聖書の言葉(キリストの花嫁)

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディトが「菊と刀」(1948年)という本の中で、「欧米は罪の文化/日本は恥の文化」と書いた。
ここにおける「恥」とは、家名を汚すことで、「汚名をそそぐ」といった言葉がある。
そこで、すこし転訳すると「欧米は贖(あがな)いの文化/日本は浄め(祓い)の文化」とはいえないだろうか。
日本語で「贖う」とは、せいぜい「金や物品などを出す、埋め合わせをする」「何らかの過誤のつぐないをする」というぐらいの意味でつかわれる。
聖書では、「贖う」という言葉には、「罪」を何らかの方法で拭い去るという祭儀的な意味合いで使われる。
旧約聖書では、神殿で祭司によって動物(子羊)の血がそそがれ、新約聖書では、「キリストの十字架の血」によって贖われた。
英語訳聖書を読むと、旧約聖書においては「罪を贖う」場合は 「atone(動詞)/atonement(名詞)」、新約において「人を贖う redeem(動詞)/と redemption(名詞)」と使い分けている。
農耕社会の日本では、「水による浄め」はあっても、「血の贖い」はなかなか馴染みにくい。
古代イスラエル文化と日本文化はかけはなれているようにも思えるが、共通点も多い。
例えば、神殿で礼拝する前に「手を洗う」こと(詩篇26)や、「浄め」のために「塩」をもちいること(マタイの福音書5章)など。
なによりもイスラエルの神殿そのものが、日本の神社とよく似ている。
また日本では「家」の存続や祖先伝来の「土地」に対する思いが強いが、古代イスラエル社会にも「ゴーエール」という制度があった。
これは、奴隷などになっている人物や人手に渡った土地などを、もっとも近い血縁者が買い戻して氏族とその資産を維持する責任を果たすという制度である。
この「買い戻す"ガーアール"」責任を持つ血縁者を「ゴーエール」といった。
聖書では、この「ガーアール」という言葉が「土地を”贖う”」という言葉にあてられている。
この「ゴーエール」という制度は、夫を失って寡婦となった女性を血縁者の一人が娶って氏族を存続させようという「レビート婚」という風習とも結びついていた。
その際古代イスラエルには、親族としての責任の履行や譲渡に当たって、一切の手続きを認証する為には当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すということが行われていた。
贖いや償いの交換がなされ、合意できた相手に対しては「靴を脱いで渡し、その行為を相互に確認しあう習慣」が存在した。
日本語の諺にも「下駄を預ける」というのがある。
委細は一切相手に任せると言う意味で、聖書と意味はほぼ同じである。

1970年初頭、日本で「ナオミの夢」という歌が流行った。歌っていたのは「ヘドバとダビデ」というイスラエルのデュオである。
「ナオミの夢」はもともとイスラエルのテレビCMソングとして作られたが、1970年第1回東京世界歌謡音楽祭で歌われ、グランプリを獲得した。
この音楽祭が東京で開催されたこと自体が奇縁であるが、日本語詞で再レコーディングされるや66万枚の大ヒットとなった。
当時、「ナオミ カンバック トゥー ミー」の名前を替え歌にして歌うのが定番だった。
「ナオミ」は日本人の名前かと思っていたが、1990年代にスーパーモデルのナオミ・キャンベルや女優のナオミ・ワッツの登場し、「ナオミ」の名はワールドワイドな名前であることを知った。
ちなみに、谷崎潤一郎の「痴人の愛」に「ナオミ」という魔性の女が登場するまでは、日本人にとってはナオミはそれほどポピュラーな名前ではなかった。
さて旧約聖書の「ルツ記」にも、「ナオミ」という女性が登場する。
時代は、紀元前12世紀ごろで「士師の時代」とよばれる苛酷な時代であった。
出エジプトでモーセ・ヨシュアに率いられカナンの地に帰還したイスラエルは、周辺をペリシテ人ら異民族に取り囲まれ、カナンの地を追われた人々も虎視耽々とその地の奪還を狙っていた。
「パレスチナ」という言葉はこの「ペリシテ」よりきていて、今も昔も対立の構図が同じである。
イスラエルは、しだいに周辺の異民族との融和の為に婚姻関係によって結びつく一方、異民族の神を崇めるようになり、さらにその支配をもうけるようになる。
このことが神の怒りをまねき、イスラエルが再び神を求めると、神は「士師」を起こしてイスラエルを救おうとした。
「士師」とは戦術にたけたばかりか、兵士を集めることのできる強いカリスマ性を備えた人々で、その中には、怪力サムソンやバラクやデボラ(女性)など映画の主人公となった人物もいる。
そうした士師が世を治めていた時代、飢饉がイスラエルを襲った。
そこである人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといった。
