宗教騎士団と金融の始まり

旧約聖書によれば、イスラエル民族の系図は、アブラハム・イサク・ヤコブと続くが、「イスラエル」は神が新たにヤコブに与えた名前に由来する。
ヤコブは兄エサウを騙して長子の特権を取り上げてしまったために兄から命を狙われることになる。
兄から逃れるために、伯父であるラバンのもとに身を寄せようとしたヤコブは、ベエル・シェバから立ってハランへ向かった。
ヤコブはほとぼりが冷めるまで、ラバンのもとで20年間暮らし、ヤコブは故郷であるカナンへ帰る決意をする。
そしてその途中で天の使いと出会い「自分を祝福する」までは離さないと朝まで格闘した。
格闘が終わると天の使いは「神と戦ったのだから、名をヤコブからイスラエルへ変えよ」といった。
それは、 Isra(争う者)とel(神)の2つを合わせて「イスラエルIsrael(神と争うもの)」という意味である。 ヤコブは長年もハランの地で働くが、家畜が多く増えたにもかわらず、それらはすべてラバンの所有であり、ヤコブには何ひとつ自分のものにはならなかった。
そこでヤコブは自分が家族を養っていくためにも「山羊と羊の中からブチやマダラのあるものを報酬としてください」と求めた。
「羊は白」「山羊は黒」が普通であったため、そうでないもの(例えば黒い羊や白い山羊なども含む)は価値の低いものだったのかもしれない。
ラバンにとってヤコブの提案は結構なもので、ラバンはよほど強欲なのか、その提案を受け入れたうえで自分の群れとヤコブに手渡した群れが容易に混ざることがないように、「三日の道のりの距離」を置いた。
それでもヤコブは、その不利な条件から、自分の財産を築くべく知恵を働かせる。知恵というより信仰が奇跡をおこす。
ヤコブが神の祝福を信じることができたのは、家畜が増えたことをが自分の働きではなく神の祝福であることを確信し、そのことをラバンも認めていたからだ。
ヤコブは、ラバンの家畜を引き続き飼う仕事をする。普通、黒色のやぎは黒色のやぎを産み、白の羊は白の羊を生む。
ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。
それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがついた。
普通、やぎなら黒、羊なら白であるはずだが、 なぜか、産まれて来るものは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものばかりであった。
ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真黒いものとに向けておいた。
こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。
そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。
しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。
こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。
普通は同じ色のやぎと羊しか産まれない、しま毛のもの、ぶち毛のもの、羊は真っ黒いものばかりが、強い群から産まれた。
聖書には、「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった」(創世記32章)とある。

牛や豚などを英語で"Stock"と表現することがあるが、貨幣経済以前の社会を考えれば、その言葉が意味するところはわかる気がする。
Stockには、「家畜」以外に資本金や株券以外に「国債」という意味がある。
またそこから派生した「信用」や「評判」を意もある。
さらには、Stockは、「血統」や「種族」を意味する言葉でもある。
家畜は正確には”Livestock”であるが、日本経済の最大課題の赤字国債の累積や近年日本を襲う家畜のウイルス感染で殺処分などは、ストックの危機おいうことができる。
そして前述の「創世記」にあるラバンの貪欲さとヤコブの狡猾さなどを見ると、どこか資本主義の源流をみる思いがする。
実際、牧畜民は厳しい自然環境の下で家畜に子を産ませることで財産を増やした。
羊の頭数が牧畜民の財産を示し、羊はムギと交換できる生きた「貨幣」であった。
「子」を増やすことは「利子」を得るのと同じであり、資産運用における「利殖」に通じるものがあった。
他方で農業民は、余った穀物を不時の災難に備えて蓄えた(貯蓄)。資産はせいぜいのところ土地などの「不動産」であった。
日本人の貯蓄好き、日本企業などの過大な内部留保などは、日本が純然たる農業社会であったことを示唆している。
つまり、農耕民と牧畜民は、まったく対照的な貨幣観をもっていた。
牧畜民は、反芻により草原の堅い草を消化でき、オスの周りでメスが群居する家畜(ヒツジ、ヤギ、ウシ、ラクダ)を飼って生活しており、一家族が生活するには、羊にすると200頭が必要であった。
