危険物運搬(手段と行先)

フランス映画「恐怖の報酬」(1953年)は、中米ベネズエラを舞台に、危険な「ニトログリセリン」を運ぶ仕事を請け負った4人の男たちを描いている。
ある日のこと、500km先の油田で火事が起きた。石油会社は爆風を利用して火を消し止めるために、ニトログリセリンを500km先の現場までトラックで運ぶことに決めた。
安全装置のないトラックでニトロを運ぶのは命がけである。そこで街の食い詰め者に2000ドルの報酬で運ばせることにした。
道中は洗濯板のような悪路、転回困難な狭路、落石などいろいろな障害が待ち受ける。
さまざまな障害を何とか乗り越え、4人は目的地まで比較的安全な道だけを残すまでになった。
しかし安心したのも束の間、前方を走っていたトラックがふとした油断で爆発し、遺体を含めて跡形もなくなる。
この映画、ニトログリセリンは運搬するだけでも危険が伴う物質であることを教えてくれる。
ところで、ノーベル賞の創設者であるスウエーデン人のアルフレッド・ノーベルは、たまたまある化学者から、発明されたばかりの薬品「ニトログリセリン」の破壊力を聞き、これを爆薬として開発しようとした。
なにしろ、ニトログリセリンは爆発性の液体で、その爆発力は黒色火薬の5倍にもなった。
しかも、ニトログリセリンは、液体のためショックですぐに爆発するという危険性があり、そのままでは使えなかった。
加えて、逆に爆発させたい時には爆発しない、という不安定さもあった。
ノーベルは研究の結果、ニトログリセリンは、180度以上に加熱するか、急激に圧力をかけると、確実に爆発することを突き止めた。
そこでニトログリセリンの側に容器に入れた火薬をおき、火薬を導火線で爆発させることでニトログリセリンに圧力をかけ爆発させるという仕組みを考えた。
この起爆装置を「雷管」といい、この仕組みは以後世界中で使われるようになる。
しかし、確実に爆発させることは出来るようになったが、意図しない爆発が起きてしまうという問題は未解決のままだった。
ノーベルは、ニトログリセリンが危険なのはショックが伝わりやすい液体だからと考え、ならば固形化すれば良いと思いつき、何かの物質にしみこませて固形にすることを試し始めた。
紙、パルプ、おがくず、木炭、石炭、レンガの粉などさまざまな材料を試してもうまくいかなかったが、1866年にケイソウ土(藻類堆積物)に混ぜるとと安定性が増し、扱いやすくなることを発見した。
また、ノーベルは爆薬または火薬を爆発させるために、起爆薬その他を管体に詰めた「雷管」を使うことで、爆発力を維持することもできた。
1年後、彼はギリシャ語で「力」を意味する「dunamis」から、発明品を「ダイナマイト /dynamite」と名付け、1867年に特許を取得した。
そしてロシアにおいては、巨万の富を築いた。
ノーベルは、「バクー油田」を開発など、それまで不可能と思われていた土木工事を成功させたばかりか、軍事目的な特化した「無煙火薬バリスタイト」を開発して、世界各地に約15の爆薬工場を経営した。
ノーベルは富と名声を手に入れたかに思えたが、いつしか「死の商人」とよばれるようになっていった。
自分が作ったものが「戦争」に使われることになってしまったという、その「負い目」が、時を経て「ノーベル賞」創設に繋がる。
さて、「ニトログリセリン」運搬の物語で思い出したのは、現代日本の「LNG(液化天然ガス)輸送技術」である。
LNGは、天然ガスをマイナス162度に冷却することで、気体の1/600の体積にして運搬する。
近年、次世代のエネルギーとして期待されている「水素」。地球上に大量に存在し、燃料として使う際に二酸化炭素(CO2)が出ないという特徴がある。
水素は、自然界には「水素だけ」の状態では基本的には存在しない。
それは水を分解して取るとか、ハイドロカーボン(炭素原子と水素原子だけでできた化合物)からら炭素を分離して取るとかする方法で工業的に入手している。
