「らんまん」の周辺

江戸時代、教科書にも登場する「農業全書」の著者・宮崎安貞は、安芸広島藩士の二男として広島に生まれる。
子どもの頃は、山林奉行の父に従って、山歩きをした。
25歳のとき家を出て、筑前福岡藩黒田氏に山林奉行として仕え200石を給されるが、30歳を過ぎて職を辞した。
1652年、筑前国女原村(みょうばるむら、現在の福岡市西区)の知行地に隠居し、農耕のかたわら農業技術の改良に努める。
諸国をめぐって老農の話を聞き取りし、また、山林原野の様子や河川の水利を観察した。
1661年39歳の時、京都にいた同藩の儒学者貝原益軒などとも交流し中国の農業に関する書物や本草書を研究。
宮崎は、周船寺近くの女原で農作物研究に勤しみ、その成果を書物にしたのだ。
実はこの「農業全書」は、中国の明の時代に書かれた徐光啓「農政全書」(1639年)に多くの知識を得ながらも、宮崎の体験に基づき日本の実情に合うように執筆されている。
1695年に稿を完成し、2年後に「農業全書」を京都で出版した。
その出版を見届けるようにこの年に75才で亡くなるが、本書は地理学的な記述が豊富で、明治以前の農書としは最高水準といわれる。
旧唐津街道・今宿に近い女原の墓の近くには執筆当時の「書斎」も保存されている。
個人的に、福岡市西区周船寺の公民館で宮崎安貞の「農業全書」(1697年)を見せてもらったことがある。その微細なまでの作物の絵がいまだに鮮明に脳裏に焼きついている。
そんな30年も前の「植物図」のことが蘇ったのは、2023年NHK朝ドラ「らんまん」の6月7日分の放映をたまたま見たことによる。
ドラマ「らんまん」のモデルは、日本の植物分類学の基礎を築いた牧野富太郎(まきのとみたろう)。
幕末、1862年に高知県高岡郡佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な商家「岸屋」に長男として生まれた。何不自由なく暮らしていたが、物心つかないうちに両親と祖父を相次いで亡くし、祖母の手ひとつで育てらた。
ひとり草木と遊ぶのが好きで、裏山の金峰神社の辺りが「原風景」だった。
土佐の豊かな山野は牧野を育み、実地に学ぶことが牧野の学問の原点となった。
佐川村は学問が盛んな地域で、領主深尾氏が建てた郷校「名教館」があり、そこで西洋の最先端の諸学科をんだ。
1874年に学制がしかれ名教館の学舎が小学校になり、授業に物足りなさを感じ2年で退学。
越知町の横倉山やその周辺の山々に出かけては植物採集にはげみ、独学で植物学を身につけた。
第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を買うため1881年、19歳の時に初めて上京する。
東京では博物局のたずね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。
やがて植物学を志し、1884年、22歳で上京し、東京大学理学部植物学教室に出入りを許され、大学では書籍や標本を使って植物研究に没頭した。
当時日本の研究者は、海外に植物を送り同定してもらっていた。
牧野は天性の「描画力」にも恵まれていた。
実は、前述の「らんまん」を見て宮崎安貞の「描画」を思い出した場面というのは、万太郎(牧野)が東京神田の印刷所を訪問する場面である。
ドラマでは、神木隆之介演じる万太郎(牧野)が、奥田瑛二演じる「大畑印刷所」の大畑義平の経営する印刷所を訪問する場面であった。
植物学雑誌の創刊に向け、描いた絵の筆遣いをそのまま印刷できる“石版印刷”の技術を習得したい万太郎は、大畑と妻・イチ(鶴田真由)に、給料はいらないので、「夜間見習い」として雇ってもらえないかとお願いする。
大畑義平のモデルとなったのが太田義二である。大田は、牧野が植物の本を出版するためと聞くと、夢をもつ若者を応援したいと思い承諾した。
こうして昼は植物画を描き、夜は印刷所で働き、石版印刷を学ぶ日々が1年ほど続いた。
この時の技術がその後の牧野の出版物に大いに生かされることになる。
植物図のほとんどは、鼠の毛3本といわれる穂先が極めて細い蒔絵筆や面相筆で描かれている。
よく見ると、1本の線の中にも極めて細い線が描かれていたり、表面に細かい毛が描かれていたり、まさにミクロの描写。筆で描きながらも銅版画のように鋭く、植物の質感も写し取っている。

生涯約1700点、写生を重ねてゆくことで描画技術を磨き、「牧野式」といわれる先進的な植物図法を確立させた。
植物の姿を細部まで線で写し取ろうとした気迫と、根気よく植物と向かい合う徹底した研究姿勢がうかがえる。
牧野と印刷所の主人・太田との出会いは、牧野にとって「石版印刷」を学んだ以上のことがあった。
東京の大学の植物学の教室に通っていた当時、牧野は麹町三番町(現在の千代田区三番町)の家の2階に下宿していた。