そこで牧畜民の財産は、動く資産(動産)としての家畜の頭が、英語で「資本」を意味する「キャピタル」の語源である。
かつて旧約聖書のヤコブはラバンの山羊や羊の群れを飼うことになるが、ヤコブはそこからさらに自分の財産を築くべく知恵を働かせようとした。
ところで旧約聖書の創世記には、モーセがシナイ山で神より与えられた「十戒」について記されている(創世記14章)。
その第十戒には「汝、貪るなかれ」、さらに細かい規定では「利子をとってはならない」とある。
またモーセの時代より1世紀ほど遅い時代紀元前19C、シュメールで作られた「ハンムラビ法典」には、金貸しが一定以上の割合を取った時には現金が没収されるという、「利子制限」の厳しい条文がある。
具体的には、オオムギの貸し付けで33%、銀で20%といった具合に。
そうした制限は、利子が貧富の差を拡大し、また規模が小さかった共同体社会に大きなダメージを与えることを防ぐために必要であったからだ。
貨幣が利子をとって自己増殖することは、貧者の没落を招き、社会の存立を脅かすからだ。
現代の資本主義はそれとはまったく逆で、貨幣の自己増殖を基礎にして社会が成り立っている。
ユダヤ教、キリスト教(原始キリスト教)、イスラム教がともに「共同体内の利子取得を禁止」しているのは、そのためである。
現代でも「イスラム世界」には銀行があるが、利子をとることはできない。
では銀行はどうやって利益をうるかというと、融資先(すなわち企業)との「共同出資」というカタチで事業を立ち上げ、利益があがったらそれを銀行と折半しているというカタチである。
しかし、ローマ帝国により故郷から追放されて亡国の民となったユダヤ人の宗教は、例外として「他民族に対する金貸し」を認めた。
それが、ユダヤ人が世界史上の代表的な金貸しになった理由である。
さて、金融業者として活躍した民族はユダヤじんばかりではない。
フェニキア人、アルメニア人、ゾグド人、客家(はっか)などがそうである。
共通していることは、いずれも強大な異民族の支配を長く受けた少数民族である。
そのために課税(固定資産税)対象となりやすい土地や建物のようなものではなく、いつでも持ち逃げできる金融資産(貴金属)を蓄え、これを異民族に貸して利子をとることで利益をあげた。
元日産CEOの故郷・レバノンはフェニキア人が本拠地とした土地であるが、北アフリカにカルタゴという都市国家を築き、一時は地中海貿易を独占するに至るが、ローマにポエニ戦争で敗れ併合されてしまう。
ゾグド人は、中央アジアのオアシス地帯(現ウズベキスタン)を本拠地とするイラン系の商業民族である。
子供が生まれると、良い商人になるようにコインを握らせ、口に蜜を含ませてカネの”おいしさ”を教えたという。
一時はシルクロードの貿易を独占するほどであった。世界史では玄宗皇帝に反乱を起こした安禄山が有名である。
アルメニア人は、トルコ東部の黒海とカスピ海との間に住む少数民族で古代アルメニア王国が存在した。
ローマとササン朝ペルシアとの間で、近代ではロシアとオスマン帝国との間で分割支配をうけたが、独自の言語・商業を保って商業民族として生き残っている。
中国でも、戦乱で中原(黄河の流域)から追われた人々が、広東省・福建省など中国南部に移動し、中国地方の古い言語・風習を維持して客家(はっか)とよばれている。
文字どおり「よそもの」という意味であるが、移住で山間部の貧しい地域に住むことを余儀なくされたために、農業ではなく商業活動に活路を見出し、「中国のユダヤ人」とよばれる。
海外に移住した中国商人「華僑」の多くは客家で、孫文や鄧小平や李登輝も客家の出身である。

ユダヤ人は、異教徒であるキリスト教徒に金銭を貸し付けて利子をとる金融業者として生きつづけたのであるが、キリスト教徒の中にも金融業者が出現する。
その始まりが「テンプル騎士団」である。
フランスの貴族が歴代の騎士団長を務め、西欧各国の王や貴族たちから土地を寄進された。
テンプル騎士団は、十字軍の時代に聖地エルサレムをイスラム教徒の攻撃から防衛し、キリスト教徒の巡礼者を保護する軍事組織として結成された。
治安が悪い時代だったので、エルサレムへの巡礼者は途中で盗賊へ襲われることが多く、現金を持ち歩くことは厳禁であった。
そこで騎士団は巡礼者の旅費を預かって預かり証を発行し、預かり証を提示されれば現金を払い戻すシステムを確立した。
その後、「預かり手数料」というカタチで利子をとった。
やがて騎士団は莫大な資金を運用するようになり、フランス王室に融資を行うようになる。
またルネサンスの時代に活躍したイタリアのメディチ家は、キリスト教世界にあって、実質的に利子をとって大発展した。
キリスト教の教義では利子をとって金を貸すことは禁じられていた。ルネサンス以降も「利子禁止」は教会法に明記されていた。
だが、商品経済の発達は金融業を生み出しつつあり、彼らは利子禁止を逃れるために様々な言い逃れや、手法を編み出す必要に迫られていた。
