名誉革命から金融革命へ

16世紀から17世紀のイギリスは二流国であって、王室は借金財政であった。
そこでエリザベス女王が取った方法は、第一に海賊に盗ませた略奪品を転売する事。
ヨーロッパ大陸の国々が貿易に主眼をおいたのに対してイギリス人は、「海賊行為」に主眼において、「海賊」を「英雄」にまつりあげて海賊行為を正当化してきたのである。
第二に、大物の海賊とタイアップした黒人奴隷の密輸。そして第三に貿易会社(東インド会社等)の設立と海外貿易であった。
東インド会社の執行役員7人を調べたところ全員が海賊であり、その海賊達が女王のお墨付きをもらって貿易商として活躍したのである。
つまるところイギリスが世界に冠たる大英帝国となる元手となる資金は、海賊がもたらした略奪品だったといってよい。
たとえばイギリスでは、フランシス・ドレークをイギリスが誇る最高の海洋冒険家として現在も賞賛しているが、彼こそはスペインやポルトガルを含む世界中から略奪の限りを尽くした超大物海賊に他ならない。
ドレークによって、イギリスにもたらされた資金は、文献より算出すると約60万ポンドで、その内エリザベス女王が少なく半分を懐に入れた事になる。
これは当時の国家予算の3年分に相当する額だそうだ。
そしてドレークが略奪した金銀財宝は、テムズ川北側の「ザ・シティ」で換金されていた。
イギリスでは13世紀末にエドワード1世がユダヤ系の金融業者を追放したが、この前後から北イタリアのロンバルディア出身の商人等が来住、貿易とからめ両替・為替業を営み銀行業者の地位を固めた。
ちなみに、フェニキア商人が住んだイタリアの都市がヴェネチィアであり、ヴェネチィアはフェニキアのイタリア語読みである。そしてシェークスピアの「ベニスの商人」でもわかるように多くのユダヤ人も住みついていた。
ドレークは、英国女王エリザベス1世に「わたしの海賊」とまで言われて、ナイトの称号も与えられた国家の英雄だが、イギリス海軍提督でもある。
またマゼランに次いで、イギリス人として最初に世界一周した人物としても知られている。
またドレークの親戚に「奴隷貿易」で莫大な利益をあげたジョン・ホーキンスという人物がいる。
1567年ドレイクは、親戚のホーキンスに同行し10隻の船で奴隷貿易の旅に出発した。
ところが航海の途中、海上で味方を装ったスペイン船の奇襲を受け、命からがら逃げ出せたのはたったの2隻で残りの船は沈められてしまったが、その2隻のうちの1隻がドレイクの船だった。
20歳代の半ばでのこの時の体験がスペインへの激しい敵対心を生み、スペイン船に対する残虐な掠奪行為をさせたのではないかと推測される。
そして西インド諸島でスペインの船やスペイン人の住む村を次々と襲い始め、カリブ海で海賊行為を繰り返し海賊として名前を上げていく。
当時イギリスは新興国で、海の王者スペインに対抗意識をもっていたが、エリザベス女王はスペイン船を襲って蓄えた大量の財宝を持って帰還した彼をおおいに気にいって「女王陛下の海賊」となったわけである。
いわゆる「パイレーツ オブ カリビアン」の時代である。
エリザベス1世は海賊を取り締まるどころか、それを手なずけて戦いの主力としたのである。
イギリスは、この「海賊の機動力」をもって、スペインの「無敵艦隊」を破って世界の覇権を握るきっかけを作ったといってよい。
したがってイギリスの繁栄を築いたのは、「女王陛下の海賊達」であり、それはイギリスがどんなに「紳士の国」を標榜しようが、疑いようもない歴史的事実なのだ。
さて教科書的にいうと、国家の繁栄は、技術革新、農業革命、産業革命、自由貿易等によって富の増大がはかられる。
しかしイギリスに限らず、西洋の繁栄は、世界各地からの富の略奪による「原始的資本蓄積」から始まる。
それは11世紀から13世紀に亘る十字軍によるイスラム世界から、15世紀から17世紀の大航海時代の南米大陸から、そして19世紀から21世紀の帝国・資本主義時代の全世界からの略奪である。
日本でも「ハゲタカ」およばれたファンドがあったが、企業買収を繰り返して高収益を上げている世界的投資ファンドの存在がある。そこにはかつての海賊達の気風を彷彿とさせるものでさえある。
イギリスでは5世紀頃から北方のアングル族、サクソン族が進出し土着化していく。
そして11世紀に海洋民族のノルマン人の侵略をうけて征服され、アングル・サクソン・ノルマンの三者が融合して、現在のイギリスを構成する主要人種が形成された。
ノルマン人といえばもともと「海賊行為」を生業とした集団で、ノルマン人が収奪した富は資本主義の具体的なカタチを与えたといって過言ではない。
その代表がイギリスの「東インド会社」という株式会社という形態だが、それれは後述するようにオランダで生まれた「東インド会社」をモデルとしたものである。
さて、1640年頃まで、金持ちの商人は余剰現金(金や銀)をロンドン塔に保管していた。