そして下宿先から大学に通う道にあった、小川小路(現在の千代田区小川町付近)の菓子屋の娘・壽恵子と出会う。
父の小澤一政は彦根藩主井伊家の家臣。陸軍省営繕部に勤務し、母は京都出身。
家は、東京都飯田橋に家があったようで、その末娘の壽恵子 幼い頃は家も裕福で壽恵子は歌や踊りの習い事などをしていた。
父・一政が亡くなったあと家を売り、母は数人の子供を育てながら飯田町で菓子屋を営んでいた。
その店は牧野の下宿先から本郷の大学に行く途中にあり、店先に立つ色白でおっとりとした感じの壽恵子が気になってよく菓子を買っていました。
牧野はどうしたらいいか分からず印刷屋の主人の太田に相談した。
こうして、太田は、壽恵子との縁談を仲立ちしてくれて、二人人の縁談は進み、1888年、太田が仲人になって二人は結婚した。
牧野と壽恵子は根岸の借家での暮らし始めまる。牧野26歳。壽恵子は17歳であった。
このころ牧野は大学の主任教授・松村任三から進められた縁談を断っている。後に牧野と松村任三は仲が悪くなりますが、縁談を断ったのも理由の一つになったようである。
牧野は裕福な酒屋の息子であったが家業はすでに傾き、1890年、牧野が矢田部教授の研究室に出入り禁止になり、1891年、実家の財産整理のため高知に帰郷した。
壽恵子と子どもたちは東京に残ったが、その間に長女が死亡。牧野が高知から戻ってきた。
牧野が帝国大学理科大学の嘱託をへて助手になるが、月給は15円の薄給であった。
それから毎年のように子供(13人生まれ7人が亡くなった)が生まれたが、金銭感覚が無く次々と高価な書籍を買い込む。
牧野が出版しようとしている「日本植物志」は自費出版するなどして、借金が膨らんだ。
借金取りの対応もっぱらは壽恵子で、借金取りが来ると家の2階に赤い旗を掲げ、これは借金取りが来たという合図であった。
牧野はそれを見ると家には帰らず借金取りがいなくなるのを待った。
牧野の研究の凄さを説明し、借金取りを追い返すプレゼンテ-ション能力は髙いものがあり、中には同情して涙を流す人もいたという。
とはいっても、家賃を滞納を続けたため。牧野一家は借家を追い出され。30回も引っ越しをしました。一家は標本の中で寝ることもあった。
その後壽恵子の尽力で、本郷に菓子屋を出したり料亭をだしたりもし、1926年、壽恵子は料亭を売却し、東京都練馬区大泉に土地を買い家を建てることにした。
壽恵子はここに立派な植物標本館を建てて「牧野植物園」を作りたいという夢を持っていた。
壽恵子のやりくりや様々な人の援助もあり家が完成。しかし無理をしてきた壽恵子は体調を崩してしまう。
1928年1月。家ができてまもなく壽恵子は入院。その1ヶ月後、壽恵子は55歳にして亡くなった。
牧野は深く悲しみ、壽恵子が生きていたときに採取していた新種の笹に「スエコザサ」(学名:ササエラ・スエコアナ・マキノ)という名前を付けて発表している。

牧野富太郎は、「日本植物志図篇」の刊行や次々と新種の発表をするなど目覚ましい活躍を見せる一方、植物学教室の教授矢田部良吉(やたべりょうきち)との確執も生じたりした。
また、研究のため出費がかさみ、博士の実家の経営は傾く。
そんな牧野には不思議と援助してくれる人が表れた。
1891年に家財の整理をするため佐川に帰郷。高知で写生や植物採集に励む博士は、同室の教授松村任三(まつむらじんぞう)から帝国大学理科大学「助手」として招かれることとなった。
しかし、牧野は、研究に熱中するあまり生活が困窮し、研究者の命とも言える「植物標本」を手放すことも考えていた。
そこで名乗りを上げたのが神戸の資産家・池長孟である。池長が牧野博士の植物標本を買い取り、経済的な支援に乗り出した。
さらに池長と牧野は、牧野が、月1回は神戸の池長植物研究所に来て研究することにして、池長は、月々、牧野を援助をすること取り決めた。
これをきっかけに博士は、25年間、神戸に通うことになった。
その時の牧野の弟子となったのが灘校の川崎正悦である。
川崎は1934年、校庭に「ロックガーデン」を作り、生徒達にに植物の大切さを教え、六甲高山植物園や兵庫県立人と自然の博物館の職員と一緒に丈夫な山野草約70種類を植えつけるなどしている。
「六甲高山植物園」のほかにも、牧野がおよそ30年過ごした住宅の跡地にある東京・練馬区の「牧野記念庭園」や博士の標本およそ16万点を保管している東京・八王子市の牧野標本館など、全国には、牧野ゆかりの地がたくさんある。
ところで「婉(えん)という女」は、1971年に岩下志麻主演の映画で、原作は1960年の大原富枝の小説「婉という女」である。
江戸時代末期、多くの藩が財政難に苦しんだ。土佐藩の家老として積極的に藩政改革にとりくんだ野中兼山は、あまりにも強硬な政策を実施したため周囲の怨嗟をかい「蟄居」を言い渡される。
