聖書の幻から(枯れた骨が生きる)

旧約聖書には、イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・ゼレミヤ書などの「預言書」がある。
「預言」は神の言葉を預かるという意味だから、未来の予言とは限らない。
現在のことも過去のこともある。
また預言は言葉ではなく、「黙示」あるいは「幻(まぼろし)」として預言者に示されるものもある。
それは、"夢かうつつ"か判別しがたいもののようだ。
例えば、預言者エゼキエルが見せられた”イメージ”はおぞましくもある。
「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。彼はわたしに言われた、”人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか”。わたしは答えた、”主なる神よ、あなたはご存じです”。彼はまたわたしに言われた、”これらの骨に預言して、言え。"枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。"」(エゼキエル書37章)。
日本の「古事記」にやや似た光景があったが、全く対照的な場面として思い浮かべるのが、パウロが生きたまま「第三の天」にまで引きあげられたエピソードである(コリント人第二の手紙12章)。
預言者は霊に導かれて「黄泉の世界」を見せられたり、「天界」を見せられるということだ。
さて預言者エゼキエルが、神からいわれた通りに語ると、”枯れた骨”に次のようなことが起きる。
「見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。時に彼はわたしに言われた、”人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ”。そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった」。
この箇所を「エゼキエル書」全体から読み解くと、「枯れた骨」は、希望を失ったイスラエルの民の姿を表していると解釈できる。
旧約聖書には、ほかにも「枯れ木に若芽が出る」というイメージがいくつかあり、それは「イスラエルの復興」を表すからだ。
それを一番よく表すのが、イスラエルの王の”三種の神器”のひとつ「アロンの杖」に生じたことだ。
アロンはモーセの甥にあたる人物だが、口下手なモーセと共にエジプト王パロの前に出て「イスラエルを去らせよ」と語った祭司であった。
パロがなかなか言うことを聞かないので、モーセはアロンの杖をもってナイル川の色を血の色に変えるなど様々な不思議をおこなう。
このアロンの杖、つまり「枯れた木」に起きた出来事につき、聖書は次のように書いている。
「その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた」(民数記17章)。
しかし旧約は新約の「型」としてあることを思う時、エゼキエルの預言の中の「多くの人が肉を付け、皮膚をつけてよみがえる」「骨と骨とが近づき、筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆う」「そしてその体に、息が入るとその人は生き返る」などの表現は、むしろ人間の「復活」を思わせる。
ところでイエス・キリストは十字架の死の3日後に蘇ったのであが、素朴な疑問が起きる。
なぜ3日後なのか。その間イエスは何をしていたのか。
つまりイエスの「空白の3日間」につき、パウロは信徒への手紙の中で次のように書いている。
「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに8名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである」(ペテロ第一の手紙3章)。
パウロはこの手紙で、神の国の福音は「死者の世界」にも伝えられるということ、ノアの洪水は「バプテスマ(洗礼)の型」であるということを語っている。
そしてパウロは「もしイエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」(ローマ人への手紙8章)と書いている。
新約聖書で有名な「ラザロの復活」の場面で、イエスは死臭さえただよいはじめたラザロの死につき、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」(ヨハネの福音書11章)と語っている。
、 さらにパウロは、信徒への手紙の中で次のように書いている。
「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろ 」(テサロニケへの第一の手紙4章)。
さらにパウロは信徒への手紙で次のようにも書いている。
「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」(コリント人第一の手紙15章)。
この箇所のすぐ後に、エルサレムを中心とした初代教会では、「死者のために洗礼」さえもおこなわれていたことが記載されている。
「それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか」(コリント人第一の手紙15章)。
またイエス自身が「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネの福音書5章)と語っている。

預言者エゼキエルに示された幻(黙示)の中には、他にも豊饒なイメージがある。
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。すると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。 その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。 見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、 それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。がさらに一千キュビトを測り、 私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、 渡ることのできない川となった」(エゼキエル書47章)。
ここでいう神殿は、イエスが人々に「この神殿を3日で建て直す」(ヨハネの福音書2章)と語ったことから、復活したイエス・キリストの身体と読むこともできる。
そうすると、この幻はイエスから流れ出した水を指し、それが渡ることのできない川となるということだ。
ちなみに「キュピト」はノアが箱舟を作った時に、神から様々な部位の「長さ」を指定される時に頻繁に登場する単位で、人間のひじから指先までの長さ。
こうした「川(水)の流れ」は、聖書の中に何度も登場する。例えば詩篇は次のような言葉ではじまる。
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、 昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(詩篇1篇)。
また、新約聖書では、イエスが井戸端でサマリアの女と出会った時に語った言葉が「エゼキエル書」とよく符号する。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネの福音書4章)。
またイエスは水と聖霊につき次のように語っている。
「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、"だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう"。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである」(ヨハネの福音書7章)。
これらの言葉から、ゼカリヤ書の「神殿から流れ出でる水」が、イエスの復活後に降る聖霊を預言しているとみなしてよい。
また聖霊が集団に降り、エルサレムにて初代教会が誕生する「ペンテコステ(五旬節)」の出来事は、夢かうつつではなく、現実に起きた出来事である。
「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒行伝2章)。
ここで聖霊が下った証拠ともなる「他国の言葉」は今日「異言」(英語で”アナザータング”)とよばれているが、かつて「バベルの塔」の神が怒って人々の言葉が通じなくした「バベルの呪い」からの解放ともみなされる。

神が預言者エレミヤに示したのが、夢かうつつかの「陶器つくり」の場面であった。
「主からエレミヤに臨んだ言葉。”立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう”。わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。その時、主の言葉がわたしに臨んだ、”主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。 またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、”主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい”と。しかし彼らは言う、”それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します”と」(エレミヤ記18章)。
さて、天地創造の中で神は人を土より創造したとある。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」(創世記2章)。
したがって旧約・新約いずれの聖書においても、神を「陶器師」としてなぞらえている箇所が何度かでてくる。
また、新約聖書にも「陶器のたとえ」が登場し、パウロは自らを「土の器」に譬えている。
そして「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、"なぜ、わたしをこのように造ったのか"と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」(ローマ人への手紙9章)と書いている。
さらに預言者ゼカリアに示された夢かうつつかの内容が、イエスの十字架前後の出来事とピタリと一致する。ゼカリアにしめされた内容は次のとうり。
「そこで、わたしに目を注いでいた羊の商人らは、これが主の言葉であったことを知った。 わたしは彼らに向かって、”あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい”と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。主はわたしに言われた、”彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ”。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた」(ゼカリア書11章)。
はっきり言ってよくわからない内容だが、注目すべきは、「私が値積もられた尊い価」と「銀30シケルを宮のさいせん箱に投げる」という幻の内容。
実はこの「銀30シケル」という値段は十二使徒のひとりユダがイエスの命と引き換えにローマ兵に支払った値段であり、それをさいせん箱に投げ入れるのも、ユダが実際に行ったことである。
さらに注目すべきは、そこに「陶器師の畑」がでてくることである。
「夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、"わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました"。しかし彼らは言った、"それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい"。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない"。そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、"彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた"」(マタイの福音書27章)。
ここで預言者エレミヤの預言が成就したとは「エレミヤ記32章」に内容近いが、それより前述の「ゼカリア書11章」の方が具体的である。
つまり、旧約の預言者達は自覚することもなく、メジア(イエス)の預言をしているということである。