近年、福岡県南部の久留米市の耳納連山あたりは、「漱石の道」として地域おこしがおきている。
夏目漱石は、熊本の旧制五校に職を得て、熊本市内には2か所にその住居跡がある。
漱石は、1896年9月に新婚旅行に二日市温泉にきており、「温泉(ゆ)の町や踊るとみえてさんざめく」の句を詠んでいる。
二日市温泉「御前湯」の前庭に、この句碑がたっている。近くには、公卿・三条実美の句碑もある。
また、二日市大宰府に向かう鹿児島本線の久留米にも「親友」がいて、そこに立ち寄っている。
漱石の親友というのは菅虎雄(すがとらお)という人物で、現在久留米市役所ビルあたりに家があった。
当時は、ここからでも髙良山は良く見ることができた。
菅虎雄はドイツ文学者であるが、夏目漱石との交流を通じて、日本文学にも大きな影響を与えた。
なにしろ、夏目漱石に松山に行くことも、熊本に行くことも、それをすすめて手配したのが、菅虎雄であったからだ。
実際、JR久留米駅に近い梅林寺の「菅虎雄顕彰碑」に、哲学者の安倍能成が「漱石が生涯を通じて最も仲のよかったのは菅虎雄であろう」と言っていたことが書いてある。
「苦しい時の友こそ真の友」というのならば、漱石にとって真の友とは、菅虎雄以上の存在はいない。
菅虎雄は久留米の典医・菅京山の子として生まれている。最初は東京大学医学部予科に入学しながら文科に転科、帝国大学文科大学独逸文学科1回卒業生となった。
1894年秋、漱石は恋愛についての悩み事や、胸の病に苦しんでいて、東京・小石川指ヶ谷町の菅の新居に2、3ヶ月寄寓したことがある。
翌年4月、漱石は東京専門学校と高等師範学校の教師を辞している。
菅虎雄は、漱石の苦境を打開するために、同郷の愛媛県参事官であった人物が菅に英語教師1人の人選を依頼、菅が漱石に声ををかけたら承諾したという。
漱石は松山から菅への手紙で、「当地の人間随分小理屈を云う」とか、「生徒は出来ぬくせに随分生意気」とかいったことを書いている。
もっとも、こうした不平があったればこそ、名作「坊っちやん」が誕生することになるのだが。
また、菅は熊本五高のドイツ語教授であったが、英語教授が必要になり、そんな漱石を推薦したところ採用された。
漱石は熊本にやって来て、菅の家(薬園町)にしばらく寄寓し、1896年から1900年までを熊本で過ごしている。
漱石はこの間に結婚し、東京から鏡子夫人を迎え、四年余りの間に彼は多くの俳句を残した。
そして1897年3月の終わりから 4月の初めに、久留米米方面に旅行している。
一方、菅虎雄は清国政府の招きで南京三江師範学堂教習となって赴任する。そこで書画の名士、清道人「李瑞清(りずいせい)」について「六 朝(りくちよう)」の書法を学び、その書法を会得した。
漱石も菅を追うように熊本五校から一高に転じ、漱石は1907年4月に朝日新聞社に入社し、京都旅行に行っている。
そして菅虎雄と比叡山に登り、「虞美人草」を入社第 1 作として発表する。
そして「虞美人草」の宗近一は菅虎雄をモデルとしたものと言われている。
漱石は終生菅虎雄を信頼し、菅虎雄は漱石の「文学評論」の題字、夏目家の表札、夫妻の墓誌などを揮毫して、その友情を後世に伝えている。
ところで前述の「菅虎雄先生顕彰碑」を梅林寺建てたのは「菅虎雄先生顕彰会」である。
この会によると、「草枕」の冒頭の「山路を登りながらかう考へた」という部分は、久留米が舞台なのだという。
漱石が見た春の風景は、漱石が久留米に行った時に高良山に登り、今の耳納スカイラインを通った時のものとしている。
それは漱石の俳句から推測されることであり、久留米市では、そこを「漱石の道」と名付けて句碑5つを作るなどしている。
なお菅虎雄の霊は、久留米梅林寺の菅自身の筆になる「菅家累代之墓」の下に眠っている。
文学の舞台はしばしば話題になるが、作品を生んだ場所というのはそれほどでもない。
以前、滋賀県を旅した際、琵琶湖のほとりの「石山寺」が、源氏物語を書いた寺と知って、驚いたことがある。(他にも書いた場所がある)。
また、広島県尾道には、「文学のこみち」があって、この地を愛しこの地で作品を書いた25人の碑をめぐるコースであった。
日本近代文学の名作といわれる「暗夜行路」も尾道でうまれた。
我が福岡で意外なのは、倉田百三が福岡に滞在中に「愛と認識の出発」を書いたことだ。
倉田は1891年、広島県庄原( しょうばら)呉服商の生まれである。
英学校のほとんどがミッション系だった時代、町民の意志で「庄原英学校」が設立されていた。
当時から小学校で英語の授業があり、倉田も小学校で英語を学んでいる。
倉田は東京に出て一高に入学するも2度の大失恋と、結核の罹患からの断腸の思いでの退学する。また2人の姉を立て続けに病で失い、実家も凋落した。
しかし、1916年25歳の時に書いた戯曲「出家とその弟子」が大ブームとなり一躍名声を得る。
「出家とその弟子」の出家とは、 親鸞のことで、唯円を含む僧侶たちの師匠である。