しかし、チャールス1世は(彼が王でもある)スコットランドに対抗するために召集した軍人たちへ支払う給料のために、その金塊をさしおさえた。
そのために商人たちは、ロンドン塔に代わる安全な資産の保管庫を求めたのである。
それを提供したのが、シティーの当時頑丈な金庫をもっていた金細工師たちだった。金細工師は金を預かると「預かり証」を手渡した。
それが「ゴールド・スミスノート」と呼ばれるものであり、銀行券の前身である。
しかし、イングランド王ウイリアム3世はフランスとの植民地戦争(1688年~97年)で金銀を使い果たしたイギリスには借金が残り、マネーサプライは減ったものの、経済をなんとか動かす必要があった。
そのジレンマを解決するためにつくられたのが、現在の中央銀行の原型といわれている「イングランド銀行」である。
イングランド銀行は当初は株式会社であり、完全に民間の金融機関であった。つまり、民間の金融機関が政府から紙幣発行と物価・為替の安定業務が委託されたわけである。
実は、「イングランド銀行」はシティという金融街に位置するが、もともとは北イタリアのロンバルディアから移民してきた商人達がつくった商人のための銀行であった。
そしてシティの中心を走る「ロンバート・ストリート」の名は、この「ロンバルディア」に由来する地名である。 この商人たちが、名誉革命でイギリス王に就任したオレンジ公ウイリアムに巨額の融資をもちかけ、その見返りに「貨幣発行権」を得たのだが、いわば 「足かせ」として「金本位制」が始まったといってよい。
ところで出資者達は海賊の貿易船への保険として「ロイズ保険会社」が誕生している。
17世紀後半ロンドンでロイドなる人物が経営するコーヒーハウスには、貿易商や船員の客がよく集まっていた。
そこで彼は店内で海事ニュースを提供するようになり、店は保険引受業者の取引場所になる。
ロイドの死後もロイズ・コーヒーハウスとして取引場所は存続し、その後コーヒーハウスではなくなったもののロイズの名は引き継がれた。
これが世界有数の保険組合ロイズの起源であり、20世紀後半、ロンドンの金融街シティの中心に存在している。

18世紀イギリスは産業革命が起きるが、ただちに商業や工業で圧倒的な力を誇ったわけではなく、財政基盤もそれほど強くはなかった。
むしろ豊かさという点ではフランスの方が上であった。人口は多く農業はすすんでいて、武器生産は注目すべきものだったし、熟練した職人をかかえていた。
実際に、産業革命へ離陸しそうな兆候をみせてもいた。
フランスの税制はイギリスより進んでいたし、政府の歳入や陸軍の規模の大きさはヨーロッパのどの国より優位にたっていた。
統制を重視する政治体制ですら、政治の一貫性と安定性をます役割を果たしていたといえる。
イギリスからすれば、自国の相対的な強さより弱さを自覚せざるをえなかった。
ただ、イギリスは金融面における「強さ」があった、戦時にあっては国力を強化し、平時には政治的な安定と経済成長の支えとなった。
イギリスは、18世紀の紛争を通じて、戦費にあてられる特別財源の4分の3は借金でまかなわれていた。
そもそもイギリスには徴税請負人や取税吏などがフランスほど多くはいなかった。
イギリスではその分、公的信用制度が発達していて、効率よく長期的な資金を調達すると同時に、債務の利子(および元金)の支払いが定期的に行われる 仕組みが存在したことによる。
1894年にイングランド銀行が創設され、少しあとに国債の発行が定期的になるとともに、株式市場が活発になり地方銀行も成長。
政府と事業家の双方に多額の資金を提供するようになる。
こうした様々なペーパーマネーの成長が激しいインフレもを引き起こすこともなく、信用も損なうこともなしに実現したということがポイントなのである。
それでも、こうした金融革命が成功するには、議会が追加税収入を確保して、国家債務の確実な支払を保証することが不可欠であった。
閣僚は銀行家をはじめ大衆に働きかけ、健全な金融政策を実施し経済的に健全な政府を運営していることを国民に納得させることが出来たことがおおきい。
そこには、英国海軍が海上貿易を保護し、敵の海外貿易を締め上げている限りは安泰だったともいえる。
ともあれこうした堅固な信用の上に、1720年の「南海泡沫事件」などの出来事を乗り越えて、利子率は一貫して低下し続けイギリス国債は外国人にとってますます魅力的な投資の対象となっていったのである。
実はイギリス国債の金利低下には、1688年の名誉革命という出来事が大きく関わっている。そのことはデータをみるとはっきりと読み取れる。
名誉革命以前に金利が戦った理由は、当時のイギリス王室(スチュアート朝)が、しばしば「債務不履行」を行ったからだ。
当時のイギリス国王がしばしば「債務不履行」を宣言したのは、国家財政が脆弱だったためだ。