ではなぜ、「水素」を日本で作らないのか。
水から水素を作る「水電解法」で行うが、その時にネックになっているのは電気代である。
そもそも電気を作るためのエネルギーを、石油やLNGなどのかたちで輸入しなければならない。
近年、この水素を巡って日本とオーストラリアの企業との連携が進んでいる。
大量の水素を運ぶために必要なのが「水素の液化」で、水素はマイナス253度に冷却することで液体に変わり、体積が1/800になり、これを「液化水素」と言う。
液化水素を海の上でなるべく気化させず長距離にわたって運ぶために、この運搬船を製造した大手重工業が長年培ってきた特殊なノウハウが生かされている。
ロケットの燃料となる液化水素の「貯蔵タンク」や「LNG運搬船」を製造してきた技術の蓄積である。
水素の運搬方法には、他に「有機ケミカルハイドライド法」と呼ばれる手法である。
常温で、液体のトルエンに気体の水素を化学反応させると「メチルシクロヘキサン」という液体になり、逆に水素とトルエンに分離することもできる。
。 同じ量の気体の水素と比べると、1/500に圧縮される。「圧縮率」は冷却して液化してするより落ちるが、「常温」でいいのが最大のメリット。
トルエンは消防法では危険物に指定されているが、既設の石油化学系のインフラそのものが使えたり、そのインフラの技術がそのまま適用できる。
デメリットは、水素を取り出したときの純度が高くなく、トルエンが残ってしまう。
使用目的による使い分けが必要だが、この方法でいくと、ガソリンをGSへ運んでいるようなローリー車で運ぶことができる。

アメリカの「原爆開発」については、ラザフォードからオッペンハイマーまで語りつくされた感がある。
しかしもうひとり、「原爆・謎の男」とも呼ばれた商人がいる。
エドガー・サンジエ。ベルギー最大の財閥系鉱山会社「ユニオン・ミニエール」の幹部だった人物だ。
アフリカ・コンゴで採掘された世界最高純度のウラン鉱石を大量にアメリカに売り込んだとされる。
その詳細は、ほとんど知られていないが、最近ベルギー国立公文書館に眠るその手記が特別公開された。
サンジエがウランと出会ったのは、原爆が開発される20年以上も前のことだった。
サンジエは当時40代、ベルギーの植民地だったコンゴ、現在のコンゴ民主共和国に派遣され、会社の収益の柱となる銅の生産を任されていた。
そこで偶然出会ったのが、「異常なほど純度の高い」ウラン鉱石だった。
サンジエは、それまでの実績から現地の鉱山開発を一手に任されていた。
とはいえ、ウランには、ほとんど活用方法はなく、商業的な価値は低かった。
ただ、これほど高純度のウランは、他にないと考えたサンジエ。いつか活用方法が見つかれば、市場を独占できると、先行投資を決めたのだ。
結局、投資はしたものののウランの用途は見つからず、大量の在庫を抱えたまま、1937年一時、閉山せざるを得なくなった。
ところが、その翌年の1938年末、ヨーロッパで、ウランの価値を一変させる発見があった。
ドイツ人の科学者ラザフォードが見つけ出した、ウランの「核分裂反応」である。
ウランの中にわずか0.7パーセントしか含まれていない「ウラン235」に中性子をぶつけると、原子核が2つに分裂する。
ウラン235を濃縮すると、この反応を連鎖的に引き起こすことが可能になり、天文学的な力を作り出せることがわかったのだ。
突然、サンジエの元に、ヨーロッパの列強から、問い合わせが相次ぐ。
最初は1939年5月、サンジェがイギリスを訪れていた時のこと。イギリスを代表する化学者ヘンリー・ティザードから、「コンゴのウランを提供して欲しい」と持ちかけられる。
ティザードは用途は明かさないまま、「ウランが敵の手に渡れば、あなたの国や私の国にとって、大惨事になるかもしれないことを忘れないでください」と述べた。
