公開資料による「迷宮の探索」

我が大学生の頃、月の満ち欠けと野球選手の打撃成績やら投手成績を比較して、「月夜の晩」に活躍する選手を調べた人がいて、それが本になっていた。
本を見て、これらなら自分でも出来るのにと思いつつ、その目のつけどころに感心した。
ちなみに、「月夜の晩」に活躍する選手として巨人軍投手・江川卓(えがわすぐる)の名が挙がっていたのを微かに覚えている。
誰もがアクセスできるデータという点で思い出すのは、同じ頃に注目されたジャーナリストの立花隆による田中金脈追求の元となったデータは「公開資料」、つまり誰でも手に入る資料であった。
総務省が出す田中関連の政治資金報告書、全国各地の法務局で会社・土地登記簿を集めて回り、角栄の金脈と人脈を隈なく洗い出していった。
、 そしてこれらのデータを元に、文芸春秋「田中角栄角栄ーその金脈と人脈」1974年11月号)で当時首相の田中を辞任に追い込んだのである。
自民党総裁だった田中が指揮した1974年の参院選は「企業ぐるみ選挙」と呼ばれた。
大企業に自民党候補への支援を要請、巨額のカネが選挙運動に注ぎ込まれ、札束がいるいろなカタチで隠されて届けられ、金権政治への疑問が世間に広がっていたことがあった。
「田中角栄角栄ーその金脈と人脈」は数々の金脈事件を暴いたというより、それらの疑惑の一つひとつを適切に結んで、金脈の全体構図を描き出し、その背後にある仕掛けを描き出すことにあった。
より具体的にいうと、土地の登記簿の中から「架空会社」をあぶり出すことだったといっていよい。
文芸春秋の「立花部屋」には約20人ほどのスタッフが働き、スタッフが集めてきたものを夕方やってきた立花が1枚1枚読み込んでいく。
その繰り返しだったが、立花の仕事でもっとも評価すべきは、権力の迷宮へと恐れずに切り込む覚悟にあったともいえる。
ちなみに、立花隆はこの時34歳、田中角栄は54歳。
田中角栄は、炭鉱国管疑獄で逮捕されたこともあり、第二審逆転無罪となったものの、でそのファミリー企業や政治団体に関しては、様々な疑惑が噂されていた。
戦時中に創業した田中土建工業を起点に、成功街道をのぼりつめた。しかし立花隆によれば、田中の資産をふくらませたのは、「実業」よりむしろ「虚業」だったのではないかと指摘する。
新星企業や室町産業といった、実体のないユウレイ企業を作って土地を買い占め、短期間に巨額の利ざやを載せて転売する、いわゆる「土地転がし」である。
長岡市の信濃川河川敷の買い占めが、角栄がらみの新潟での不明朗な土地取引の代表として知られていた。取材班は、土地登記簿の履歴をこまかく辿ることで、その実態を暴き出していったのである。
立花の下のスタッフが政治資金収支報告書に載っている、角栄系政治団体に年間5万円以上の寄付をした会社に、片っ端から電話をしてあたっていくと、大概は今社長はいないといった風に逃げられた。
しかし匿名を条件にすると、驚くほど赤裸々に政治献金のカラクリを教えてくれた会社もあったという。
例えば、上越新幹線は計画が決まった時には、もう業者が決まっていて工区割りまで決まっていたなど。
土建業者からの献金の見返りに、「予定落札価格」を漏らすなどして、田中角栄を総理の座に押し上げた莫大な政治資金の原資は、きわめてワイロ性の高い金だというのである。
新潟と東京をつなぐ上越新幹線(総工費1兆6860億円)は、田中角栄が通産大臣当時の1971年に着工している。
また、関東と日本海側を隔てる越後山脈をぶちぬき、高速道路を通す上での最大の難所・関越トンネルが策定されたのは、その前年だった。
こうした巨額の公共事業の指針となったのが、角栄が総理に就く直前に政策集として発表した、『日本列島改造論』である。
そこには本州四国連絡橋や、北海道や西九州の新幹線など、現在にまで至るインフラ整備計画がずらりと並んでいる。
田中角栄と会って話せば、懐が深くて実に魅力的だったようだ。なにしろ派閥の重鎮二階堂進は、あなたの趣味は何ですかと聞かれ 、「田中角栄」と答えたほどだった。
最大派閥のドンとしての田中の特徴は目先の損得にとらわれず、他派閥の議員にまで気前よくカネを配ってシンパを広げる。国会の警備員の名前もよく覚えていた。
田中という人物は本から学んだ理屈ではなく、経験から学んだ人生の知恵が蓄積された人物だった。
田中政治は都会と比べてインフラの整わない、日蔭の地といわれた貧しかった地方に、高度成長の恩恵を分け与えようとしたという見方もできる。
ただその政治姿勢の基本は、票と絡めた利益分配のシステムを確立することによる、あくなき政治権力の拡大にあったといえよう。
最近知って一番驚いたのは、当時の文芸春秋の編集長が、立花の原稿を抱き合わせで掲載するべく、同世代のノンフィクションライター児玉隆也に、角栄の後援政治団体の金庫番だった佐藤昭に焦点を当てた『淋しき越山会の女王』という原稿を依頼している。
