聖書の言葉より(固い食べ物)

聖書には「食べ物(パン)」に言及している言葉がいくつもあるが、次の言葉はよくしられている。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」
また、「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」とも書いてある(マタイの福音書6章)。
また聖書は、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(ペテロ第一の手紙)と述べている。
パウロは、「あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない」(コリント人への第一の手紙3章)と書いている。
つまり聖書は、信仰においては乳のように食べやすいものもあれば、固い食べ物をものあると、食べ物の譬をつかって語っているのである。
では信仰における「固い食べ物」とは何か。パウロは前述の言葉の前に次のように述べえいる。
「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった」(コリント人第一の手紙3章)とある。
パウロはここで、信仰においても「肉に属する人」と、「御霊(聖霊)に属する人」の信仰があることを示唆しているのである。
「肉に属する」とは、心や感覚でよしと思えるものは、進んで受け入れることができる。しかし「御霊に属する」とは、神の導き(霊の導き)が、感覚的には受け入れがたいが、あえてそれを「受け入れて」進もうということ。
この姿勢こそが「固い食べ物」を受入れる「信仰」ということある。
例えば、イエスの次の言葉はなかなか固い。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイの福音書5章)。
旧約聖書に、「信仰の父」として引き合いに出されるのが、アブラハムという人物である。
アブラハムは、メソポタミアのカルデアの地ウルよりパレスチナのカナンの地に住むが、カナンの地にはいるころ一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。
そこでアブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼって見渡す原野を前にして、ロトにどちらの道に行くか良いほうをロトに選択させるのである。
つまりロトに優先権を与えるが、ロトはその時点で見た目が「豊かで麗しく」見えた低地の方を選んだ。
ところが、その風景も時の経過とともに変化する。
年月が経るに従い、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄え、ロトも神の使いを守るために自分の娘達を獣のような男達に差し出すという悲嘆をナメさせられている。
そしてついに神の怒りが発せられ、ソドム・ゴモラの町は滅ぼされる。
神の怒りの火で滅ぼされる中、神の恩寵によりアブラハムの親族・ロトの一族のみが助け出される。
その時、ロトの妻は神の命に反して焼き尽くされる町を振り返ったために「塩の柱」となったとされる。
ちなみに、ロトの長女がモアブでモアブ人の祖となっている。ちなみに、「ルツ記」の主人公ルツは、モアブ人の娘である。
一方、アブラハムが住む地は守られて祝福され、イサク・ヤコブとその子孫が繁栄していくのである。
アブラハムは、「あなたの足の踏むところことごとく祝福する」という約束をうけていたので、ロトに選択の優先権を与えた。
優先権を与えられたロトからすれば、皮肉な結末となったわけだ。
またそれ以前にアブラハムは、神との間で「あなたの子孫はその星の数ほどになる」という約束もうけていた。
「信仰の父」ともよばれることになるアブラハムは、この約束に対する信仰を土台として、「土地の選択権」をロトに与える(創世記15章)、つまり”神に委ねる”ことにしたということである。
神はアブラハムのそうした一貫した「信仰」の姿勢に、約束の実現をもって応えたといえよう。
ロトは目に見えて豊かな地域を選択するのだが、それがソドムゴモラのような悪徳の町となって死海のそこに「塩漬け」となっている。
我々は日常は心の次元で生活しているので、エデンの園でアダムとイブが遭遇したように「見るによく食べるによい」(創世記3章)ものを選択しがちである。
信仰における「固い食べ物」とは、人間が肉(こころ)を喜ばすのとはちがって、それとは反するような導かれ方をしても、それに従えるということではなかろうか。
アブラハムの信仰は、メソポタミアのウルの町を出発した時から、そのようなものであった。
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル人への手紙11章)。

イスラエルの初代サウル王は、アブラハムの信仰とは違って、「肉に属する」信仰に留まっていたということができようか。
預言者サムエルが神の言葉によって立てたイスラエル最初の王サウルは、「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民はだれよりも肩から上、背が高かった」(サムエル記上9章)とある。
また就任当時のサウル王は見た目ばかりではなく、大いなる神の祝福をうけ、「新しい人」になったと書いてある。
その時、預言者サムエルはサウル王に次のように語った。
「その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って新しい人となるでしょう。これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当たりしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです」(サムエル記上10章)。
聖書の登場人物の中でも、「手当りしだいなんでもしなさい、神が共にいるから」などどいわれた人物は後にも先にもいない。
しかし、そんなサウル王の信仰にも「狂い」が生じ始める。
ある戦いにおいて、預言者サムエルが来るのを「待ちきれず」に、預言者がすべき燔祭を行ってしまうのである(サムエル記上第13章 )。
サウル王と民は、ペリシテ人との戦いで、ささげ物をするためにサムエルが来るのを待っていた。
しかし戦況が逼迫したが、サムエルは来るのが遅れていた。
これを見て、サウルは彼の役割ではないことをしてしまう。自ら神へのささげ物をしたのである。
サムエルは祝福を受け、「新しい人」になったことから、こうしたことの良し悪しの識別はできたはずだ。
しかしサウル王は、イエスを十字架の際のローマ提督ピラトのように、「民衆」をおそれていたのかもしれない。
