシュタインの「光速一定」への揺るぎなき信念(信仰?)はどこからくるのだろう。

ニュートンは1665年、ペストが大流行して封鎖される直前の大学を卒業して、故郷のリーカンシャーに戻る。
そして故郷に滞在していた1年半の間に、数々の大発見する。
とても身近なモノの落下から閃いた「万有引力の法則」は、宇宙の惑星の動きから、自動車や飛行機などもろもろの機械を設計するうえで欠くことのできないもので、「ニュートン力学」(古典力学)とよばれる。
それは、時間も空間も絶対的な基準となっている。
しかし「ニュートン力学」は、原子の内部構造や素粒子の挙動に関しては無力なのである。
なぜなら、原子の内部のように素粒子が光の速度で飛び交う世界では、説明できない現象がおきるからだ。
アインシュタインは、時間や空間が相対的・主観的なものであること以外に、時間と空間は二つの座標軸ではなく両者がひとつであるという、ニュートン以来の伝統的な見方を崩した。
前述のように、すべてものは見る側の状態(走る/歩く/近づく/遠のく)によって違った見え方をする。ところが、光だけはどこでどのような状態でみても同じ速さで見える。
アインシュタインは、「双子のパラドックス」という例をあげている。
独りの女の子は地上にいて、もう一人の女の子は光の速さのロケットでとびだすと、ロケットで地球に帰還した女の子は、地上の女の子が自分よりもすっかり年をとってしまったことに気が付くだろう。
なぜなら光速に近づく世界では時間が地上よりもゆっくりと流れるからだ。ロケット内の時間の流れが超スローにならないとロケットから見える光は一定にならない。
そんなアインシュタインの相対性理論は、彼がイチから築いたものではなく、それまでの偉大な学者たちの成果の上にたったものである。ただ、それらの解釈の仕方が、彼独特であったということだ。
その繋がりの主要線は、「ファラディー→ マックスウエル→アインシュタイン」ではなかろうか。
それ以外の繋がりを細線で描くとガリレイやローレンツもいれることができる。
1818年、デンマークのエルステッドが、導線に電流を流した時、近くにおいてあった方位磁石が振れるのをみて不思議に思った。
それに基づいて、イギリスのファラディが実験と観察を重ねて電流を流すと導線の周囲に「磁気作用」が生じることを発見したのである。
これを「磁場」とよぶが、ファラディーは、電流がその流れの周囲に「磁場」を発生させるのなら、逆に磁気の変動が電流を生み出したりすることはないだろうか、と発想した。
そして磁石を導線を巻いたコイルに通すと、磁石が動いている間にコイルに「電流」が流れることを発見した。
さらに、ファラディーは注意深い観察によって、電流が磁場を生み出すいわば「電場」を生み出し、磁石の動きが電流を起こすことを発見する。
これを「電磁誘導」というが、こうした「電磁誘導」の働きが交流の発電機の発明に繋がった。そして全世界の発電所で電気を創りだす元となったのである。
また、テレビやラジオのアンテナもこの原理を利用している。
「アンテナ」となる導線に交流の電流を流すと、アンテナの周囲ではこの電磁誘導の振動的に変化する働きによって、電場と磁場が時間と共にあらわれる。
ドイツの物理学者マックスウエルは、ファラディーが観察した広範な電気的現象や磁気的な現象を、一組の統一された方程式にまとめた。
マックスウエルの方程式は電荷と電流と、それが創りだす電場と磁場の関係を表している。
そして方程式から計算される電磁波の速度はなんと「光の速度」と一致したのである。
つまり「光の正体」は電磁波であったのだ。
それまで、光という波が伝わるためには何かの実体が必要で、目にみえず質量なき「エーテル」というものが充満していることを想定していたが、その「エーテル」が存在しなくても、光は電場と磁場が次々に表れる相互作用によって進むことがわかった。
さてアインシュタインは、光は粒子のような振る舞いを見せることから、光は波であると同時に粒子であることを見出した。
そして光は「光量子(光子)」という「ひと塊」として空気中を光速で伝わるという考えを示した。
そうして、光量子は質量をもたないが、エネルギーを運ぶことのできる「素粒子」であるということがを見出したのである。
1905年、アインシュタインのノーベル賞授賞はこの功績によるものである。
さて、電磁波についてはマックスウエルの方程式とよばれる偏微分方程式で完全に記述される。
しかし、この方程式には静止している世界と等速直線運動している世界の間で明らかな「非対称性」が見られた。
例えば、磁界の中のを動く電線のなかの電子は光速なので、時空が伸び縮みする「ローレンツ力」とよばれる力をうける。
他方、静止している電線の周囲の磁界が変化すると、そこに電場ができて電流が流れる。
この2つの現象において、電線と磁界の関係は相対的(どちらが動いているとも特定できない)にもかかわらず、明らかに異なる物理現象が生じるのである。