そうしたのは、田中・自民党サイドに対して、カネではなく女性問題を探っていると思わせ、立花の取材活動をカムフラージュするためだったという。
立花隆は「田中金脈追求」にはじまり「知の巨人」と称されるに至ったが、2021年10月に亡くなった。

「公開資料」(裁判記録)を頼りに、権力の迷宮を探索した人物がもう一人思い浮かんだ。
久留米の有馬家に仕えた儒者のの家系から広津柳朗(りゅうろう)という一人の小説家が生まれた。
広津は、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
ソノ息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年、鉄道に関わる不可解な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが故意に何らかの目的をもって工作したことは明らかであった。こうした謎に満ちた「三事件」に共通した点は二つあった。
第一には事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
第二には、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がちらつくことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
小説家・広津和郎がどうしての裁判を終生のテーマとしたか、についてである。
広津は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津自身はもともと、三つの事件を「共産党の仕業」と思い込んでいた。
ところが、広津がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による無実の訴えの文集「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のかげりもないと直感した。
この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。陪審員の一人が、被告の青年の顔を見た時、その翳りなく表情に犯罪者とはどうしても思えなかったことによる。
しかし広津はあくまで小説家であり、刑事事件の専門家ではない。いわば素人である。
広津は松川裁判の虚偽性を暴くために、新しい証拠を見つけたり、極秘資料を探したわけではない。
広津は「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の虚偽性を追及していったのである。
裁判記録の乾ききった言葉の背後にあるなまなましい真実を暴くために、言葉の端々を吟味していったのである。
だから、広津の最大の武器は、論理的思考と文学者としての言葉に対する嗅覚であったといえる。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その調書から架空の組合員による「共同 何よりも、密室の取調べと自白偏重による判決の非論理性と非人間性を見事に明らかにしている。
広津の処女作は「神経病時代」という作品で、自己同一性を保つことのできない青年を描いている。
広津はそういう作家的な関心をバックに、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
自白を偽装して組み立てられた捜査陣の物語からいくつもの矛盾が現れた。
犯行に向かった道筋が途中で変更されたり、「謀議」に参加したとされた者が、アリバイがあるために自白の中から曖昧に消え去ったり。
なによりも国鉄から10人、東芝(松川工場)から10人と名簿の中から拾い出したような逮捕者が謀議をし、列車転覆工作をしたとすること。
そのための論理の綻びや不自然な継ぎ当てが公判で露わになった。
1963年、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告全員20人の無罪が確定した。

最近「工場萌え」という工場の重厚な構造美を愛でる工場観賞をする人々が増え、ツアーまでも組まれているという。
さて「四大公害事件」のひとつとして知られる「三重県四日市公害訴訟」の摘発は、露出したコンビナート群の読み取りがカギとなった。目視できる、いわば「公開データ」を頼りに迷宮の探索が行われたのだ。
田尻宗昭は、1928年福岡生まれ、海上保安庁に入り、釜石で巡視船「ふじ」の船長を務め、運命を変える出来事に遭遇する。
1965年のある日、猛烈な暴風雨にまきこまれ、死を覚悟した。その時、つきあげてきた思いは、何と中途半端な人生だったことか。体をはって自分をかけたことが一度もなかった」という未練だった。