ところが大黒柱のエリメレクは、妻ナオミと二人の息子を残して死んでしまう。
息子たちはその後、モアブの女を妻とし、一人はオルバ、もう一人はルツといった。
彼らは10年ほどモアブで暮らしたが、二人の息子も死んでしまい、残されたのは女三人という心細さ。
ナオミと息子の嫁オルパとルツである。
ナオミは故郷の飢饉が去ったことを知り、モアブの野を去って故国のユダに帰ることにし、二人の嫁もナオミにつき従おうとした。
しかしナオミは、二人の嫁に自分の故郷に戻るように勧めた。モアブといえば、アブラハムの甥のロトとその姉娘との間に生まれた子どもの子孫であり、いわば「異邦人」でモアブ人とよばれた。
ナオミの故郷ユダは、生活も風習も違うばかりではなく、「異邦人」に対して極めて排他的な社会で、ナオミはそのことをなにより按じたのだ。
弟嫁のオルパは泣く泣く姑ナオミに別れを告げたが、兄嫁ルツはナオミに縋りついて離れようとしなかった。
その時、ルツが姑ナオミに語った言葉が驚きである。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1章16節)
自分達の身の不幸からすれば、神をのろったとしても不思議ではないのに、イスラエルの神(ヤハウェ)への信仰をナオミから受け継いでいたのだ。
結局、姑ナオミと嫁ルツは全くの二人きりでナオミの故郷のベツレヘムに着いた。ちなみに、「ベツレヘム」は、イエス・キリストの生誕の地である。
二人がベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃であり、ナオミの旧知の人々はナオミに「お帰り」と声をかけた。
しかし、ナオミは「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれることを拒み、苦しみを意味する「マラ」と呼ぶようにと願っている。
この時ナオミは、「主の御手が私に下った」「全能者が私をひどい苦しみに会わせたからだ」と語っている。
ところで亡くなった夫エリメレクは土地を所有していたが、「跡継ぎ」がいないままであり、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。
しかし前述のようにユダヤ法には夫がなくなるとその親族(特に兄弟)が優先的に土地を買い取る権利を有するという規定があった。
エリメレク一族に属するボアズという金持ちがいた。ボアズもその土地を買い戻す権利を持つ「ゴーエール」の一人だったのだが、「遠縁」にすぎなかった。
ところが当時、ユダヤでは貧しい者と寄留者には、収穫後の「落ち穂拾いの権利」が与えられていたのだが、ルツははからずもボアズの畑へと導かれていた。
ボアズは、モアブの女とはいえ働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいように、畑の若い者たちに邪魔をすることがないように命じた。
そしてボアズに対する好意を知った姑ナオミは、自分が死ねば庇護者を失うルツの将来を保証しようと、「レビラート婚」の権利に訴えた。
前述のとうり、レビラート婚とは結婚した男性が子どものいないまま死んだ場合、死んだ男性の親族が寡婦を自分の妻としてめとるものである。
そしてナオミはルツに、からだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることを指示した。
これは、はしたない行為ではなく、当時のユダヤの求婚の習慣に従ったものである。
ボアズは、けなげなルツの姿を見て、「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっている」と語った。
「先の真実」というのは、故国を離れてでもナオミにに支え仕えたことを指し、「あとからの真実」というのは、夫マフロン名を相続地に残すために歳のはなれたボアズに身を寄せて生きようとしたことを指す。
しかし、「レビラート婚」にせよ「土地の贖い(買戻し)」の権利にせよ、一族のなかにそれらの権利を持つ者は他にいたのである。
遠縁にあたるボアズの外にその権利をれ行使する者がいれば、その企てはすべて潰えてしまう。
実際に、ボアズよりも優先度の高い血縁の者がその権利を行使しようとしたのだが、ナオミはルツに「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」と語っている。
この言葉には、「神が働いて下さるから見ていなさい」という信仰の言葉であり、ナオミは多くを失っても信仰に富んでいた。
結局ボアズは、優先的に権利を持つ者が引き下がったことを確認の上、その権利を譲りうけ、ナオミとルツの幸せのために、ある意味で「犠牲」の多い結婚を承諾したのである。
すべてを失ったかに思えたナオミと異邦人ルツに、思いもよらないボアズという庇護者が現れたばかりではない。
