聖書の言葉より(顔と顔を相見る)

新約聖書の「新約」と旧約聖書の「旧約」の違いは様々の角度からアプローチすることができる。
例えば、旧約では神の言葉は「御使い」や預言者を通じて人々に語られるが、新約では、聖霊によって直接信徒に語られる。
また「信仰」の次元でいえば、「旧い契約」とは、「救世主」の到来を信じること。それはユダヤ人限定の「メシア待望」といってよい。
対して「新しい契約」(新約)とは「神の国」の到来を信じること。その「神の国」は、人類の救済としての「救世主の再臨」により実現するというもの。
唐突だが、経済学における「市場の失敗」のひとつに「情報の非対称性」というものがある。
ある商品について売り手と買い手につき、売り手側が商品の情報を独占している場合(わけあり物件など)、市場は歪められてしまうというものである。
神は我々のことをよく知っているのに、人間の側は神のことを「おぼろげ」にしか知らない、あるいはまったく知らない。
一方、神の側からは、我々がいかに知られているか、なにしろ「あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」(マタイの福音書10章)とあるように著しい「情報の非対称性」が存在する。
そのことは、イエスは次の言葉に示されている。
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイの福音書6章)。
またパウロも「祈り」につき次のように述べている。
「私たちはどう祈ったらよいか分からない時、御霊自ら言いがたき嘆きをもって、とりなしてくださる」(ローマ人への手紙8章)」。
とはいっても、神は我々の心を探られる。
特に信仰をためそうとされるのは、「信仰の祖」アブラハムの時代からだ。
ダビデは次のように述べている。「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」(詩篇139篇)。
パウロは信徒への手紙に次のように書いている。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである」(ヘブル人への手紙4章)。

旧い契約と新しい契約の違いを神と人間の「隔て」という観点からみることができる。
というのも、「旧約」の時代には、神と人間の間に様々な「隔たり」があるが、「新約」の時代には、そうした「隔たり」が取り除かれるからだ。
「キリストが我らのために十字架に釘づけられ肉を裂き血を流して死にたもうた時、エルサレムの宮の至聖所の前の幕が上より下まで裂けた」(マタイの福音書27章)。
これは十字架の死によって神と人との間の「隔て」が取り除かれたことを示しているのである。
イスラエル人は古来からの律法により、「罪の許し」をえるために生贄の羊をささげてきた。
そして大祭司は、年に一度、民の罪の赦しのために神殿の「至聖所」に入ることが赦された。ところが大祭司が入ることが許される「隔て」がもはやなくなったことを意味する。
つまりすべての人が至聖所にはいることができるようになったということだ。マルチン・ルターの「万人祭司説」をこのことに由来するものであろう。
また、「旧約の時代」は、神との間には比喩的に人間に「顔覆い」が掛けられた状態であると語られる。
この「顔覆い」の比喩は、モーセの「十戒」の出来事に由来するものである。
モーセがシナイ山で神より「十戒」を頂き、下山したところモーセの顔があまりに神々しく光り輝いていたために、 民衆はそのモーセを直視できなかったために、モーセの顔に「顔覆い」が掛けられたとある(出エジプト記34章)。
パウロは、イエスを救世主と受け入れない当時のイスラエル人について次のように語っている。
「こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」(コリント人への第二の手紙3章)。
イエスは復活後、弟子達を中心に、40日の間復活の姿を現すが、昇天後に真理の御霊を送るという約束通り、死後50日めにエルサレムの聖徒の群れに聖霊が下り、「初代教会」が誕生している(使徒行伝2章)。
さて、イエスが昇った目には見ることができない天が「霊界」ということがいえる。
パウロは「イエスの名」を唱えるものであっても、聖霊なきものは「神に属する者にあらず」(ローマ人への手紙8章)と厳しいことをいっている。
パウロによれば「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された」として、その点では旧約の時代も新約の時代も変わらない。
そして、アブラハム以来の信仰の勇者を例示している(ヘブル人への手紙11章)。
例えば、出エジプト時をリードしてシナイ山で「十戒」を授けられたモーセの生涯については次のように書いている。
「信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした」。
しかし、パウロは「影」でしかない律法(十戒)に生きる旧約の人々と、聖霊(イエスそのもの)を受けた「新約」の人々の違いを、次のように語っている。
「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人第二の手紙3章)。