奇跡的に助かり母港に帰港すると、見慣れたはずの港の景色が目に沁みるように飛び込んできた。
そして二度とあの思いをしないよう、鮮烈に生きることを決意した。
1968年7月に、田尻は三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任する。
釜石のきれいな海を見て来ただけに、ここは海ではなくドブ溜めというのが、四日市港の第一印象であった。
公害への世論の高まりも高まったものの、町内会有力者が企業に手なづけられ、反対運動が公然化することに対して強力なブレーキになっていた。
このような状況の中1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚が臭くなりはじめ、1960年に東京築地の中央卸市場で取引を停止すると通達される。
1963年には、漁民たちが実力行使に出る動きもあったが、地元の有力者の働きかけで収束し、以後漁民の運動は振るわずじまいだった。
埋め立てが盛んに行われ揚げ量が全盛期の1/4以下になった。
そうして、漁民たちは、他の漁場に「密猟」を行う他に生活の糧を得るスベを失っていた。
四日市に赴任した田尻宗昭が初期に任された仕事の一つがこの「密猟」の取り締まりだった。
しかし田尻は、取り調べた漁民から、海保は企業の手先になって取り締まりをやっておるのかといった漁民達の言葉を聞いて、田尻は大きなものを「見落とし」ていることに気がついた。
田尻は、海を汚す企業を摘発することを思い立ち、その覚悟を妻に告げた。子供はおらず、どんなに反対しても夫はやる人だからと、妻はそれを承諾した。
1969年の10月ごろに、田尻の元に石原産業の労働者とおぼしき匿名の告発電話がかかってきた。
電話は「石原産業は毎日20万トンというケタはずれた量の硫酸水を流している、しかも何年も前からだ」という内容であった。
石原産業はいちはやく四日市に進出した会社で、地元では絶大な権力を握っていて、「四日市天皇」と称されていた。
田尻は石原の摘発は相手が悪すぎると思ったものの、海上保安部の窓を開けると目の前が石原産業。その煙突がズラリとたちならんで、モクモクと煤煙をふきだしていて、毎日忘れようとしても、どうしても忘れられない。
果たして、あの厖大な生産工程のすべてを解明できるだろうかと思いつつも、ともかくも一歩ふみだそうと決意した。
そしてその気持ちを後押ししえくれる部下も現れた。
企業を裁判で訴えるためには、まず被害の科学的なデータを集めなければならない。
漁民に変装したり、釣り人に変装したりして「排水口」にちかづき、水をすくうなどして、水のPHを調べたりするなど「内偵」を進めた。
また、桟橋だけで荷役をする船が非常に短期間で冷却水系統のパイプに穴が空くといった物証を集めた。
そして海保の職員として石原産業へ立ち入りが許され、工場に入ると、長大なタンクやパイプの存在に圧倒され、しかもほとんどがカタカナ書きで、絶望的な気分になった。
もはや行き詰まったと思えた時、1人の労働者がそっと彼らに情報を伝えた。その貴重な情報と、部下や巡視艇の10人の乗組員の血の出るような協力のもとに、「汚染水」の排出路とその量を割り出すことが出来た。
問題は、それを企業が意図的に行っているかという「故意性」の立証が必要となる。
押収資料の中に、それを裏付けるメモがあったことから、ついに起訴に持ち込めると思った。しかし、検察庁の上層部から待ったがかかった。
背後に、石原側から圧力がかかったと推測され、田尻は、この問題を世論に訴える他はないと思った。
実は、田尻が佐世保時代に、地元出身の若き社会党議員石橋政嗣と面識があり、当時石橋が社会党書記長となっていた。
そしてこの「メモ」を石橋書記長に持っていった。その際に、公務員の「守秘義務」違反で処罰されることを免れないことも覚悟した。
石橋書記長は1971 年2月、国会で石原産業と通産局とのなれあい、つまり談合の事実と廃硫酸たれ流しについての爆弾発言をやり、佐藤栄作内閣の宮沢喜一通産大臣も談合の事実を認めざるをえなくなった。
そして1971 年2 月19 日、港則法違反、水質資源保護法違反、工場排水規制法無届操業で津地方裁判所に起訴手続きがなされ、日本の歴史上初めての「公害刑事裁判」が始められることになった。
田尻の方は、公務員の「守秘義務」違反で処罰されることはなかったものの、3年という短い勤務期間で四日市海保勤務を外され、コンビナートのない、木材積出し港の和歌山県田辺海上保安部へ転勤の辞令を渡された。
四日市を去る時、田尻の元には多くの漁民達が訪れ、涙ながらに感謝の思いを伝えた。
しかし、「捨てる神あれば、拾う神あり」。その後、社会党選出の美濃部亮吉東京都知事に招かれて、東京都の公害局主幹を務めた。
そして大学の講師などに招かれ、日本の環境行政の充実に大きな足跡を残している。