しかし、サムエルはちょうどサウル王が捧げ終わったときにやって来くる。まるで、この出来事は神からの試金石であったように。
そしてサムエルはサウル王に次のように語っている。
「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ」(サムエル記上13章)
またサウル王は、アマレク人との戦いでも、神の言葉に従わず「自分の感覚」を優先させている。
神は、サウル王にアマレク人を全滅させるように命じた。にもかかわらず、サウル王はアマレク人の中でも、自軍で使えそうな者は生かすことを選んだのである。
この出来事について聖書は次のように述べている。
「サウルはハビラからエジプト国境のシュルに至る地域でアマレク人を討った。アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼした。しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」(サムエル記上第15章9。
このサウル王のふるまいにつき、サムエルは次のように語っている。
「主が喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に 高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは 王位から退けられる」。
サウル王は、神の言葉よりも、人の意見を気にかけていた。彼が失うのを恐れていたのは神との関係ではなく、人々からの尊敬であった。
サウル王がサムエルに語った次の言葉には、そんな心情がよく表れている。
「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください」(サムエル記15章)。
この出来事以後、サウルがなすことはことごとく裏目に出て、精神的にも狂ってしまい、そのうち悪霊に悩ませられ続ける。
時間を遡ってみると、預言者サムエルは、イスラエルが王制をしくことに反対で、民衆に警告を発していた。
民衆がもしも王を立てることを求めるならば、息子や娘を兵役や使役にとられたり、税金をとられたち、奴隷となることもあり得るとそのデメリットを語ったが、民衆は聞き入れなかった。
それでも民衆はサムエルの声に聞き従うことを拒んで「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」(サムエル記上8章)」と訴えたのである。
サムエルは民の最終意思を確かめ、「民の声」をとりなして神に伝えた。
すると神は、「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と答えている。
こうして「王制」が始まるのだが、神はサムエルを通して、彼らが退けたのはサムエルではなく、”神”が彼らの上に君臨することを退けたのだと、応えている。
それは民衆の「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかう」という言葉にも表れている。
つまりイスラエルは、ギデオンの時のような「主の戦い」ではなく、英雄を求め、武器や馬に頼る普通の国に転じていく。
つまるところ、イスラエルの民が他のすべての国々のように王を望んで「普通の国」になったのは、神に栄光を帰するという信仰ではなく、自分たちの”武力”により頼み、自ら誇らんとする欲望であったのかもしれない。
そしてサムエルは、「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」と預言する。
そしてサムエルの預言どうり、イスラエルの民衆は、自ら望んだ王によって、様々な辛酸をなめることにもなる。
最終的に預言者サムエルはサウル王に、「あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」(サムエル記上13章)と語っている。
そして預言者サムエルは、少年時代の王ダビデを見出し、神の導きによってダビデに油を注ぐ。
こうしてダビデはイスラエルの2代目の王となるが、ダビデは過ちが多い人物ではあったが、サウル王との決定的な違いは、ダビデ王が人との関係ではなく、神との関係を恐れたことであった。
それは次のようなダビデの詩によく表れている。
「主よ、あなたはわたしを探り、 わたしを知りつくされました。 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、 遠くからわが思いをわきまえられます。 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、 わがもろもろの道をことごとく知っておられます。 わたしの舌に一言もないのに、 主よ、あなたはことごとくそれを知られます。 あなたは後から、前からわたしを囲み、 わたしの上にみ手をおかれます。 このような知識はあまりに不思議で、 わたしには思いも及びません。 これは高くて達することはできません。 わたしはどこへ行って、 あなたのみたまを離れましょうか。 わたしはどこへ行って、 あなたのみ前をのがれましょうか」として、「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを 知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩篇139篇)としている。
その点からいうと、サウル王の信仰は「民の声」になびいた点で「固い食べ物」を受け入れられなかった。
一方、ダビデは過ちがあったとしても自らの心を探る神に自らを明け渡して「固いた食べ物」をさえも受け入れようとする信仰があったといえそうだ。
ところで我々は、人の努力そしてそこから得られた素晴らしい結果に感動し勇気をもらう。それはそれで自然なことであろう。
その一方で、聖書でいう「固い食べ物」を受け入れる信仰というのは、人の栄誉が讃えられることではなく、神に栄光を帰そうとする信仰から生まれる態度ではなかろうか。
サウル王が退けられ、ダビデ王が神に引きよせられたのは、そこの違いである。
「すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである」 (ヘブ人への手紙5章)。
パウロは、信徒への手紙で次のように述べている。
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」(ガラテヤ人への手紙1章)。
人が崇められない聖書は、堅い食べ物、ある意味で「つまづき」の書ともいえる。
イエス自身も民衆に、「私につまづかない者はさいわいである」(ルカの福音書7章)と語っている。