唯円といえば、後に名著「歎異抄(たんにしょう)」を著すこととなる人物である。
「歎異抄」は、親鸞の実子の善鸞が親鸞と異なることを説くようになり、その「異」を「歎」き、親鸞が法然から受け継いだ真宗の教え(専修念)に帰るように勧めた書である。
「出家とその弟子」では、唯円が “かえで” という遊女を愛した。しかし、当時は、僧侶が恋人を作ることは認められなかった。特定の関係(例えば恋人をもったり家族を持ったりすること)が「全ての人に平等に仕えるべき」との宗教者の姿勢を揺がすと考えられたからだ。
まして「遊女」となると僧侶としてはあるまじきことだが、唯円は、恋いこがれる彼は寺の仲間に嘘を言って彼女に会おうとする。
そのことを知った寺の仲間は唯円を責め、一人を愛すれば愛するほどに、仲間を裏切り、周りに壁を作ってしまう唯円。
「出家とその弟子」は倉田にとっての葛藤、つまり宗教と性愛を映した作品であった。
この作品は、幼いことから学んだキリスト教の影響を強く受けた作品で、青年たちに熱狂的に支持され大ベストセラーとなった。
人間の愛欲や罪などを描いた戯曲で、国内ばかりではなく英訳・仏訳もでて、作家ロマン・ロランが絶賛したことで有名である。
仏訳の序文はロマン・ローランが書いている。
1918年、倉田は結核療養と助骨カリエス手術のため福岡市に滞在した。
名医の久保猪之吉教授がいた九州帝国大学医学部付属病院で手術をうけるが、その際、福岡市早良区今川の金龍寺境内の貝原益軒記念堂に寓居し「愛と認識との出発」「俊寛」を構想執筆している。
1921年発表の「愛と認識の出発」は、肉と煩悩にさいなまれる自己の心情に密着しつつ、誰もが青春の日に一度は直面する人生上の問題を探求した求道(ぐどう)の書として、多くの青年に読み継がれた。
また倉田は武者小路の「新らしき村」に共鳴して、滞在した金龍寺を「新しき村」福岡支部としている。
そして白樺派との交流が始まり、金龍寺は柳原白蓮や倉田を慕う青年たちでにぎわった。
倉田の後半生も、概して心身の病との戦いで、参禅など修養に努めるようになる。
そして「日本主義」の団体の結成に参加し、その機関誌「新日本」の編集長となるなどした。
1943年2月、51歳で死去。福岡ドームに近い金龍寺境内には、貝原益軒墓と並んで、「倉田百三寓居碑」が立っている。
シンガーソングライターの広瀬香実は、和歌山県で生まれで、6歳まで大阪府門真市で育った。
父は建設関係の職業で、6歳から福岡県で暮らした。
幼い頃から英才教育を受けたのは、「手に職を付けてもらいたい」という母の意向で、4歳からピアノ、そして5歳から和声学などクラシック音楽の作曲法を習い始めた。練習をしなければ夕食抜きになるなど、学習は非常に過酷であった。
広瀬第1作おなる楽曲を完成させたのは6歳で、タイトルは「パパとママ」である。
初めて買ったレコードはバッハの「マタイ受難曲」。この作品には作曲法が詰まっていて、作曲のルールを身につけるための勉強になるという先生からの教えにしたがったもので、夕食時なども聴き続けていた。
日夜、夢の中でもひたすらメロディを考え、頭の中に浮かべ続けていたという。
新しいメロディが浮ぶと、その場ですぐ紙に五線譜を書いてメモを取っていた。後年に広瀬が発表した楽曲の中には、こうして子供時代に作ったメロディを使ったものも多い。
広瀬の曲が元々人が歌うのではなく、ピアノやヴァイオリンなどの器楽曲として書いたものだったことは、メロディの起伏が激しいという特徴につながっている。
東京の音大を目指し、地元福岡での勉強に加えて2週間に1度は飛行機で東京にレッスンに通っていた。
福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)卒業後、国立音楽大学音楽学部作曲学科に進学するも、学科内での成績は悪く講師から「何になりたい?」と尋ねられて作曲家と答えるも、”無理”と言われた。
幼少期から養った音楽理論と自身の夢を否定された広瀬は、気分転換を兼ねて高校時代の友人を訪ねるためロサンゼルスへと旅立った。
そこで、マイケル・ジャクソンやマドンナのライブを観て感激し、ポップ・ミュージックに目覚める。
クラシックの楽曲を編曲してマイケルに楽曲提供したいという夢が生まれた。
そして夢に少しでも近づくためポップ・ミュージックの勉強を開始する。
広瀬は、中高生が音楽のピークだったというが、浮かんだ曲を五線紙に書くだけの”浮いた”存在。
誰に声をかけたらいいかわからない。かけようとも思わない。
フツフツしてどう吐き出していいか、どう生きたらいいか煩悶し、親にも心配かけたくはなかったという。
あの「ロマンスの神様」や「ゲレンデが溶けるほど恋したい」の爆発力からは想像しにくい姿である。
中学、高校生時代にはよく通学中に作曲していたという。1983年ころ「ロマンスの神様」や「愛があれば大丈夫」の一部は福岡市南区の井尻六ツ角交差点の歩道橋の上で五線紙を広げて作られた。