当時、ヒトラー率いるナチスが台頭し、ヨーロッパでは緊張が高まっていた。
核分裂が発見されたドイツが、核による巨大なエネルギーを手にするのではないかという懸念が周辺国で強まっていたのだ。
実際、ドイツの物理学者、ジョリオ・キュリー(キューリー夫人の夫)から、ウランを爆弾の研究に使いたいと、売却を求められたという。
その時サンジエは、保管してきた大量の在庫の価値に、気づいたといえる。
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。
ドイツは、その後、次々と戦線を拡大し、1940年5月にはオランダやベルギーへの侵攻を開始する。
ここで思わぬ事態が起きる。サンジエが本社のあるベルギーに送っていたウランの在庫の一部が、ドイツ軍に押収されたのだ。
このときサンジエがでた驚きの行動こそが、歴史の分岐点であった。
1940年末、ベルギー領コンゴへの侵攻を恐れたサンジェは、コンゴに残されていた極めて質の高い鉱石を「ウラン」という名前を伏せて、秘密裏にニューヨークへ出荷するよう指示したのである。
つまり、コンゴに保管していた在庫のウラン、およそ1200トンを、「会社に無断」でアメリカへと運び出したのだ。
ウランは、ニューヨークの中心から10キロほどにある、スタテン島に持ち込まれていた。
この場所にあった倉庫で、2000本のドラム缶に入れて保管されたという。
なぜ、サンジエはリスクを冒して、アメリカにウランを運び込んだのか。
この頃、アメリカではドイツの核開発に対抗するため、ウランの活用が、本格的に検討され始めていた。サンジエはニューヨークに事務所を開設、そこで人脈を作りながら、ウランの売り込みを画策していた。
1941年12月日本の真珠湾攻撃によって、アメリカが第二次世界大戦に参戦する。
アメリカが日本に宣戦布告した数日後、サンジェは国務省の戦略物資担当に複数回接触して、アメリカ側の反応を待った。
サンジエはベルギーがナチスに占領されることで、世界の市場から断絶されると予測していた。
そうならない前に、彼は先手を打ったということだ。
アメリカでは核開発の議論が始まり、サンジエはアメリカの側に販路の可能性を見出していた。
1942年9月18日、最初の手紙から半年。サンジエという人物を入念に探っていたアメリカに「動き」があった。
アメリカの原爆開発で、原料の調達を担っていた人物である陸軍のケネス・ニコルズとの交渉である。
その頃、原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」が本格的に始動しており、総責任者に就任したレスリー・グローブスが側近のニコルズをサンジエの元に派遣したのだ。
サンジェは、ニューヨークで2000本のドラム缶に保管されている大量のウランについて伝えた。
ニコルズは1時間後、コンゴ産ウランの取引の条件が記された「黄色い紙」を持って、サンジェの事務所を出た。
その場にあった黄色い紙に2人で交わした即席の契約書。そこには、アメリカに持ち込んだウラン1200トンに加え、まだコンゴに保管されている残りの在庫ウランも、すべてアメリカが買い取ることが記されていた。
これは間違いなく、歴史的な出来事だった。
1944年9月、アメリカは、サンジエの仲介のもと、同盟国のイギリス、ベルギーと秘密協定を結ぶ。
ユニオン・ミニエールが、閉山していたウラン鉱山を再開発。それをアメリカとイギリスが、将来にわたって独占的に購入するという契約だった。
「マンハッタン計画」の総責任者、グローブスはこの頃、コンゴ産ウランの重要性について、政府中枢に次のよう報告している。
「世界のどこかで、いかなる鉱石が発見されたとしても、コンゴの鉱石がウラン生産の大部分を支配することは、まぎれもない事実だ。アメリカとイギリスにとって、最も望ましい方法でコンゴのウランを管理し、掌握することが、世界の安寧のために重要である」。