これはガリレオのいう「相対性原理」に反するものと捉えられ、マックスウエルの「なぞ」ともなった。
「相対性原理」とは、あらゆる慣性系(加速がない等速直線運動下)における物理法則はまったく同一で変わることがない。
つまり数字は変わっても、「法則(関係式)」に変わりはないということだ。
こうした矛盾を前に、アインシュタインは「光速不変」の原則と、電磁波に関するマックスウエルの謎を、同時に解決する理論を思いついた。
それが「特殊相対性理論」であった。
具体的にいうと、電場と磁場の関係を数式で表したマックスウエルの方程式は物理法則のひとつであり、光速度Cを含んでいる。
そして、どの慣性系から観測しても光速度Cが一定不変である条件においてのみ、美しさをたもったまま成立する。
それは、マックスウエルの方程式のみならず、他のどんな物理法則も同様である。
「特殊相対性理論」がなぜ特殊なのかというと、それは「慣性系」(他の力が働かず、加速がない世界)において成り立つという制約条件が含まれているからだ。
マックスウエルの方程式は光の速さについて厳密な予測をしているのに、その速さは何に対して測定すべきかについての情報を全く含んでいない。
ちなみにマックスウエルはエーテルを深く考察した最初の人なのである。
アインシュタインには若き日より「光速不変」が脳裏にあったようだが、マックスウェルの方程式の美しさとあいまって「光速不変」の信念を固くしたのではあるまいか。

アインシュタインの相対性理論は、「光速に近い世界における物理学」ということができる。
原子内部の素粒子の運動がそれにあたるが、ニュートン力学では、P=mv(Pは運動量/mは質量/vは速度)のカタチで表される。
質量が大きいほど(重いほど)、また速度が大きいほど、運動量が大きくなる。
粒子の運動量を考えると、その粒子が他の粒子と衝突した際に、相手の粒子を突き飛ばす能力ということになる。
ニュートン力学の第一原理「慣性の法則」から、粒子のもつ運動量は外部からなんの邪魔立ても入らない限り、変化することはない。
この同じ運動量を保つことを「運動量保存の法則」という。
ところが、素粒子の動きとなると、そのmvは物理学の公理「運動量保存の法則」が満たされなくなるのである。
そこでアインシュタインは、「運動量保存の法則」が保持されるために、「P=mv」におけるmにある細工を施した。
質量m自体が速度vに依存するようにしたのである。
アインシュタインが「光速一定」を保持するために時空の側が伸縮するとしたのと同じように、「運動量保存」のために、vが増えれば増えるほどmも増えなければならないとしたのである。
その結果、再び我々の常識を覆す現象が現れる。
早く走れば走るほど、質量が増えて粒子が重たくなっていくということだ。
重たくなっていくということは動きが鈍くなっていく、つまり速度が遅くなるということだ。
「動いている物体(粒子)の質量は、静止しているときの質量に対して増加する」ということ。
ならば、光の速度に近づいた時、質量の増加(E)は、どれほどになるのだろうか。
こうした疑問と関連して驚くようなことが導き出せる。
力学では、運動エネルギーは1/2×m(質量)×v2(2はvの右肩につく2乗)となる。
アインシュタインは、静止しているときの物質のネネルギーをEとすると、m(質量)がE/c2(cは光の速度、2はvの右肩につく2乗s)に等しくなることで「運動量保存」が維持されることを導き出した。
このm=E/c2を変形すると、「E=mc2」という世界で一番有名な数式が導きだせる。
かつてファラディーは、電気と磁気という全く関係のないと思われるものが深く結びついているのを見出し、「電磁誘導の法則」を導き出した。
アインシュタインは、「E=mc2」の式によって、モノとエネルギーという結びつきがたいものが等価であることを導き出した。
要するに「質量とはエネルギー」ということだが、それにしてもモノが、質量×「光の速度の2乗」というエネルギーを秘めるなど、誰が想像できるだろうか。
広島に投下された投下された原爆で、エネルギーに転嫁された質量は、わずか0.7gほどだった。
これは、弾頭に充填されていたおよそ64kgのウランの実に、0.0011%にすぎないという。
アインシュタインから約半世紀たって、人類は相当量の質量エネルギーを取り出す方法を見つけ出した。
今日、質量の破壊は原子力発電所で行われているが、自然は何十億年にもわたってE=mc2を活用してきた。実はこれこそが地球の生命の源だと言える。
なぜならこれなくしては太陽が燃えることはなく、地球は永遠に闇に包まれていただろうから。
さて、聖書では「神は光あれといわれた。そして光があった」(創世記1章)が地球のはじまりである。
また新約聖書に「神は光であって、神には少しの暗いところもない」(ヨハネ第一の手紙1章)とある。
アインシュタインの「光速不変」に対する信念の背後には、すべてが「光」から始まったというう天地創造の出来事が何らかの影響を与えているのではないだろうか。