歩道橋を降りると福岡女学院行きバス停広場で、歩道橋は今日は学校にいくべきか戻るべきかの、いわば「ルビコン川」みたいな処だった。
広瀬は、この歩道橋のことを、「この方」と表現している。後に、誰にも悩みを相談できなかったあの頃、唯一の心の友だったと語っている。
この場所で登校するかしないかを迷う中、五線譜を取り出して、ここで曲を作っていたのだとか。
教室へ入っても、そのメロディを急いで書き留めることに夢中だった。そうするうちに、周りの子たちとの距離が離れ、今更、自分から声をかけたりすることが出来なくなっていった。
人の名前も音階に聞こえるといい、「絶対音感」と呼ばれる彼女その多大な才能は、人づきあいにおいて器用ではなかっただけに発揮されることになったのかもしれない。
広瀬は通学バスのナンバー「す3316」をよく覚えていて、バスが初恋の相手で「スー君」と呼んでいた。
ブレーキ音シューに「エアーブレーキ」の音がセクシーで心をわしづかみされたという。
広瀬香美は近年、暗黒時代を過ごした福岡女学院高校で熱唱し,
後輩へ魂のエールを送った!
広瀬香美が最後に語った言葉は、「人生は想定外!」。
1702年(元禄15年)12月14日は、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君浅野内匠頭の遺恨をはらし見事本懐を遂げた日である。
この討ち入りは江戸市民がひそかに今か今かと期待していたものであった。
江戸元禄の時代、徳川綱吉下の柳沢吉保による幕府政治に不満をもつ人々が多く、幕府の御法度を破ることにもなる赤穂浪士の討ち入りは、霧がはれたような爽快感を人々に与えたのである。
とはいえ儒教精神のもと、幕府の法度に反する、赤穂浪士の行為をどのように捉えるかは、様々な見方があった。
しかし、赤穂の忠臣たちの行為は、時を経て「義挙」とされ多くの芝居や劇となった。
特に人形浄瑠璃の竹本義太夫の「仮名手本忠臣蔵」の通称として、「忠臣蔵」が赤穂浪士の討ち入りを指すものとして定着した。
こうした「忠臣蔵」のイメージを確立し、国民的ブームにまで押し上げたのは、兵庫県赤穂の人々ではなく、福岡人であった。
福岡市出身の史論家で九州日報の編集局長兼社長であった福本日南(ふくもとにちなん)なのである。
そこには幕末に佐幕か勤王かで揺れ、若くで優秀な勤王家を失った福岡人の思いも反映していた気がする。
福本日南は、処刑された平野国臣とも親交のある勤王家であった。
藩校修猷館に学び、後に長崎で漢籍を修めた。
1876年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、問題が起きて原敬・陸羯南らと共に退校処分となる。
その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぐが計画は頓挫し、帰国後、政教社同人を経て、1889年、陸羯南らと新聞「日本」を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。
1891年7月、発起人のひとりとして、アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である「東邦協会」を設立し、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる。
1905年、玄洋社系の「九州日報」(西日本新聞の前身)の主筆兼社長として招かれた。
1908年、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選し、同年「元禄快挙録」の連載を九州日報紙上で開始した。
そして日露戦争後の近代日本における「忠臣蔵」観の代表的見解を示し、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立するものとなったのである。
そこには、幕末に処刑された「福岡勤王派」の無念が、赤穂浪士とも重なるように思える。
福本は1916年、「中央義士会」を設立し、初代幹事長に就任する。
1921年、千葉県の大多喜中学校で講演中に脳溢血で倒れ死去している。
さて、福岡寺塚の興宗寺では毎年12月14日には福岡義士会主催の「義士際」が賑やかに開催されている。ちなみに興宗寺は、東京三田の泉岳寺と同じく曹洞宗の寺で通称「穴観音」よばれている。
興宗寺には、泉岳寺の本物をそのまま模した「四十七士の墓」が造られている。
福岡の篤志家・木原善太郎が1935年、青少年の健全育成と日本精神作興のために私財を投じて建立したものである。
これを機に義士会が結成され、討ち入りの日に祭典を執行することになった。
以上のような経緯から、泉岳寺に立つ「福本日南の碑」こそは、「忠臣蔵の碑」とみなせるのではなかろうか。
四十七士の忠臣たちの精神は、武士道の精華として語り継がれ、日本人の心に「忠臣蔵」として300年を超えて、親しまれ脈々と受け継がれている。