例えば、用水路の建設、田野の開墾、港湾の改修などの公共事業では抜群の成果をあげたが、米価の統制、年貢の金納化、米の売り惜しみの禁止、専売制の強行などの商業統制、さらに、新桝の決定、火葬の禁止、領民の踊りと相撲の禁止などの社会統制などは苛烈を極め、厳しい改革が長引けば不満がでてくる。そして家中には兼山の方針を疑い、兼山の人格を嫌う者が次第にふえていく。
こうして兼山は反対派の策謀によって失脚し蟄居させられ、最後は自殺とも病没ともわからぬ状況で亡くなる。そこに追い打ちをかけるように野中家お取り潰しが裁定された。
権力争いで負けた家老の家族全員を跡継ぎの男子が絶えるまで一家全員を閉門蟄居させるという処分のため、残された家族と子供たちこそ悲惨であった。
「門外一歩」が許されず、誰と会うことも許されない。
つまり藩の監視の下での軟禁生活を強いられることになる。この時、婉はわずか4歳であった。
長女は嫁いでいたのに宿毛(すくも)に送られて死に、長男は病死、次男は狂死して、ほどなく男系が途絶え、娘3人の寛・婉・将と母と召使いは幽居させられたまま外出もかなわず、母娘は実に40年間を世間と交わらずに暮らした。
今井正監督の同タイトルの映画では、閉じ込められているうちに近親相姦に走る兄や、娘は非常に観念的に憧憬の対象の男を思い続けるが決して接触を許されななどといった壮絶な内面をも描いている。
母娘は、長すぎる辛苦の時を何度も自害し果てようかと思いつつも、弟の狂い死にを見て気を取り直して生き抜くことを選んだ。
その婉も40代半ばとなり子供を作れない年齢になってようやく解放される。その後婉は、驚いたことに、高知市郊外の朝倉の地で医者として活動を始めるのだ。
幽閉されてきた婉がどうして医学の術を身につけたのか不思議だが、父親から受け継いだ儒学だけでななく、出入りした医者から知識を得たと思われる。医者の話をきき、文通を通じて意見を交換した。
さらに近くの野山を歩く中で薬草についての豊かな知識を身につけたという。
手足がもがれたような異常な生活が40年も続いた中で得てきたものがあった。それは、家族の命を自らの力で守るための知識であったかもしれないが、それが結果的に地域医療に尽くす女医としての仕事につながる。
婉の父・野中兼山は藩政改革の過程で政敵をつくり命を落としたが、土佐藩の改革で野中兼山が果たした役割は大きく、兼山なしには坂本竜馬も中岡慎太郎も存在しなかっただろう。
野中婉の軟禁生活で思い浮かべるのが、ミャンマーの民主化の星(最近ではそうでもない)とよばれたアウンサン・スーチー女史である。
2009年5月、アウンサン・スーチー女史は、ミャンマー軍政により無断で自宅にアメリカ人接触したと国家防御法違反の罪で起訴されその判決の行方が懸念されていたが、8月11日、3年の懲役が1年6か月の自宅軟禁に減刑された。このの自宅軟禁の言い渡しは3度目となる。
スーチー女史は、1988年母親の病気のため本国ミャンマーに帰国して以来、ミャンマー民主化のシンボルとなり、それがゆえに軍政の監視下つまり軟禁状態となり、自宅の電話が切断、自宅の門とその前の道路が閉鎖、二十四時間兵士の監視下に置かれ、特別な許可がない限り出入りできない状態に置かれ、家族とも会えない状況が続いてきた。
ところでスーチー女史と婉との間に接点があるはずもないが、高知を訪れた際に、婉の故郷・土佐高知とミャンマーとの間にある関係を見つけた。
高知市のはずれに五台山という山があり、そこの吸江寺(きゅうこうじ:臨済宗)の境内にミャンマー式仏塔すなわちパゴダが建っている。このパゴダは「ビルマの竪琴」でも描かれたビルマ戦線でミャンマーで亡くなった高知県人の慰霊塔だそうだ。
さらに五台山は日本の植物学の祖・牧野富太郎を記念した「牧野植物園」がある。
高知県出身の植物学者・牧野富太郎博士の業績を顕彰するため、1858年に高知市五台山に開園した。
約8haの園内では、西南日本の植物や博士ゆかりの植物など、四季折々3000種類以上が楽しめる。
また「婉という女」の高知県出身の作家大原富江の遺作となったのが牧野富太郎を主人公とした「草の褥(しとね)に」(小学館)である。
この小説で作家は、金銭感覚もなく、夫人がお金を作り彼の研究室までたててやるなどした壽恵子夫人の人生を世に知らせたいという気持ちで書いたようだ。
金銭感覚ゼロ、他人の迷惑お構いなしの牧野には少なからぬファンがおり、折々窮地を助ける支援者が現れた。
この人の業績もあるが、この人の天真爛漫さのゆえか。
「らんまん」な夫との間で生んだ13人のこどものうち6人しか成人せず、入院費用を払えないため追い出されかかった東大病院で55年の生涯を終えた妻の人生は何だったのか。
「小説牧野富太郎」ではあるけれど、影の主役はその妻といえる。
その点では、「婉という女」と重なるものがある。