そのボアズとルツとの子孫にダビデ王が生まれ、その系図からイエス・キリストが生まれるのである。
「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、”わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神”と。 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう」(詩篇91)。

古代イスラエルの「ゴーエール」の制度は、一家の主人が死んで他人に渡ろうとする土地を親族の誰かが優先的の「買い戻す」制度であるが、 ヘブライ語では「買い戻す」は「贖う」と同じ言葉が使われる。
つまり「土地を贖う」という言い方をする。
土地が他人にわたれば、人々はそこで奴隷として働くか、追い出されてしまうほかないので、「土地を贖う」ということには、「自由の保証」や「解放」を意味している。
それはナオミとルツのようにボアズのようなよき庇護者の下で、自由を生きることを意味する。
その点に関して、新約聖書の中で使徒パウロは、アブラハムの二人の息子を生んだ二人の女、サラとハガルを、「自主の女性」と「奴隷の女性」に譬えて述べている箇所がある(ガラテヤ人への手紙4章)。
アブラハムには正妻のサラに子供が生まれず、妻サラの許諾の下、アブラハムと奴隷の女ハガルとの間で子イシマエルを生まれる。
ところがその後、正妻のサラにイサクが生まれ、自由な身分の女サラが生んだ子イサクだけが、自由な身分の子として相続人と認められる。
その結果、奴隷の女ハガルとその子イシマエルは継ぐ相続人とは認められず、アブラハムの家から追い出される。
、 パウロはまた、二人の女性を「旧い契約」と「新しい契約」になぞらえつつ、次のように書いている。
「律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす」(ガラテヤ人への手紙4章)。
ところでイスラエル人はヤハゥエより律法を与えられたことを何より誇りとしていた。そしてそのことにより異邦人を見下していた。
しかしパウロは、ここでイスラエル人こそが「律法の奴隷」にあるといっているのである。
これは律法を拠り所とししている指導者層(律法学者・パリサイ人)の根幹を揺るがす主張である。
パウロはイエスの十字架を人類の「罪の赦し」ばかりか、そうした「律法からの解放」であることを強く主張しているのである。
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ人への手紙5章)。
またパウロはモーセによって与えられた「旧い契約」とキリストにおいて立てられた「新しい契約」が比較されている。
そして、旧い契約は「文字による契約」、新しい契約は「御霊による契約」とされ、その二つの契約の比較は「文字は殺し、御霊は生かす」という標語で要約されている。
かつて誰よりも熱心なパリサイ人であったパウロにより語られているだけに説得力がある。
パウロは、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(ローマ人への手紙3章)と書いている。
パウロは、無条件・無代価で義とされる、つまりもはや律法順守を条件としない「恩恵の契約」であるとしているのだ。
旧約聖書の「ルツ記」にみられる「土地を(買い戻す)贖う」とは、そうした解放の「型」であり、ボアズと異邦人であるモアブ人ルツの子孫からダビデ王が生まれ、イエス・キリストが生まれるという驚きの展開も、異邦人も「信仰」によってアブラハムの子孫として「接ぎ木される」(ヘブル人への手紙5章)ことの「型」である。
ここでいう「信仰」とは、「新しい契約」つまり「神の国」を信じるという「福音」を指している。
そのことをパウロは次のように結論づけている。
「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。 しかし、聖書はなんと言っているか。”女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない”とある。 だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」(ガラテヤ人への手紙4章)。
さらに、ボアズとルツの結婚を想起させるような預言者イザヤの言葉がある。
「人ふたたび汝をすてられたる者といはず 再びなんぢの地をあれたる者といはじ 却てなんぢをヘフジバ(わが悦ぶところ)ととなへ なんぢの地をベウラ(配偶ある者=夫のあるもの)ととなふべし そはヱホバなんぢをよろこびたまふ なんぢの地は配偶をえん」(文語訳:イザヤ書62章)。
また新約聖書では、神の国の到来において「ひとつとなる」イエスキリストと教会(キリストを頭とする共同体)との関係を、「キリストの花嫁なる教会」(エペソ人への手紙5章)となぞらえている。