1649年、チャールズ1世が清教徒革命で処刑されたのも、戦艦を建造するための特別税を課し、貴族と金融業者の反発をかったことが原因であった。
清教徒革命でイギリスは共和政に移行したものの、1660年クロムウェル死後に復活した。
しかしチャールズ2世はチャールズ一世の失敗から学ぶことができず、暖炉税などさまざまな品目に思いつくまま税金を課した。
そのため議会と納税者の強い反発を招き、ついに市民たちは1688年にジェームズ2世を追放した。 イギリス議会はオランダ公ウィレムをウイリアム2世として新国王の座につけ、新たな税金を課す時には議会の同意を得ること、国民の財産を一方的に強奪 しないことを約束させた。
その後のイギリス政府は、一度も利子と現金の支配を遅らせることがなかった。イギリス王室もそれをやれば革命が起きることを痛感したからだ。
留意すべきことは、ウイリアム3世は単身イギリスに来たわけではない。
万一に備え、反対派に対抗するための1万4000人の兵士を同行させ、数万人の技術者と金融関係の人々まで引き連れてきたのだ。
言い換えると、人と一緒にオランダの思考方式と金融関係の人材まで引き連れてきたのだ。
そしてオランダ式金融が主流を占めるようになり、金融市場もそれに敏感に反映し、1690年まで10%で取引されていたイギリスの国債金利が、1702年までに6%に下がり、1755年に2.74%を記録した。
そのおかげでイギリスは他のライバル国には思いもよらない低金利で資金を調達できるようになり、これがイギリス陸海軍の戦力増強へと繋がった。
それではイギリスが輸入した「オランダ式資金調達」とはどのようなものであったか。
ひとつの疑問は、大航海時代を切り開いたのはスペインやポルトガルであるが、世界初の株式会社「東インド会社」を設立したのはオランダであった。
そのひとつの理由として、オランダが中世ヨーロッパ社会の核心である「荘園制度」からいちはやく脱却していたことがあげられる。
オランダの陸地のほとんどは、海や陸地を開拓した土地なので、貴族も教会もうかつに所有権を主張できなかったからだ。
オランダ人たちは、自ら開拓・干拓した土地を自由に売買した。このおかげでオランダ人は、伝統と宗教の呪縛から抜け出し、実用主義的なものの考え方をするようになった。
また、16世紀から続いたスペインからの独立戦争も大きな影響を与えた。
当時オランダ南部を治していたスペインが、カルビン派(ゴイセン)を抑圧し莫大な税金を課していたために、各地で反乱が起きていいて政府レベルで 海外進出を企てる余力がなかった。
その結果、オランダでは海外市場開拓のための民間資本が形成されることになり、それが「東インド会社」を生むことになる。
この東インド会社は、世界初の株式会社で資金調達の面で革新的なものだった。
そのひとつは大きな事業を行うには、「人生を賭ける」必要があったが、社会が発展し複雑化するなかで、「無限責任」の原則が事業の障害物になるという 認識が広がった。
そこで、事業に失敗しても自分が投資した分だけを放棄すれば、それ以上の責任を追及されない「有限責任」を基本とする長期の事業を営むための新たな制度、つまり「株式会社」を作る必要が論じられるようになった。
オランダの東インド会社は、アフリカの最南端・喜望峰からアメリカ大陸の西海岸に至る広大な地域で要塞を築き、軍事力を行使するなど、オランダ政府の事業を代行した。
東インド会社アムステルダム本社の初代株主として登録した人の数は1143人にものぼったので、巨大な資本金を苦もなく集めることができ、勝手な行動をする危険もなかった。
というのは所有権と経営権が分離され、重要な意思決定は選ばれた理事が行っていたし、投資家達は彼らの決定を受け入れるか、株式を売るか二つに一つしか選択できなかったからだ。
また「事業」の継続性という点でも問題を解決した
。 最初に作られた東インド会社の定款によると、21年後に清算されものだった。
それはあまり長期のもので、投資を渋る人もでるであろうから、「中間精算」の条項をいれたのだ。
設立から10年にあたる1612年に会計帳簿を整理し、会社の運営状況を株主たちに公開した後、希望者には投資した資金を回収させるというものだった。
しかしこれはむしろ取り越し苦労で、東インド会社は何度か危機に瀕しながらも株価が上昇するに伴い、多くの株主を金持ちにした。
さてこうした金融思考がオランダから持ち込まれた契機が「名誉革命」だったといえる。
イギリスでは、ドレイクがスペインから奪った金銀は、オランダから2年遅れの1602年「東インド会社」の設立に繋がっていくが、オランダから持ち込まれたノウハウにより継続性と安定性が保たれていった。
そしてナポレオンとの戦いにおいて、1805年ネルソン率いるイギリス海軍がフランスに敗れることがなかったことは、イギリスが築いた信用と資金調達能力のためであったといえるだろう。