パリサイ人がイエスに「神の国はいつ来るのか」ということを質問したことがある。
それに対してイエスは「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイの福音書24章)といいつつも、次のように述べている。
「いちじくの木を、またすべての木を見なさい。はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい。 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい」(ルカの福音書21章)。
旧約聖書の「ヨナ記」には、神がヨナをニネベの街に「悔い改める」ように伝道に遣わす話がある。
しかしヨナは、イスラエルにとっての脅威アッシリアの首都ニネベの人々が救われることを望まず、逃げ出して大魚の腹の中に3日間閉じ込められている。
その後、ヨナはニネベで伝道し、ニネベの人々が神に立ち返ることを喜ぶどころか、不満をもつ。
その時神は、「右も左もわきまえないこの民を惜しまずにいられようか」と、ヨナを諭している(ヨナ記4章11)。
新約聖書には、世を滅ぼさんとする「不法のはたらき」と「それを留める」ものがあることを述べている。
「まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケ第二の手紙2章)。
ここで、「不法の秘密の力」あるいは「阻止している者」とは何なのか。
「ヨハネの黙示録」は、ギリシアのパトモス島に流された使徒ヨハネに示された「天界」におけることが記されている。
その中に「不法の秘密の力」とはサンタによく似た名前の存在であるが、「阻止している者」とは何か。
「ヨハネ黙示録」に「四人の御使い」が登場する。
「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、"わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない" 」(ヨハネ黙示録7章)。
イエスは、いつ神の国がやってくるのかについては、それは「天にいる父のみが知ることである」(ヨハネの福音書14章)としている一方、「あることが起きる」ことが条件であることを示している。
それは、「異邦人の数が満ちる時」(文語訳/ローマ人への手紙11章10)ということ。
すなわちキリストの福音が世界に広がり、ユダヤ人以外の異邦人の数が満ちた時、(その数はわからない)ということである。
この奥義については、別の箇所で「異邦人の時代が満ちた時」(ルカの福音書25章)と表現されている。
また「神の国はいつくるのか」という質問に対して、イエスが次のように答える場面がある。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また"見よ、ここにある""あそこにある"などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカの福音書17章)。
ここでイエスは、聖霊のカタチで「神の国」が信徒に宿ることを示唆している。そういう意味で、見られるかたちでくるものではないと語っている。
したがってイエスの「救い」を受けた者は、「聖霊」を心に宿すことであり、地上に「神の国」を先取りして味わっているということである。
とはいっても、それは完全なものではなく一部分でしかない。
唐突だが、松本清張の初期の小説に「或る小倉日記伝」というものがあった。小倉に滞在した時期の森鴎外の紛失した日記を埋めようと調査した青年の話。
青年は足を棒にして当時の森鴎外の行跡を調べたのだが、小説の「後記」に失われていた「日記が見つかった」と書いてあった。
青年の調査や推理がどんなに優れていようと、「本物の日記」に勝てるはずもなく、青年の努力は徒労に終わる。「本体」が現れれば、「影」は棄却される。パウロが信徒にあてた次のような言葉がある。
「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(コリント人第一の手紙13章)。
パウロの言葉は次のように続く。
「しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。
ここで、「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」とあるように、神と人との「情報の非対称性」がなくなることが預言されている。
それは具体的にどのように実現するのであろう。
イエスのたとえ話のなかには「天国のたとえ」と「神の国のたとえ」とがある。
その違いは、両者の言葉の使い方に表れる。たとえば、「神の国を待ち望む」といっても、「天国を待ち望む」とはいわない。また、「神の国を継ぐ」とはいっても、「天国を継ぐ」とはいわない。
両者の違いを簡単にいうと、「天国」は今でも存在するが、「神の国」はこれからくるもの。
さらにいうと、「天国」が地上にくだってきたものが、「神の国」ということである。
また聖書は、信者が「顔と顔を相見る」ように神を知ることが出来る日が来ることを預言している。
では天国がどのように地上に下るかというと、「キリストの再臨」を通じてである。
信徒にとっては「天国」のことは、鏡にみるようにおぼろげでも、「神の国」の到来では「顔と顔とを相合わせる」ということだ。
パウロが、前述のようにコリントの信徒に語った「いつまでも存続するもの3つ~信仰と希望と愛」の希望とはそのことである。
また、イエスは、「いつまでも続く愛」についても次のように語っている。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネの福音書14章)と語っている。

その一方でイエスは、次のような応えをしている箇所もある。
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカの福音書17章)。
ところでイエスは十字架の死の3日後に、復活の姿を弟子達をはじめ人々に現わした。
同時に500人に現われたという記述もある(コリント人への第一の手紙15章6)。
イエスはその後、弟子達の見ている前で、天にあげられるが、彼らの側に居た御使いが、「このイエスは、天に昇って行かれる同じ有様でまたおいでになる」と、証言している(使徒行伝5章4)。
イエスは十字架の死以前に、弟子達との間で次のような約束をしている。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」 (ヨハネ福音書14章)。