1945年7月16日。アメリカが、核の巨大なエネルギーを手にする日がやってくる。
サンジエの手記には、実験に立ち会った人から聞いた、その日の様子が記録されていた。
「突然、黄色・紫・青の形容することのできない光で照らされた。その直後、巨大な火の玉が舞い上がり、白煙の渦が上昇するのが見えた。実験は、あらゆる予想を超えて成功した」。
その、3週間後、8月6日の朝、グローブス将軍から伝言をうけた。「あなたにこの新しい重要なニュースをいち早く知って欲しい。11時になったらラジオを聞いてくれ」というのだった。
1945年8月6日、長崎に原爆が投下されたその日、サンジエは、ホワイトハウスに招かれていた。
サンジェは8月9日、ホワイトハウスでグローブス将軍と会った。彼は関係者たちに、「この方の協力がなければ、マンハッタン計画は実現しなかったでしょう」とサンジェを紹介する。
偉大な軍人たちがこぞって、サンジェのテーブルに立ち寄り、祝福した。
その翌年、サンジエは「戦争を終わらせることに著しく貢献した」として、外国人としては異例となる、大統領からの勲章を授与された。
アメリカはその後も、コンゴ産ウランを使って、新たな核実験を繰り返し、世界に力を誇示していった。
アメリカは一貫して原爆投下は、戦争を早期に終わらせるためだったとしてきた。しかし、専門家は、核を独占した上で、その威力を見せつけることが、重要だったと指摘する。
サンジェの手記には、欲望を加速させていく国家に対して、ひとりの商人が抱き始めた恐怖が、つづられていた。
実際、アメリカの独占を崩すきっかけになったのも、サンジエが採掘していたコンゴ産ウランだった。戦時中、ドイツがベルギーで押収していたウラン。
それに強い関心を抱いた国こそが、「ソビエト連邦」である。
コンゴ産ウランの一部が、ドイツに隠されていることを突き止めたソビエトは、ドイツが降伏した直後に、北部の町の革工場で、100トンを超すウランを見つけ出していたのだ。
1949年、ソビエトが、初の核実験に成功し、核による軍拡競争の口火がきられた。
ウランの取引で急成長を遂げた「ユニオン・ミニエール」社。1960年に公表した売り上げは、年間2000億円近く。ヨーロッパ有数の鉱山会社へと成長していた。
ウランについては、戦時中、そして戦後も極秘事項だった。
大国の駆け引きが、激しくなる中、サンジエはアメリカの監視下での生活を余儀なくされていたことを明かしている。
サンジェの行動や人間関係などは、当局によって常に監視されていた。
何年もの間、秘密警察がサンジェを尾行したのだ。
サンジェ莫大な資産を築き、1963年83歳で亡くなった。その前年には、米ソが核戦争の寸前まで達した「キューバ危機」が起きている。
ブリュッセル郊外にある小さな墓地。ウラン商人、エドガー・サンジエが眠る。

日本は、液化水素に関しては世界を一歩リードしているが、日本企業がオーストラリアで「水素」をつくろうという動きもある。
オーストラリアのビクトリア州では、広大な炭鉱が存在している。
日本の電気事業大手「電源開発」は2021年、「褐炭(かったん)」と呼ばれる低品位な石炭から、高純度の水素をつくり出すことに成功した。
「褐炭」は水分や不純物を多く含み、重くかさばるわりに発熱量も低い石炭で、輸送に困難を伴うため、これまでは現地での利用に限られてきた。
どのようにして、「褐炭」から高純度の水素をつくり出すのかというと、褐炭を細かい粉にしたあと蒸し焼きにして、水素と一酸化炭素などが混ざったガスをつくる。
さらにこのガスを触媒に通しながら水蒸気と反応させると、「高純度」の水素ができるという。
課題は二酸化炭素も同時に発生することだが、「電源開発」は二酸化炭素の排出を抑えるために、二酸化炭素を地下に埋める技術などを開発中であるという。