メディチ家は銀行ではなく「両替商」の看板で営業していた。
仮にフィレンツェの織物業者がメディチ銀行に1000フィオリーニの融資を頼んだとする。
メディチ銀行は外貨で1000フィオリーニにあたる金額を記した手形を発行する。
業者はその手形を持ってメディチ銀行フィレンツェ支店に行く。
銀行は業者に1000フィオリーニ払い出すが、そこから200フィオリーニを「両替手数料」として差し引く。業者の手には800フィオリーニしか残らないが、負債額は1000フィオリーニであるから、決められた期日には1000フィオリーニ返済しなければならない。
実質20パーセントの利息を「前払い」で取られたのとまったく同じであるが、名目はあくまで「両替手数料」で、利子は一文もとっていないという言い訳が成り立つことになる。
また、北イタリアのロンバルディア地方の「両替商」は、イギリスの中心部(シティ)にも進出し、世界の金融センターとなる「ロンバート街」を形成した。
しかし1307年10月、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕にふみきった。
異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。
異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。
このテンプル騎士団からの借金を帳消しにし、財産を奪ってしまおうとしたのが、フランス王フィリップ4世である。
フィリップ4世は適当な罪をテンプル騎士団にかけ、逮捕、殺害し、テンプル騎士団を解体させてしまう。
しかしフィリップ4世が略奪した財産はフランスにあった一部であって、ヨーロッパ各地の支店に分散されていたものまでは略奪できなかった。
1312年、教皇クレメンス5世(在位1523年~34年)はフランス王フィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式に「テンプル騎士団の禁止」を決定、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知した。
しかしフランスのアヴィニョンに法王庁をおいたクレメンス5世の本意は異なり、「テンプル騎士団」の財産はもうひとつの宗教騎士団に与えた。
その「ヨハネ騎士団」の起源は11世紀、アマルフィ出身のイタリア商人が、病人や貧しい巡礼者の世話をするためにエルサレムに設立した病院にある。
1099年の第一回十字軍でエルサレムが征服されると、病院の院長であったジェラール修道士がエルサレムでの活動を強化し、聖地へのルート上にあるプロバンスやイタリアの都市に「療養所」を設立した。
1113年、教皇の勅書により正式に承認され、病人の治療に加え十字軍国家の防衛という任務を加えて軍事部門を強化し、テンプル騎士団と並んで、エルサレム王国における最も強力な軍事騎士団となっていく。
実は、前述のメディチ家はその名前にも表れているように「メディシン=薬」で財をなした家系である。
メディチ家が、教会や公共施設に莫大な寄進を行い、建築家や画家のパトロンとなったのも、「両替商」とはいいながら、実質「利子」を取っていたことに対する「負い目」があったのかもしれない。
そのうちメディチ家はその財力(寄付)にものをいわせて、メディチ家出身のローマ教皇を生む。
その一人がクレメンス7世で、メディチ家の形成の精神とも近い「ヨハネ騎士団」の活動を支える。
「ヨハネ騎士団」は、十字軍戦役の間にキリスト教国の王族や領主の盟友となり、中東のイスラーム教徒と戦う唯一の主要な騎士修道会となったため、西欧から多額の寄進を受け、1309年よりロードス島に拠点をおく。
1444年にはエジプトのスルターン、1480年にはオスマン帝国のメフメト2世の襲撃を受けたが、騎士団はこれを撃退した。
西欧では久しぶりのオスマン・イスラーム勢力に対する勝利として騎士団の評判は高まったが、1522年、オスマン帝国のスレイマン大帝の来襲で、必死の防戦を繰り広げたが衆寡敵せず、ついにロードス島を明け渡してシチリア島に撤退した。
再び本拠地をなくした騎士団だが、教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア島の総督に毎年「鷹を贈ること」の見返りとして、マルタ諸島を譲渡した。
こうして騎士団は「マルタ騎士団」と名乗るようになる。
現在のマルタ共和国のバレッタを始めとする要塞郡は当時のマルタ騎士団によって築かれたものである。
その後、騎士団はマルタの領土主権国家として存続するが、1798年にエジプトへ向かうナポレオンがマルタ島を占領し、騎士団は追放されてしまう。
その後1834年にマルタ騎士団はローマに拠点を置くようになり、現在でも、領土はなくとも独自のパスポートを発行し、主権が存在する国家的地位にあり、国連の会議にもオブザーバー参加が認められている。